『ゲシュタルト的な解決』

 ゲシュタルト心理学のように、絵を「地」(ground)と「図」(figure)に分ける考え方は便利である。例えば「モナリザ」なら、風景が「地」(ground)で人物が「図」(figure)となる。さらに将棋であれば、将棋盤が「地」で駒が「図」となる。人間だと社会が「地」であり、個人が「図」となる。この「地」と「図」は、ある比率になると反転現象を起こす。有名な二つの顔が向かい合う「ルビンの壺」は、人の顔に見えたり壺に見えたりと反転する。
 このゲシュタルト的な反転は、なかなか制御できない。さらにいつ起こるかも突発的でわからない。その意味で人間は、構造に規定されている。個人が社会の上で主体性をもって生きる。しかし段々と社会に従う領域が増えていく。そしてある時点から反転現象が起こり、社会が主体を奪い、個人は従うだけとなる。このようなゲシュタルト的反転は、同一平面上の「比」によって生まれる。

古賀ヤスノリ イラスト

 もしある個人が社会に主体を奪われて、自由を失っているとすればどうか。その人は生きた心地がしないし、何かに従うだけでヤル気も出ない。結果はすべて奪われるような気がする。「地」と「図」を分けて、社会から一度個人を切り離し、再度個人に主体性を獲得させるにはどうすればよいか。それは信念や根性などではなく、ゲシュタルト的な比を操作することで解決が見えてくる。
 結論からいえば、同一平面上のゲシュタルト的な比が、反転現象を起こすので、同一平面から逃れると反転が起こらなくなる。つまり平面から逃れるためには、高さを設定して立体的に逃れる必要がある。絵で言えば壺を立体的に(影などをつけて)描けば反転は防ぐことができる。立体的に描くとは、壺の「構造を示す」ということ。これを個人に置き換えると、自分自身の心理構造を(自分に)示すとこで、平面社会から立体的に抜け出すことが出来る。逆に社会の構造を示す(正確に認識する)ことでも、社会と個人を分離することができる。この解決法は心理学のようで、実際は物理学の問題だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0044/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『アイデンティティとは』

 自分がない。どうしてよいかわからない。或いは、なにが好きかわかない。こういった感覚を「アイデンティティの喪失」と表現することがあります。自分の中に「中心軸」がなく、一貫した基準をもてない状況です。そもそも「identity」とは発達心理学者のエリクソンが言い出した言葉です。自己同一性という意味ですが、これはもともと論理学のことばです。
 論理学でいう「identity」とは同一律、つまりどのような状況下においても「AはAである」ということです。外部に影響を受けて変化することがない。このように論理上の自己同一は外部環境にたいして決して「動かない」ものです。
 しかし現実の世界は常に変化しています。宇宙誕生から銀河が形成され、惑星が誕生し現在にいたるまで、世界は変化し続けている。物理的な現実世界において動かないものはありません。人間も常に(生理的に)動いている。止まれば死です。このような波打つ現実世界の上で一貫性を保つには、「基本軸への補正」(舵取り)を繰り返す「装置」が必要です。実はこれこそが自己同一性、「アイデンティティ」です。一般に考えられている自己とは、変化を拒み自分を頑なに守ることです。これは実際の自己同一性とは真逆と言っていい認識です。

古賀ヤスノリ イラスト

 波の上に船が浮かんでいる。目的地へと舵をとる。大きな波がくれば舵を修正する。外からのフィードバックを取り入れ、舵取りの修正を繰り返す機構は、「サイバネティックスシステム」と呼ばれるものです。自動運転のドローンなどはこの「サイバネティックスシステム」で動いています。もしドローンが頑なに自己を閉じれば、強風に流されて墜落するでしょう。つまり自己を閉じて頑なに防衛すると、人間の精神も墜落し、心は難破するということです。
 船は波とうまく同期することで舵取りが可能となる。ドローンは風と同期することで目的地へと到達する。どちらも外部環境との「接点」を持つことで、適切な行動がとれます。この接点をもち情報を咀嚼する装置が、自己でありアイデンティティです。よってもし、アイデンティティを喪失しているのだとすれば、それは何かが欠損しているのではなく、「外部との接点を失っている」ということです。「どうしてよいかわからない」のは目的地の喪失ではなく「地図の喪失」なのです。この場合地図とは、現実あるいは客観性と言い換えてもよいものです。
 「アイデンティティの喪失」とは、現実との接点の喪失であり、地図の喪失です。論理的な「AはAである」を物理的な現実世界で成立させるためには、「環境変化」という変数を内部で処理しなければなりません。その機構は「外部との接点」を持つことによって自然に「発生」しだす。人間は自然物であり機械ではありません。植物が種と環境の適切な接点において「発芽」するように、人間の自我も「外部との接点」をもつことで「発芽」する。この意味においてアイデンティティは「化学的な契機」によって生まれると考えられます。それは、これまでの心理学が「機械論的な機構」と考えていたものを大地へと戻す視点です。当然だと信じられている学問ですら、形骸化すると環境との接点を失うのです。

