『なぜ生きているのか』③

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 答えは問いのなかにある。そして「綺麗な問い」を創ることが答えとなる。そのために問いを洗練させていく。さらに洗練のために、問いにある「意味のレベル」を確定する。これがこれまでの論考の流れでした。では「なんのために生きているのか」という問いの「意味のレベル」を確定してみましょう。
 「意味のレベル」には生物的、個人的、社会的、という仮の分類を前回示しました。一般的なニュアンスからいって、「なんのために生きているか」という問いは、生物的なレベルではなく、個人的問題に属する問いです。もちろん社会的なことも関わってきますが、社会の最小単位は個人であり、個人の問題抜きに社会が成立することはありえません。よって今回は「個人的な意味のレベル」に確定します。
 すると「なんのために生きているか」とう問いは「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」という範囲に限定されます。社会的なものを一端外へ出してしまい、純粋に個人的な世界での問題です。①「私は」②「いかなる個人的目的」③「のために」④「生きているのか」と分解すると、②が分かればこの問題は解けそうです。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも③「のために」とう前提をそのまま受け入れてよいのか。自分が何かのために存在するという暗黙の前提が、この言葉にはあります。言い換えると「ただあるがままで存在する」だけでは不足である、という立ち位置です。もしただ存在しているだけで満足であれば、③「のために」は問う必要がない。人間以外の動物はこの状態にあるように見えます。しかし「問い」という性質自体が「意味」を求めるのであり、「問い」を発する人間という動物は、やはり生きる意味なしには納得できない存在かもしれません。
 人間は何かのために存在することでしか納得できない動物である。それは意味である。さらに個人的な意味である。その意味は②「個人的目的」によって生まれる。「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「生きる意味はあるのか」といった問題は、すべて意味と目的を欲する人間に付きまとう問題です。それは「ただ生きているだけ」という、物質をエネルギーにかえて生きている「生物的なレベル」では満足できないという問題。よってこの問いを洗練させていくには、社会的なものだけでなく、物質的なものも全て、一度除外しなければならないのです。

AUTOPOIESIS 0073/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『なぜ生きているのか』②

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 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、答えのない問である。よって問いに従って答えを探そうとすると、答えは見つからない。よって答えではなく「問い」をより良いものへ洗練させることで、そこに答えを見出す。これが前回見えてきたものの見方です。では一体どのようにして問いを洗練させればよいのか。
 そもそも洗練とは何か。洗練とは不必要な部分を削り取り、より完結で明確なものへ仕上げていくこと。それは部屋を綺麗に掃除するようなものです。埃やゴミなどの不必要な要素を捨てて、物質を用途に合わせて整理する。これに習い、問い中から不必要なものを排除して、機能に合わせて整理整頓すればよいわけです。
 まず「なんのために生きているのか」という問いに不必要なものはあるか。それを発見するためには、この問いのそもそもの意味を把握する必要があります。「生きている」とはいかなることか。この「生きている」には複数のレベルの意味が混在しています。生物的な意味、社会的な意味、そして個人的な意味などです。そして「なんのために」にもおなじ複数の意味が重複混在している。生物的、社会的、個人的な目的です。
 そこでまず、「なんのために」の前に「社会的」という言葉をつけてみます。「私は、“社会的な”何のために、生きているのだろうか?」。一見して前より複雑で分かりにくくなりましたが、掃除が完了する前は一度散らかるものです。先の問いを別の言い方で言うと、「私はいかなる社会的目的のために生きているのかしら?」となります。「社会的」を「個人的」に変えると、「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」となる。「なんのために生きているのか」という問いは、一見して明確なようで実は、このような複数の問いが重なっている。これは「なぜ生きているのか」という問いも同じです。よって問いの洗練に必要不可欠な作業は、「意味のレベル」を確定するということなのです。

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『なぜ生きているのか』①

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 なんのために生きているのか。自分に生きている意味はあるのか。このような問いを自分自身に投げかける時がある。早い人では小さいころにそれを考え始める。あるいは思春期に、あるいは大人になって目的を達成したあとに。「なぜ生きているか」といった根本的な問いは、一般に「答えの出ない問い」だと言われています。しかし問えるのであれば、やはり答えがあるのではないか。
 答えのない問いは「問い」なのか。いや、答えがあるからこそ問いがある。ただしその答えが一つでない場合もある。「なぜ生きているのか」という問いの答えは、直感的にいって一つではなさそうである。ハイデガーという哲学者が「問いの中には既に答えがある」という事を言っています。つまり答えが無意識にでも分かっているから「問い」を作ることが出来る。
 「問いは答え」だとすると、「なぜ生きているのか」という問いの中に答えがある。もしよくわからない場合は、問いの立て方に問題があるのかもしれない。評論家の小林秀雄は「上手い問いを作ればそこに答えがある」と言っています。やはり問いと答えは表裏一体であり「綺麗な問いは答えである」と言えそうです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「どのように生きるべきか」。このような根本的な問いの答えは、答えを発見しようとすると出てこない。「答え」ではなく「問い」の方を洗練させていく。つまり答えとなりうる「綺麗な問い」を探す。ちょっと分かりにくくなってきましたが、とにかく「問い」に従って答えを探すのではなく、前提となる「問い」を、より良いものにしていく。問いに支配されずに自分が問を「創る」。どうやら根本問題の答えは、クリエイティブな作業によってのみ、見出されるようです。

