「しあわせの形」

「しあわせの形」とは、もう「何もいらない」という状況のことです。この場合の「いらない」とは、物質や概念を「所有しない」ということです。概念を所有しないとは、信仰や権力といった精神的な所有を指します。所有欲が満たされたときの満足感は一時的なもので、永続的な「しあわせの形」ではありません。そもそも「何もいらない」という定義自体に反しているので、所有(消費)を手段としてだけでは「しあわせの形」を作ることはできません。
 何かを所有するということは、何かに自我を投影しているということです。その意味では自我が分裂している。それに対して「しあわせの形」とは、自我が統一的に安定している状態です。中心があって安定してブレることがない。このブレることがない状態が「しあわせの形」です。

古賀ヤスノリ いラスト

 もし「しあわせの形」が、他人に依存したり、利用したりすることで成立するものだとすればどうでしょうか。その場合は依存対象の喪失を恐れたり、次を探したりと安定することがありません。「しあわせの形」とは、自分自身だだ一人の「内面」に中心があり、他を経由することなく安定することです。それは何かの歯車で動くこではなく、惑星のように自らの軸をもって自転する状態です。
 つまり「しあわせの形」とは自己自身がそれだけで「過不足なき存在」として安定している状態のことです。違う言い方をすれば、自己自身で安定できれば、「何も必要なくなる」ということでしょう。「得たい」という気持ちが、「喪失」によって生み出されることを考えれば、自己自身を獲得していることが、欲望から解放された状態だと言えます。
 自己自身の中心軸を分裂させることなく、統一して安定させる。そのためには「自己肯定感」を大切にする。他人との比較で自分を測ることなく、自分自身の「個性」を一つの「完成形」だと理解できた時、そこに「しあわせの形」が現れます。この意味において、幸福とは個々人でその形が違い、人類共通の「しあわせの形」というものはありません。幸福の地平から見える世界は、過去の障害物が「除去するもの」ではなく、岩肌のように「ただそこにあるもの」に変わる。私たちはそこを自由に踏み越えることができるのです。

AUTOPOIESIS 0034/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『環境と進化』

 生物は環境に規定されている。つまり環境の許す範囲でしか生きられません。水棲の生き物は水という環境を離れては生きられない。逆に陸上の生物は水中では生きられない。もし適正な環境を無視して無理に生きようとすれば、生物としての組織が破壊されて死んでしまいます。これは物理的な環境の話しですが、精神的な環境にも同じことが言えます。
 考え方の違う人々が集まる場所で生きようとすると、その人の精神的な組織が破壊されていく。家庭であろうと、会社であろうと、また地域であろと国であろうと、その人の考えと違った社会があるのだとすれば、そこで無理を重ねて生きることは、究極的には死を意味します。そうでなくても精神的に荒廃していく。そう考えると、精神病などはやはり環境を大きく変えることが一つの手だということもできます。
 哲学者のバートランド・ラッセルは不幸の原因についていろいろと述べています。もちろん環境についても明確な判断を示しています。「環境が愚かであったり、偏見にみちていたり、残酷である場合は、それと同調しないことこそ美徳のしるしである」(『幸福論』)。この考え方は、日本ではなじみのないものです。日本では世間や空気がたとえ愚かで偏見にみち残酷であっても、それに従うことが暗黙の美徳になっているからです。

古賀ヤスノリ イラスト

 そもそもラッセルの意見は「個人」が幸福になる方法としての基本姿勢です。それに対し日本の美徳は、個人がなく「集団」だけを維持するための基本姿勢です。「個人は泣くが集団は生きる」という形態です。この基本姿勢は、親の表情や義務教育の行間、地域のリズム、マスコミの情報選択、広告の強調部分にまで行き渡っています。日本という国全体にわたって「個人を滅し集団を生かせ」という見えない情報の渦が形成されている。
 それが最も顕著に現れているのが、若者が年寄りのために利用されているという事実です。政治では、人生経験の浅い若者が、メディアで洗脳されて年寄りに票を入れるという仕組みになっています。これを絵画的に表現するならば「年寄りが若者を喰らい延命欲望を満たしている」という図が浮かびます。それはまさにゴヤが描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』のようなおぞましさ。「年寄りのための若者」とい環に個人など認められません。
 ラッセルは「若い人が年寄りの希望を尊重するのは望ましいことではない」「問題なのは若い人の生き方であって、年寄りの生き方ではない」ときっぱり表現しています。これは当然のことですが、個人を尊重しない日本ではなぜかこれが転倒してしまう。年寄りが若者を支配したがり、さらに若者も支配されたがっているとすら感じます。アイデンティティを喪失した若者は、どのように振る舞ってよいか分からず、命令されることを常に欲している。そこに欲深い年寄りが漬け込むという構造。
 このような環境に依存するか、劣悪だと判断して環境を変えるか。その選択は主体性が確保された個人にだけ許された権利です。もし、個人として主体性を持つことを禁止されているならば、環境を変えることなど許されない。陸上動物が水中で苦しむように、あるいは水棲動物が陸上で干上がるように、人々は既成の環境(権力内)で生きらされる。もしそこが「棄てるべき環境」であることに気づき、離れる(あるいは変える)「意思」が芽生えたとするならば、それがその人にとっての「個人の発見」であり「進化」というものなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0033/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『フィクション押し付け』

