『技術と心』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 技術とは物理的な操作のこと。もっと言えば「原因と結果」を直線的に繋げることで現れるものです。ああすれば必ずこうなる。パターンなので機械にもインプットできます。よって技術それ自体は人間の心とは切り離されて存在します。もし心と繋がっていたら、機械が真似ることはできないでしょう。
 しかしそのような技術も、最初は人間の心と繋がった形で出来てきます。ああしてみたい、こうしたいという気持ちが、実験と模索を繰り返していく。そして行為が段々と洗練さて効率的になる。そして一つの技術が完成していく。この一連のプロセスと心は密接に関係しています。しかし一旦パターン化して技術が出来上がり、それに従うようになると心との関係は切れてしまう。
 技術は「行為の法則」であり、パターンであるが故に誰がまねても同じ結果が現れます。個人の心と関係が切れているからこそ、それが可能である。つまり技術それ自体は無個性です。「原因と結果」という科学的な因果法則の間に心が入る余地はありません。操作的な行為はつねに心との関係が切れてしまう。
 これらのことから、技術だけで絵を描けば(ものを作れば)無個性なものができることは明らかです。技術を使いつつ自分の心を関係させるには、技術に対して従属的になってはいけない。行為が常に「新しい技術の生産」でなけれらならないのです。つまり同じことの繰り返しではなく、一回性の体験(行為)であることが重要なのです。
 同じことの繰り返しではない、一回性の体験。それは「後戻り」も「次の機会」もないという「正常な時の流れ」に従う、ということでもあります。デジタルの世界は「後戻り」も「次の機会」もある。しかし現実の世界は、厳密な意味において同じことは二度と起こりません。そして心という機能はこの一回性の時間の流れと深い関係がある。
 時が止まれば心も止まる。心が止まればもちろん技術(行為)と心は関係できない。そうなれば結果も心と関係しないものとなります。これは空虚です。機械的な反復は大量生産を可能にする反面「無個性」という代償がある。ここにはパターン化した技術(或いは知識)だけを習得する代償としての「心の喪失」という問題があります。生きた技術の復活こそが、喪失した心の復活にも繋がるのです。

AUTOPOIESIS 112/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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