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『主客構造論』

 よく主観と客観という言い方をします。前者は心的な世界であり、後者は物理的な事実といったニュアンスで使われます。どちらにしろ対象となる世界は一つであり、その世界の見方の違いを区別したものです。この二つを区別することで文明は発展して今日に至っています。この二つの区別をしなかった時代、主客未分化な状態にある人々は、現代とは全く違う世界観に生きていたと考えられます。
 例えば、雷がなる理由を「神の怒り」に結びつけた。あるいは雨が降ったのは「雨乞い」の結果だと信じた。つまり結果と原因を非科学的な物語で連結していた。現代では結果と原因を科学で連結します。しかし「結果と原因」を結び付ける、という意味においては、原始的社会と現代社会は同じ理屈で生きていることになります。二つの社会の違いは「科学による接続」なのか、もしくは「物語による接続」なかの違いだけです。
 結果と原因を接続する。「~の原因があったのでこの結果になったのだ」という接続は、結果の正当化でもあります。結果が科学や物語で正当化されることで、人々は安心する。その結果がなぜ起こったのかが、まったく分からないままであれば、人々は不安なままでしょう。たとえばUFOが飛来し、人魂が見え隠れする世界が続けば、人々はその原因を無理にでも作り出すはずです。
 結果と原因の間が未確定な場合、人は原因を無理にでも作り出そうとする。人々が安心できるレベルまで、原因を明らかにしようとします。しかし、その原因は常に「人々が安心するレベル」にとどまる。日常の原因究明を「電子顕微鏡」のレベルまで作り出そうとはしない。その意味では現代社会であろうと、未開社会であろうと、原因の究明は「集団的な安心」のために作り出されるということです。言い換えると、「原因は集団の安定のために作り出される」と言えるでしょう。

古賀ヤスノリ 風景画

 これを逆側から言うと、集団はその世界観を正当化するための原因(理屈)を必要とする、ということです。原始的な社会では、雷が「神の怒り」ではなく、科学的な原因の結果だと言い始めたら、それまで集団で共有していた世界観は破堤します。彼らにとっては、物語こそが客観性であり、それ以外の視点は主観に過ぎない。科学を持ち出す人は、心的に狂っていて現実との区別がつかなくなっていると判断されてしまいます。もちろん現代では逆のことが起こっています。火を見て神の仕業だと叫べば病院送りです。しかし、どちらにしても同じ「集団的な原理」に過ぎないという認識が、真の意味での客観性だといえます。
 結果に原因を与える。そのレベルは集団を安定されるレベルと符合する。さらに主観と客観の概念も、その集団という分母に規定されている。このことから分かることは、妄想症だと判断されている人は、その人が帰属する集団(家族や家系)と現実社会(一般)の価値観にズレがあるがゆえに、「結果と原因の結び付け方」が病的だと判断されているということです。その人が帰属する集団(家族や家系)を正当化するために、その人は妄想を強いられている。つまり問題は妄想を抱く個人ではなく、妄想を個人に強いている集団にある。この視点を持たないかぎり、いくら精神病理学を適用しても時間を浪費するばかりです。主観と客観の問題は、個人の問題ではなく集団の問題だと考えられるのです。

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『時空へひらく』

「書物はそれを開かない限り書物ではない」。これは作家ボルヘスの言葉です。書物はいくらそこに内容が詰まっていたとしても、その内容が外へと出ていかなければ、存在も知られないし影響を与えることもできない。さらにボルヘスはこう言っています。「書物はひもとくたびに変化する」と。これはどういう事でしょうか。本の中にあるのは文字情報です。その情報をいつ開いても同じ内容であることは間違いありません。しかしひもとくたびに変化する。つまり読むたびに「自分にとって」内容の意味が変化するということです。
 ボルヘスの言葉は書物だけでなく人間にも当てはまります。「人間はそれを開かない限り人間ではない」。つまり自分自身を開かないかぎり人間ではないということです。開くとは「心を開く」といったところです。過度に防衛的で心を閉ざしている(怖れに屈している)限り、人間としての存在はなく、外へ影響を与えることもない。逆に心を開いて出ていけば、そのたびに自分と世界が変化していくということです。変化とは過去との別れですから、この場合は進化すると言ってよいと思います。

古賀ヤスノリ 風景が

 内容物があるだけではこの世に存在したことにはならない。いくら主観であれこれ考えても、それを外へ表現しなければ無いも同然です。外へ出すにはそれなりに勇気が必要です。私的空間やウェブ上であれば大胆になれるも、現実の世界や公の空間、面と向かった相手には何も言えないという事もある。しかし真に「この世に存在している」という実感を得るには、自分を開き(仮面をはずし)、その内容を外へ表現しなければならない。人間が世界を認識する基盤である「物理的空間」に表現する必要があります。モノローグやSNSの表現だけでは、存在が実感されるまでには至らない。不足部分が不安となって残ります。
 自分の心が実感していることを、物理的空間に表現していく。時間的、空間的な場所にだしていく。そのことで「現実のフィードバック」を取り入れることになる。その新しい情報が自己内に取り入れられ、新しい考えを作り出す。そしてそれがまた外へと表現されていく。「書物はひもとくたびに変化する」とは、書物も読み手も変化するということです。自己を時空へと表現し変化してゆくことが、本来の意味での「人間が生きている」ということなのです。

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『ローマ』

古賀ヤスノリ イラスト

 フェリーニの記憶とともに甦る“フェリーニのローマ“。それはイマジネーションの噴出の記録である。カエサルが渡ったルビコン川。そしてローマ行きの列車へ思いをはせるフェリーニ少年。彼はいつしかその列車にのってローマへと旅立つこととなる。

フェリーニの自伝的内容を、少年期・青年期・現代の三部構成で描いた記憶のカットアップ。フェリーニを巨匠にまで育てあげた街ローマ。その圧倒的なイメージの連続は、自伝的内容をこえてまさにファンタジー。自伝が幻想化していくような映画は、タルコフスキーやパラジャーノフの映画にもある。しかしその中にあってこのフェリーニのローマは特にエネルギッジュで心を熱くさせる。映画の中盤で自ら登場するフェリーニが、若者たちに語りかける言葉にこの映画の本質がよく表れている。「映画は理論ではない!」。映画が芸術であることを証明してくれる、映画史に残る傑作。

vol. 003 「ローマ」 1972年 イタリア120分 監督:フェデリコ・フェリーニ
illustration and text by : Yasunori Koga

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