古賀ヤスノリ アクリル画

 哲学者プラトンは『国家』のなかで、国の守護者にふさわしい素質につてい述べています。そこでプラトンは、国にとっての適切な守護者とは、強いられたり、たぶらかされたりすることで、考えを変えてしまわない人だと言っています。「強いられる」とは、痛い目にあったり、苦しい目にあうことで考えを変えさせられること。「たぶらかされる」とは、快楽に魅せられたり、恐怖におびえたりすることによって、考えを変えさせられることだとしています。平たくいえば、恫喝や数による圧力に屈することなく、国のために信念を貫ける者。また、あらゆる欲望を刺激する賄賂などに影響を受けない自立した者、ということです。
 プラトンの視点でいえば、派閥優先であったり裏で利権構造を作ったりしている者は、数に怯え快楽に支配されているので、国の守護者にはふさわしくない事になります。恐怖と欲望によって作られた国家は、やはり恐怖と欲望を基盤とした世界以上のものが出来ません。国を構成する民衆も、同じ心理構造でしかあれなくなります。怖れと原始的な欲求によって操作されてしまう。恐怖と欲望によって「考えかたを変えさせられる」ことがあるのだとすれば、それは不適切な方向へ変えさせられるということです。つまり非現実的な方へ強制されていく。
 外からの圧力によって「強いられ」、「たぶらかされる」ことによって作られる非現実的な世界。それは圧力をかける側にとってのみ都合の良い世界です。これは現実的な視点からみると妄想でしかありません。しかし現実(あるいは人間性)から見ると妄想でしかないものでも、大きな力で強制すれば、独裁国家のように民衆を恐怖で支配することすら出来ます。しかしそれが人間性にとっての妄想(気違いじみた発想)であることは間違いありません。つまりいつも既成化した事実が正しいわけではないのです。むしろ正しくない事のほうが、強制的に事実化されやすい。これを一種の「フィクション(妄想)の押し付け」と考えることができます。
 「妄想の押し付け」という視点を獲得したときに見えてくる構造があります。それを上手く表現しているのがフロイトです。フロイトは『文化への不満』という論考のなかで、宗教を分析してこう述べています。「人々を心的な幼児性に固着させ、集団妄想に引きずり込む」「人生の価値を貶めて、現実の世界のイメージを妄想によって歪めるというものである」。負の国家が使う「妄想の押し付け」と、フロイトが宗教の手法を分析して得られた視点は驚くほど類似しています。フロイトはこれらの手法を反知性としています。フロイトの精神分析の基礎的な考え方を、単純化を恐れず言えば、精神病とは幼児性への固着(原始的な固着)であり、知性的進化の座礁であるというものです。
 プラトンの視点から見える国家の守護者像。それに値しない歪んだ守護者と負の国家は、フロイトの視点からは病的であると診断されます。その内訳は「怖れと欲望の支配」、その結果としての「幼児的固着と反知性」です。未来からすると決して賞賛される時代ではなくとも、放っておくと何百年も続いてしまう。そんな時代を「美しい国」などと言い換えても、その正当化自体が「恥ずかしい時代」だったということになるのでしょう。しかし妄想であることに気づいた瞬間から、わたしたちは真っ当な現実に戻ることができるのです。

AUTOPOIESIS 0032/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『長いものに巻かれる』

