『種類と質』

 もし向日葵がバラにあこがれて、薔薇に成ろうとすれば結果はどうでしょう。もちろん元気のない色あせた向日葵が咲くことになります。向日葵がバラの花を咲かせることは不可能は努力。花を咲かせるための必要条件が違うので、むしろ自らを弱らせる行為です。

古賀ヤスノリ イラスト

 向日葵が薔薇にあこがれるとすれば、それは自分にない花の付き方や棘などに注目するからでしょう。自分と比べてそこがはるかに美しいと。しかし向日葵はバラにはなれません。もしバラの美しさを超える方法があるとすれば、それは立派な向日葵を咲かせることです。 
 立派な向日葵は見る人を圧倒します。その美しさはバラにはないもの。よほど美しいバラを咲かせない限り、立派な向日葵を超えることはできません。つまり、種類の違いに優劣などないのです。あるのは個々の質の違いだけです。種類と質は別のこと。これさえ分かれば、向日葵は立派な花を咲かせるでしょう。

AUTOPOIESIS 0047/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『決まってない世界』

 すべてが決まっている世界。それは偶然が起こらない世界。サイコロを振ったら「1」から「6」のどれかが出るに決まっている。お皿をテーブルから落とせば割れるに決まっている。人間は死ぬに決まっている。

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 もしそこに偶然が入り込んで来るとどうでしょうか。サイコロを振ると「7」がでた。お皿は宙に浮かび、人間は永遠に生きる? とんでもなくヘンな世界。面白いけど生活するのは大変そう。
 すべてが決まっていると生活がしやすい。先の予測も簡単だから安心。でも偶然のある世界の方が面白い。そして本当は、世界には偶然がたくさんある。天気予報は外れる。教科書はいつも間違いを修正される。人はつねに思うようにいかない。それって本当は面白いことではないか。決まってない世界は自由なのです。

 

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『比較すること』

 人間は比べることなしに物事を認識することはできません。例えばイエローという色は、他の色との比較によって初めてどのような色であるかが分かります。もし、全てがイエローの世界に生まれてきたら、それがどのような色かを真に知ることはできません。

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 物事を認識する前提には比較がある。大きさ、温度、味、すべてが比較によって立ちあらわれる。よって比べることは悪いことではありません。問題は比較の結果を悲観することです。例えば「周りの家より自分の家は小さい」といって嘆く。これはちょっと問題です。
 周りの家と比較して、自分の家は小さかった。これは客観的な認識です。大きさの比較をした。そして家の価値を大きさだけで判断して嘆く。これが問題でしょう。そもそも、より大きい、より多い、といった価値判断は原始的なものであり、より文化的に高度な価値になればなるほど、数量化できない価値が優勢となります。比較による認識と、対象の価値判断はしっかりと区別すると、お家が小さくても嘆くことは無いのです。

 

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『ゲシュタルト的な解決』

 ゲシュタルト心理学のように、絵を「地」(ground)と「図」(figure)に分ける考え方は便利である。例えば「モナリザ」なら、風景が「地」(ground)で人物が「図」(figure)となる。さらに将棋であれば、将棋盤が「地」で駒が「図」となる。人間だと社会が「地」であり、個人が「図」となる。この「地」と「図」は、ある比率になると反転現象を起こす。有名な二つの顔が向かい合う「ルビンの壺」は、人の顔に見えたり壺に見えたりと反転する。
 このゲシュタルト的な反転は、なかなか制御できない。さらにいつ起こるかも突発的でわからない。その意味で人間は、構造に規定されている。個人が社会の上で主体性をもって生きる。しかし段々と社会に従う領域が増えていく。そしてある時点から反転現象が起こり、社会が主体を奪い、個人は従うだけとなる。このようなゲシュタルト的反転は、同一平面上の「比」によって生まれる。