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『植え替えの時期』

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 鉢植えの植物を育てる。陽の光と十分な水を与えることで、植物は葉を広げどんどん成長していきます。それとともに根っこも伸びていき、水や土から栄養をたくさん吸収するようになる。しかしやがて根が充満するときが来ます。もしそのままにしておくと、その植物は調子が悪くなり、最後には枯れてしまいます。成長することが自分の存在を殺してしまうというパラドクス構造が出来たからです。
 植物が成長すればするほど枯れてしまう。このパラドクス構造を作らないようにするためには、根が充満するまえに、より大きな鉢へ植え替える必要があります。根が成長するために必要な空間(余白)を作り出すということです。鉢に根以外がない状態(自分で充満した状態)では栄養を吸収することはおろか、自分によって押しつぶされてしいます。それを回避するために、外部世界を広げる必要があるということです。
 より大きな鉢へ植え替える。あるいは庭へ移し替ええる。そうすると根は自らを押しつぶすこともなく、肥沃な土壌から水と栄養をたくさん吸収し、元気に育っていく。成長することで自らを殺すということもありません。このように一つの方向への発展には必ず限界があり、発展を続けていくためには、外部世界を適切に変えていく必要があります。これは人間も同じで、揺りかごで永遠と過ごすわけにはいかないのです。
 実はこれは、物理的なことに限りません。一つのものの考え方、あるいは行動や計画は、ある時期まで有効でありながらも、ある時期からは前進が自らを圧殺する方向へと向かいます。いわゆる形骸化という言葉は、この発展の折り返し点をすぎたという意味です。考えや行為の有効性が感じられなくなった時は、植え替えのサインです。植え替えとは自己を包み込む空間を広げるということ。つまりそれは自己の世界観を押し広げるということです。
 自己の世界観を広げるということは、言い換えると、今まで取り入れてこなかった(或いは避けてきた)考え方や発想、価値観などを取り入れるということです。そうすることで、「これまで通り」の継続が自己を圧殺する、というパラドクス構造を回避できる。もちろん慣れ親しんだ状態や環境を変えるにはエネルギーや勇気が必要です。怠惰の病がそれを邪魔することもある。しかし環境をかえなければ自己が押しつぶされることは確実です。
 植え替えのサインとともに環境を変える。物理的には場所を移動してより自由で余白のある空間に身を置く。精神的には、これまで避けてきた新しい考え方や価値観を受け入れ、自分の世界観を押し広げる。それに必要なことは、重い腰をあげるエネルギーと勇気です。形骸化が進めば負の構造から出ることが難しくなる。慣れ親しんだ世界と心中するよりも、次の世界でのびのびと成長する方を選ぶ。この天秤をイメージして未来に賭ける勇気があれば、そこに見事な花が咲く可能性があるのです。

AUTOPOIESIS 0070/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『フロリクス8から来た友人』

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「たぶん、ぼくは、ぼくたち自身のプロパガンダの犠牲なんだ」(フィリップ・K・ディック)

【あらすじ】

 高度な知能を有する<新人>と、テレパシー能力をもつ<異人>たちが支配階級を独占する22世紀。残る60億の<旧人>は、改ざんされた試験制度により、政治機構への参加が不可能となっている。飽和した構造を打開すべく、助けを求め宇宙へと旅立ったトース・プロヴォ―二。一方、救世主の降臨を待つ<旧人>のひとりニック・アップルトンは、黒髪の少女チャーリーに出会い、最高権力者の<異人>ウィリス・グラムと遭遇することになる。高度な文明をもつフロリクス星系人と巡り合ったプロヴォー二は、地球へと帰還する。その阻止をたくらむグラムは、<新人>の最高知能者エイモス・イルドに助けを求める。彼ら支配体制の抵抗をよそに、フロリクス星系人は、硬化した支配構造を、特殊な技術によって解体していくことになる。

外部からの解決

 飽和に達した構造は、内部からの修正が困難となる。身体が機能不全に陥り、新陳代謝が硬化すれば、あとは外部から人工呼吸器などの助けが必要になる。22世紀が舞台のこの物語も、<新人>と<異人>が交互に支配階級を占める構造が飽和に達している。これは民主主義や二大政党制の末路を暗示するもの。それらの体制が飽和に達した後は、外部からの助けなしには正常化出来ないことを示唆している。
 未来社会の政治的限界に対して、ディックが示したの解決策は「高度な文明を持つ知的生命体に助けを求める」というものである。地球では他の追随を許さぬ<新人>と、人の心を読む<異人>が、大多数の<旧人>を支配している。その構造を破壊するには、現状を超える文明と知性が必要なのである。
 大きな物語が進行する過程で、主人公ニックが日常を放棄せざるを得ない流れに巻き込まれる。彼はコンピューターがはじき出した「最も一般的な旧人」だった。つまり彼の振る舞いが<旧人>の振る舞いの代表でもある。彼は知的生命体とプロヴォ―二の「降臨」を待つだけの人生であり、ディックはそれを「信仰」に近い形で描いている。奇跡を信じて待つだけの<旧人>たち。実際にキリストと聖書を暗示する記述が随所にみられる。
 最も一般的な<旧人>である主人公。その平均的な生活を破堤へと誘う黒髪の少女チャーリー。彼女の存在によってニックの飽和した日常は破堤するとともに、動きに満ちたものへと変わる。あらゆる平均化したものが破壊しつくされた「最後に残るもの」がこの小説で描かれている。不可能を可能とするフロリクス星系人は、いったい何を暗示する存在なのか。それは一般化されることなく、個々人で直観することをディックは望んでいることだろう。

028『フロリクス8から来た友人』フィリップ・K・ディック: Originally published in 1970
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『isonomia』

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