『認識論』

 視覚的な発想と言語的な発想の違いはどごにあるのか。視覚的な発想は、現象学的なものであり言語以前の認識と関わっている。視覚情報も言語的に把握されて始めて認識に至るという考え方もあるが、そのような「言語的視覚認識」以前にある、純粋視覚認識(=現象学的認識)が視覚的発想の材料である。それは抽象的なレベルでのトポロジカルな、あるいはゲシュタルト的な発展を誘発するシグナルである。人は今だ言語的な認識以前に、このような純粋視覚認識よる抽象的な対象化を行い、言語認識の土台としている。
 これに対し言語的な発想は、純粋視覚認識によって捉えられた抽象イメージを出発点とする。抽象的な土台の上に合致する言語を置き、その後はその言葉を抽象イメージの代わりとして代数的に利用する。言語は記号であり純粋視覚的な抽象イメージを単純化したものである。よって、言語によって代数的に発展させた対象は、再度視覚的に展開しなければ単純化したまま(非現実的なまま)にとどまる。 言語認識と現実との差異はこの展開の有無によって広がる。たとえばこの視点によって‟妄想”という現象が「視覚と言語の差異」から生まれる現象だということが見えてくるのである。
 つまり、人間の認識の根本は現象学的な純粋視覚認識であり、言語的な認識は抽象イメージなしにはありえない。言語は記号であり形式である。その内容は抽象イメージである。さらにその二つは表裏一体のはずである。しかしその二つが、切断され言語という記号だけが独走することで妄想の世界が生まれる。まさに文字言語だけが過剰に先行した現代は、肥大化した「妄想の時代」だと言えよう。

 

AUTOPOIESIS 0004./ illustration and text by :Yasunori Koga
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