『争いのない次元』

イラスト こがやすのり

 競い合う、あるいは競争。これは相手があって初めて成り立つ概念です。完全に独立(自立)して、他は意に介さずであれば競う方向へは至らない。ゆえに競う(張り合う)ことへの欲求は「他者依存」という深層心理学的な分類に押し込まれる状態ともいえます。たとえばパン屋さんが近くに数件あったとして、同じ種類の商品を売り出すと競争になる。これはわざわざ他のパン屋さんに近づくという依存した手法です。しかし結果的に競争にならない状態もありえます。それはパン屋さんの内容(商品の種類)が重なっていない状態です。
 それぞれの個性がはっきりしていて、重なっていなければ、同じカテゴリーでも競争にはならない。「同化傾向」の逆数へ向かえば資本主義経済すら一挙に止揚されることになる。その状態は高次のレベルにあるがゆえに、現在の競争社会がいくら最先端のテクノロジーで動いていたとしても原始的な状態であることは明らかです。原始的な状態は共依存を続ける状態。これが高次の関係(社会)になると、お互いが独立した「協力関係」が生まれます。お互いの弱点を補い助け合って、競争は極限まで回避されていく。
 競い張り合うことへの欲求は、自分の発想では立ち行かないがゆえの「真似(擬態)への欲求」とみることができます。競争心の根底にあるのが真似や擬態への欲求であり、その原因を分析するとマザーコンプレックスに行き着きます。争いという勇ましいイメージとは裏腹に、究極の心的依存状態がパラサイト的な心理を発症させる。この傾向は社会が高次へ向かう流れを邪魔していることは明らかです。これからは、他とは重ならず、お互いの固有性を尊重できる(同化を好まない)人々が、無意味な競争から解放された「自由な社会」を作っていくことになるでしょう。

AUTOPOIESIS 222/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『蝶という変化』

イラスト こがやすのり

 蝶は最初はイモ虫の形をしています。餌にありつくまで直進を続け、栄養摂取を繰り返していく。しかしある時その仕事を完全に放棄して全く動かなくなります。イモ虫は硬い殻に覆われたサナギへと変化し、活動が停止したかに見えます。しかし硬い殻の中では体が液体となって形を組み替える「内的変化」が活発に行われます。これは活発だったイモ虫以上に大きな活動(変化)であるということができます。
 人間もこれと同じ所があります。繰り返しの活動は活発にみえる。しかし別の視点から見れば「内的変化」という重要な仕事に着手する前段階にとどまっているとも言えます。逆に外から見れば活動がほとんど止まっているように見えても、実は「内的変化」のために全てのエネルギーを抑制している段階ということもあります。つまり「大きな変化」のためのサナギの時期に来ている。よって外からみて動きがないからと、サナギの殻を破ると大変なことになります。
 蝶はサナギの時期を受け入れることではじめて蝶になることができる。もちろんその前にはイモ虫の時期も必要不可欠なプロセスです。サナギの期間は非生産的にみえるだけに、本人も周囲も早まって殻を破りがちになります。サナギの期間を耐えて待ち続けるには、理屈を退けて直感的に「未来の可能性」を信じる必要があります。非生産的な道の先に、超生産的な発展がやってくる。この矛盾を受け入れるには、それまでの理屈をすべて捨てなければなりません。しかしそれこそが進化というものなのです。

