『損得が逆になるとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 私たちが何気に前提としている価値観。合理主義であったり成果主義であったりといったもの。それらは資本主義という大きなパラダイムが作り出すルールのようなものである。そのルールを守るうちは、非合理的なことはできない。よって非合理的なことを通過しなければ解決しないときに問題が起こる。
 では非合理的なときとは如何なるときか。たとえば自分が損をすることで相手が得をするようなとき。具体的に言えば、相手に自分のものを与えることで相手が助かるとき。これは合理主義から言えば受け入れられない。成果主義からいってもただの損になってしまう。いやそれは別ですよ、というかもしれない。しかし暗黙に資本主義を採用していると、自分でも気づかないうちに、他人の得は自分の損だと考えるようになる。
 損と得を相関させることで現れる世界がある。資本主義がそうである。しかし損と得が相関しない世界もある。人を助けることが物質的には損かもしれない。しかし相手にとって、あるいは自分にとっても心という視点で見れば得ではないか。そう考えると、人の心の世界は、むしろ物質とは逆の損得原理があるのかもしれない。
 成果主義にとらわれると、結果と原因の二つを相関させて考えるようになる。そして結果のためには「こうすべきだ」(原因)を相手の性質を無視して押し付けるようになる。この意味において、資本主義を基盤とした多様性の成立には限界があるともいえる。多様性とはお互いが尊重し合うことでしか成立しないからである。つまりお互いの損得が相関ない世界である。
 本来は相関しないはずのモノが相関し合う。その間に貨幣というものが入るとそうなる。貨幣は全く種類の違うもの同士を結びつけるマジックである。本当はただの紙や金属、あるいはただの数字である。これを幻想という人もいる。資本主義というルールは、貨幣によって全てを相関できると決めた限りでしか成立しないものである。その中では優しさといった非合理的なものが阻害されやすくなるのは当然であろう。
 私たちは学校などで道徳という概念を教わる。しかし社会にでると資本主義である。ここに大きな矛盾があり、心の病の問題とも関係が深い。資本主義というルールによる弊害が世界的に出てきている。どのようなシステムであれ、生命が関わる場合では必ず形骸化の問題が起こる。どこかで新しくするしかない
 刷新は歴史が自然に行ってくれる。人為的にパッと作れるものではない。変化の方向としては今までとは逆へ向かうのが常である。資本主義にとって非合理的だと思われていたものが、合理的になる。そうなるしかないからそうなる。これは誰にもとめられない。その原理が苦しい人は抵抗するかもしれない。しかし歴史と戦って勝てたものは誰もいないのである。

AUTOPOIESIS 102/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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