『有機的共同体』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、人は同じ趣味や考えの人たちと同質の集まりをつくります。同質傾向の集団は安定するので当然だと言えます。しかしあまりに同質すぎると、個々の違いが溶けてしまい、一つの水溜まりのようになります。またこの安定は、外部からの異質を受け付けないことで維持されるので、発展の要素に乏しい側面をもっています。
 よく海外に長期滞在したひとが、日本人の集まりにばかり顔を出し、その国の人たちと接点を持たない人がいます。この例は、同質傾向の「保守的なデメリット」が、わかりやすい形で現れています。これに対して、全く違った傾向の人たちとの集まりが、安定した形で存在できればどうか。お互いに影響を与え合い、相乗効果と相補性により掛け算的な発展があります。しかも水溜りにはならない。
 異質なもの同士を安定させるには、同質傾向の集まりよりも、はるかに高度な指標を必要とします。それには個々が集団に依存せずに、各自がソロでやれることが前提条件です。さらに即興的な協力関係にも対応できる。言うなれば個々の役割が固定化されたクラシックに対して、それぞれがソロプレイヤーでありテーマにはいると即興的に全体に参加するジャズのような「有機的共同体」です。異質傾向の共同体は、個性が溶けることなく全体と関係をもてる、高次元の共同体なのです。

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古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『成熟と回復』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 生きているとたまに受け入れ難いことも起こってきます。そこでその経験を否定(抑圧)する。そうすると逆に心はそこに留まり、自然な心の流れを阻害するようになります。否定は肯定できないからで、肯定するには心の強さが必要です。よって何年も経ってから、過去が肯定できるようになる、ということはよくある事です。過去の経験にたいして受け入れの拒否を行うと、強いこだわりとしてその地点から「心的時間」の流れが止まってしまう。「物理的時間」は流れているので、この二つの時間の流れの乖離が大きいほど、心的な問題は深いと見ることができます。
 心的な時間が、ある地点での受け入れ拒否により止まってしまう。しかし物理的にそこから何年もの時間を経て、心が強くなり改めて受け入れが可能になる。すると、止まっていた心的時間は動き出し、今現在、進むことができなかったあらゆることが動き出します。車のタイヤが1箇所だけでもパンクしていると動けなくなるように、経験の一部に否定があると、全体がうごかなくなる。心的な肯定(受け入れ)は、パンクを直した状態に相当します。
 心的な強さを獲得することで、自己を守るために否定し、置き去りにしていた経験を肯定できるようになる。そして置き去りにしていた自分の心もまた、肯定できるようになり動き出す。これは過去の経験に対する「意味の再解釈」ともいえるし、「新しい価値の付与」ともいえます。今現在の前進にブレーキをかけている「過去の否定感情」は、自己防衛の強さ(心の弱さ)と比例関係にあり、「否定の解除」には精神的な成熟を必要とします。失われた時は、自己の成熟によって必ず回復する日がやってくるのです。

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『中心軸について』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 人は何かの軸をつくり、それを中心に生きることで安定します。例えば規則正しい生活であったり、趣味であったり思想であったり。なんの基準もなく好き勝手を繰り返すと、不安定になり最後は破堤(カオス化)します。コマが回転することで安定するように、ブレない中心が必要。もし中心がブレてしまうと、回転は楕円を描き不安定になっていきます。あるいは軸をたくさん持っていて、そのつど替えるとすると、回転を毎回止めることになります。全体を一つの中心軸に沿わせないと、どうしても非効率で不安定になってしまう。
 もちろん軸がなくても生きてはゆけます。他の動物たちは軸をもたず、かわりに本能という基準に従い生きています。フロイトは、人間は本能の支配から自立へむかうがゆえに不安が発生すると言いました。よってこの不安こそが人間の証であり、本能支配へ逆もどりしないためにも、自分を律する軸が必要です。好き勝手に動かないように、自分が選んだ軸にそって自己を制御することで、初めて「人間としての安定」がある。
 中心軸になるものは、本能のレベル(生活)以外の、いわば本能を抑制し、制御する行為によって作られます。たとえばスポーツをする。段々と上手くなるのは、好き勝手を抑え、ルールをかりて自己制御が可能になった証拠です。また絵などの芸術でも同じです。運動や芸術に不可欠な基準は、ビジネス書などにあるようなルールと違い、人間にとってより普遍的なものです。なので自己制御のための基準として優れています。中心軸はやることの一貫性をたもち、分裂やカオスへむかう流れを抑えてくれます。一つの主軸を決定し力強く回転することで、全体が倒れることなく、長期的に安定するのです。

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『ハードルの受け入れ』

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 物事に飽き飽きするという現象がときに起こります。同じ料理ばかり食べていると飽きてしまうし、同じ風景ばかり見ていると別の風景を見たくなるものです。このように人は同じ状況にたいして永遠とは耐えられない。経済学にインフレーションという概念がありますが、まさにありすぎて価値が下がってしまうということです。
 ありすぎると価値が下落してしまう。別の言い方をすると、簡単に手に入るものや、一般化してしまったものには価値を見だせなくなる(これは「一般」に依存することの代償です)。あるいは誰もが持っているものに価値を感じない、というこのです。よってただで手に入るものは価値を見出せないし、大事にできない。いまや情報はネットで簡単に手に入るので、情報に価値を見出せない時代です。
 逆に価値を見出しやすいものは「手に入りにくいもの」(希少性)です。つまり自分自身のインフレーションが起きにくい性質のもの。別の言い方をすると、獲得するために「努力を要求するもの」です。入手に手間がかかると共に、自分だけの個性とマッチするものがあれば、それこそ本質的に「自分にとっての価値あるもの」(価値の下がらないもの)です。ヤル気や面白さ、あるいは納得は、自分に合った“程よいハードル”(自分の目標)を発見し、それを受け入れることで維持されるのです。

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『研究と表現』

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 研究とはまだよく分かっていないことを、認識し整理して再現可能なものへ変えていくことです。なので誰もが分からなかったことを、誰にでも分かるようにまとめられた研究は、それだけ価値があることになります。しかしリスクもあり、長い年月をかけても結果が出ない場合もあります。よって保守的な研究者は、分かっていることを集めて整理して研究としがちです。
 分かっていることを並べ替えたり、言い換えたりすることで新しい結果とする。研究であれ表現であれ、この手法は一見新しい結果のように見えます。その性質上、他人にも分かりやすい。しかし実質は「同じ枠内」の変化にすぎません。それに対し本当の研究や表現(創造)は、「枠の外」というまだよく分かっていない領域を探求するものです。もしそれが本物の研究や創造であるか、という区別をつけるとすならば、「枠内」の反復か「枠外」の探求かが一つの基準となります。
 印象派のモネにしても、ウィーン分離派のクリムトにしても、最初はアカデミズムという枠内で表現していました。しかし段々と窮屈になり、枠外を仲間と探求し、表現して自分のスタイルを作り上げました。これは良質な学者の研究と同じです。歴史的に評価されているものは、常に反アカデミズムの性質があり、形骸化した枠を取り壊す重要な役目を担っています。もちろん抵抗する側もいますが、歴史は彼らを必ず退けます。真の研究や創造とは、形骸化したアカデミズムに気づき、その枠の外に広がる可能性を探求することなのです。

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