古賀ヤスノリ アクリル画

 「長いものにまかれる」で生き残る。これは日本という島に蔓延した生き方です。しかしこの選択が「消極的な生き方」であることは間違いありません。消極的というのは主体的でないということです。もちろん主体的でなくて構わないという考えもあります。しかし人間が狂う時は、必ず「主体性の喪失」と「自己制御不能」に陥ることが原因です。
 つまり主体性を欠いた生き方を続けていくと、最終的には人間は精神病になるということです。「長いものにまかれる」ことを積極的に選んでいるという人もいるかもしれません。服従を自ら選んだと。しかしこれが「弱さを隠蔽するための自己正当化」でしかないことは明らかです。
 そもそもこの「長いものにまかれる」という言葉は、「倫理を無視して」という前文が省略されているようです。もしそうでなければ、こんな言葉自体が存在しないはずです。つまり「長いものに巻かれる」は「正しさより保身」と言い換えることができます。これを社会がどこかで推奨している。若者は、義務教育の過程で「倫理を大切にせよ」と言われ、社会に出た途端に「長い者にまかれろ」という欺瞞にさらされる。このダブルバインドが原因で、統合失調症になる若者もいるのではないでしょうか。
 もちろん、時と場合により「正しさより保身」でしかあれないこともあるでしょう。しかし、それは「苦肉の策」としての「最終手段」であるほうがいい。基本は保身とのせめぎ合いで倫理をなんとか守る。そうすることで社会は正常に機能していくことになります。エネルギーを正しい方向へ注ぎ、良い構造を安定させていく。「正しさより保身」で安定される構造は、必ず内部のエントロピー(混沌)が上昇します。
 「長いものにまかれろ」あるいは「正しさより保身」という気持ちは、そもそも親との関係でインストールされたプログラムではないかと推測されます。どこまで行っても無自覚に親を投影して怯えながら暮らす。結局「長いもの」とは親のメタファーなのでしょう。
 既成の権力や動かしがたい構造を前にして、本来の自分を押し殺し「セーフモード」で自己防衛をする。選択を迫られた時は付和雷同。その結果がどうなるかを考える「想像力」すら禁止されている。自ら選んだはずのセーフモードは、やがて不可逆的な「アパシー」をつくりだします。そして「何もしないこと=保身」となって無気力になる。
 人間が他の動物と違うところは、文化を持ち得ることです。「低いレベルの欲求」を自ら抑制する自由を持ち、それに代わる「文化」によって人間の種全体を守っていく。個々が自己保身のために足を引っ張り合い、ボス猿に怯えながら暮らす社会は、ただの獣の社会です。私たちが積み上げてきた文化が、新しい次元を示唆しはじめた現代において、「権力」という古い欲望装置だけが、人々を「獣のレベル」にとどめようとします(民衆の家畜化)。「長いものにまかれる」という選択が反文化であり、獣の社会以上のものを生み出せないことは自明です。「長いものにまかれる」という生き方は、結局は「家畜の生き方」なのです。

AUTOPOIESIS 0031/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『重複なき役割』

古賀ヤスノリ アクリル画

 ある脚本が採用されて登場人物(役割)が決まるとします。そうすると、その脚本内での「役割の重複」が出来なくなります。例えば、誰かがロミオ役になれば他の人はロミオになれない。必然的に別の役になるしかありません。これは脚本内の役割関係の話しですが、普段の生活の中でも役割関係による「重複の禁止」があります。
 例えば先生に対する生徒。これは「教える、教えられる」という関係上、両方が同時に教えることはできません。もちろん教えることが結果的に相手から学ぶことになる事があります。しかしその場合でも、時間的に重なってはいません。役割が転倒するだけです。そもそもこの役割によって結ばれた二つは対立概念です。資本家に対する労働者、親に対する子、正常者に対する異常者といった具合に。この二つは関係によって成立しているので、片方がなくなると、もう片方もなくなってしまいます。
 そもそも関係とは相手なくして成立しないものです。その意味では依存的な構造を持っています。たとえば権力者が権力者でありえるのは、「被権力者による支え」があるからです。逆にいえば被権力者は権力者に依存することで、被権力者に甘んじることができる。この表現はおかしいようですが、実際の構造として存在しています。司馬遼太郎さんは、この被支配者に甘んじる状態を「奴隷の気楽さ」と表現しました。
 単純な対立構造と違って、脚本の世界は役割(登場人物)が多様です。しかし一人として役割の重複はありません。すべての役割が全体にとって重要な構成要素となります。つまり重複していないからこそ、重要な要素なのです。代用がいくらでもあるのであれば、それは重要な要素ではないでしょう。
 人が一つの人生を終えたとき、それは一つの脚本が完成したことに相当します。その時、自分という主人公が、自分以外には出来ない役を演じていたのか、それともみんなと同じことしかやらなかったのかどうか。それによって人生という脚本に対する「自己自身の重要性」が決まります。代用がきく役でしかなかったのであれば、自分の人生であるにも関わらず、重要な役を演じようとしなかったことになります。それは「脚本全体との関係を失った役」だったとも言えます。
 役割は重複できない。なぜなら全体に対して、取り換えの効かない構成要素だからです。もし、取り換えのきく要素なら、全体との関係を持つことができません。取り換えのきく要素へ同化し、全体との関係を喪失した存在は、「不思議の国のアリス」の舞台裏で出番を待つ「トランプの兵隊」のように匿名的です。しかしその安心感は偽物でしょう。なぜなら舞台裏で「トランプの兵隊にまぎれ込む主人公」という脚本がそこにはあるからです。実際はどんな人であれ、一人として同じ人間はいません。どんなに嫌でも「自己脚本の重要な主人公」でしかありえない。これをサルトル流にいえば「人は主人公という刑に処せられている」ということになるのでしょう。

AUTOPOIESIS 0030/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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