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 もしある個人が社会に主体を奪われて、自由を失っているとすればどうか。その人は生きた心地がしないし、何かに従うだけでヤル気も出ない。結果はすべて奪われるような気がする。「地」と「図」を分けて、社会から一度個人を切り離し、再度個人に主体性を獲得させるにはどうすればよいか。それは信念や根性などではなく、ゲシュタルト的な比を操作することで解決が見えてくる。
 結論からいえば、同一平面上のゲシュタルト的な比が、反転現象を起こすので、同一平面から逃れると反転が起こらなくなる。つまり平面から逃れるためには、高さを設定して立体的に逃れる必要がある。絵で言えば壺を立体的に(影などをつけて)描けば反転は防ぐことができる。立体的に描くとは、壺の「構造を示す」ということ。これを個人に置き換えると、自分自身の心理構造を(自分に)示すとこで、平面社会から立体的に抜け出すことが出来る。逆に社会の構造を示す(正確に認識する)ことでも、社会と個人を分離することができる。この解決法は心理学のようで、実際は物理学の問題だと考えられるのです。

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『アイデンティティとは』

 自分がない。どうしてよいかわからない。或いは、なにが好きかわかない。こういった感覚を「アイデンティティの喪失」と表現することがあります。自分の中に「中心軸」がなく、一貫した基準をもてない状況です。そもそも「identity」とは発達心理学者のエリクソンが言い出した言葉です。自己同一性という意味ですが、これはもともと論理学のことばです。
 論理学でいう「identity」とは同一律、つまりどのような状況下においても「AはAである」ということです。外部に影響を受けて変化することがない。このように論理上の自己同一は外部環境にたいして決して「動かない」ものです。
 しかし現実の世界は常に変化しています。宇宙誕生から銀河が形成され、惑星が誕生し現在にいたるまで、世界は変化し続けている。物理的な現実世界において動かないものはありません。人間も常に(生理的に)動いている。止まれば死です。このような波打つ現実世界の上で一貫性を保つには、「基本軸への補正」(舵取り)を繰り返す「装置」が必要です。実はこれこそが自己同一性、「アイデンティティ」です。一般に考えられている自己とは、変化を拒み自分を頑なに守ることです。これは実際の自己同一性とは真逆と言っていい認識です。

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 波の上に船が浮かんでいる。目的地へと舵をとる。大きな波がくれば舵を修正する。外からのフィードバックを取り入れ、舵取りの修正を繰り返す機構は、「サイバネティックスシステム」と呼ばれるものです。自動運転のドローンなどはこの「サイバネティックスシステム」で動いています。もしドローンが頑なに自己を閉じれば、強風に流されて墜落するでしょう。つまり自己を閉じて頑なに防衛すると、人間の精神も墜落し、心は難破するということです。
 船は波とうまく同期することで舵取りが可能となる。ドローンは風と同期することで目的地へと到達する。どちらも外部環境との「接点」を持つことで、適切な行動がとれます。この接点をもち情報を咀嚼する装置が、自己でありアイデンティティです。よってもし、アイデンティティを喪失しているのだとすれば、それは何かが欠損しているのではなく、「外部との接点を失っている」ということです。「どうしてよいかわからない」のは目的地の喪失ではなく「地図の喪失」なのです。この場合地図とは、現実あるいは客観性と言い換えてもよいものです。
 「アイデンティティの喪失」とは、現実との接点の喪失であり、地図の喪失です。論理的な「AはAである」を物理的な現実世界で成立させるためには、「環境変化」という変数を内部で処理しなければなりません。その機構は「外部との接点」を持つことによって自然に「発生」しだす。人間は自然物であり機械ではありません。植物が種と環境の適切な接点において「発芽」するように、人間の自我も「外部との接点」をもつことで「発芽」する。この意味においてアイデンティティは「化学的な契機」によって生まれると考えられます。それは、これまでの心理学が「機械論的な機構」と考えていたものを大地へと戻す視点です。当然だと信じられている学問ですら、形骸化すると環境との接点を失うのです。

AUTOPOIESIS 0043/ painting and text by : Yasunori Koga
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