AUTOPOIESIS 221/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『本当に好きなもの』

イラスト こがやすのり

 自分は何が好きか。たとえばテニスが好き。あるいはフランスが好き。このように対象がハッキリしたものは好き嫌いを明確にしやすい。でも「あなたはどのように生きるのが好きですか?」と問われたら少し考えてしまう。この問いを縮めると「どう生きますか?」となります。これは「なぜ生きているのか」という本質的な問いと繋がりがあるので、簡単には答えが出ません。普段から小出しに考えていないとすぐには見えてこない。
 物質や名詞的なものの好き嫌いはハッキリさせやすい。しかし、より深くて曖昧であるが重要なものは判断が難しい。そういったことは普段考えないようにして生きているともいえるし、既成の流れに従うことで考えることを避けているとも言えます。しかし人生の重要な局面では、深い問いに応えないと先へ進めない時がある。そんな時に深い判断に慣れていないと局面がこじれてしまうこともあります。
 本当は自分はどう考えているのか。これが好きだから選んだけれど、本当はただ周囲に合わせて選んでいるだけかもしれない。本当は人の判断をまねているだけなのかも。こういった考えの層をかき分けて、純粋な自分の価値判断を発見していく。本当に好きなものは心の奥底に眠ったままかもしれない。それを知ると面倒になる、とどこかで分かっている場合もあります。しかしながら「本当に好きなもの」を無視せず認めて進むほうが「自分らしく」あれる。たとえそれがいばらの道であったとしても「納得が得られる道」であることは間違いないのです。

AUTOPOIESIS 220/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『個性と運命』⑤

 過去への執着を捨て、未来への好奇心が発動する内的環境をつくりだす。そうすることで狭い自己から脱出し、外から本当の自分の姿(個性)を眺めることが出来るようになる。ニーチェがいう「自分の運命を愛しなさい」という言葉に従うとすれば、このようなプロセス(自分の個性を知りそれを受け入れる)という内的な流れが、自然な川のように過去から未来へと絶えず流れ続けている必要があります。
 この過去へのこだわりから解放され「真の自己」を受け入れ自由になるというプロセスは、フロイトが精神分析とともに作り出した「心の病を回復させるプロセス」と良く似ています。偉大な哲学者であるニーチェはこのプロセスを、直感的に一言でいい表したのかもしれません。過去への固執は、心的な傷が原因であり、未来への一歩に躊躇するのもまた同じ理由だと考えられるのです。
 自分のことは自分が一番分かっている。だれもが暗黙にそう考えています。しかしもしそうであるならば、どうすれば自分にとって一番良いのかも熟知しており、それぞれが幸福な状態にあるはずです。しかし現実はそうではありません。自分のことは自分が一番分かっていない可能性がある。だからこそ自分を知るための行為が必要です。そしてその行為として生まれたものが「芸術」です。川の流れのように制作を続けることで、過去から未来へと内的環境を滞りなく循環させる。自己表現により「新しい自分」を知り続けることが「個性と運命」を受け入れる大きな手助けとなるのです。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」  鴨長明『方丈記』

AUTOPOIESIS 219/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『個性と運命』④

 自分自身の外へ出るためには未来に対する好奇心が必要である。過去にこだわりすぎると、未来へ好奇心を抱く機会が失われてしまう。これはつまり自分の中に入り込むことと、過去に固執することは関係があるということです。さらに言えば自分に閉じこもるということは「過去の自分」に閉じこもるということでもあります。
 自分から脱出し外から自分の個性を眺めるには、過去ではなく「未来の自分」に開かれている必要があります。はじめて地球の外へ出ようとした人たちは、宇宙への恐れよりも好奇心のほうが勝っていた。極端に言えば「どうなってもいいから外へ出てみたい」と思った。これは過去に固執して過度に防衛することとは真逆の心理です。外部への第一歩はつねに損得を超越した「好奇心」としか呼べないものが大きな原動力となります。
 未来を考える時、そこに過去はありません。同時には考えられない。未来への好奇心へ向かうときは過去を捨てている。燃料を燃やして進むように、過去を切り捨てて(あるいは受け入れて)未来へと進む。つまり自分自身の外へ外へと進むことと、過去に分かれを告げて未来へ踏み出すことは重なっているということです。自分という殻から脱出するためには「過去への固執」を振り切り、「未来への好奇心」が発動する内的環境を整える必要があるのです。

AUTOPOIESIS 218/ illustration and text by : Yasunori Koga
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