よく主観と客観という言い方をします。前者は心的な世界であり、後者は物理的な事実といったニュアンスで使われます。どちらにしろ対象となる世界は一つであり、その世界の見方の違いを区別したものです。この二つを区別することで文明は発展して今日に至っています。この二つの区別をしなかった時代、主客未分化な状態にある人々は、現代とは全く違う世界観に生きていたと考えられます。
例えば、雷がなる理由を「神の怒り」に結びつけた。あるいは雨が降ったのは「雨乞い」の結果だと信じた。つまり結果と原因を非科学的な物語で連結していた。現代では結果と原因を科学で連結します。しかし「結果と原因」を結び付ける、という意味においては、原始的社会と現代社会は同じ理屈で生きていることになります。二つの社会の違いは「科学による接続」なのか、もしくは「物語による接続」なかの違いだけです。
結果と原因を接続する。「~の原因があったのでこの結果になったのだ」という接続は、結果の正当化でもあります。結果が科学や物語で正当化されることで、人々は安心する。その結果がなぜ起こったのかが、まったく分からないままであれば、人々は不安なままでしょう。たとえばUFOが飛来し、人魂が見え隠れする世界が続けば、人々はその原因を無理にでも作り出すはずです。
結果と原因の間が未確定な場合、人は原因を無理にでも作り出そうとする。人々が安心できるレベルまで、原因を明らかにしようとします。しかし、その原因は常に「人々が安心するレベル」にとどまる。日常の原因究明を「電子顕微鏡」のレベルまで作り出そうとはしない。その意味では現代社会であろうと、未開社会であろうと、原因の究明は「集団的な安心」のために作り出されるということです。言い換えると、「原因は集団の安定のために作り出される」と言えるでしょう。
これを逆側から言うと、集団はその世界観を正当化するための原因(理屈)を必要とする、ということです。原始的な社会では、雷が「神の怒り」ではなく、科学的な原因の結果だと言い始めたら、それまで集団で共有していた世界観は破堤します。彼らにとっては、物語こそが客観性であり、それ以外の視点は主観に過ぎない。科学を持ち出す人は、心的に狂っていて現実との区別がつかなくなっていると判断されてしまいます。もちろん現代では逆のことが起こっています。火を見て神の仕業だと叫べば病院送りです。しかし、どちらにしても同じ「集団的な原理」に過ぎないという認識が、真の意味での客観性だといえます。
結果に原因を与える。そのレベルは集団を安定されるレベルと符合する。さらに主観と客観の概念も、その集団という分母に規定されている。このことから分かることは、妄想症だと判断されている人は、その人が帰属する集団(家族や家系)と現実社会(一般)の価値観にズレがあるがゆえに、「結果と原因の結び付け方」が病的だと判断されているということです。その人が帰属する集団(家族や家系)を正当化するために、その人は妄想を強いられている。つまり問題は妄想を抱く個人ではなく、妄想を個人に強いている集団にある。この視点を持たないかぎり、いくら精神病理学を適用しても時間を浪費するばかりです。主観と客観の問題は、個人の問題ではなく集団の問題だと考えられるのです。
AUTOPOIESIS 0042/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』