『本能を超えて』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「自分らしく」という言葉がいろいろな所で使われています。これは社会がつくりだす「閉塞感」への抵抗を人々が感じでいるからだと考えられます。この「閉塞感」は、社会の画一化や一般化、あるいは平均化が作り出すものです。もし人間に個性というものがあれば、そのようなもに対する抵抗感は、当然おこる健全な反応でしょう。
 例えばアリや蝶は個性を主張しません。全ては種の保存のプログラムに従っていて、同じ環境下で画一化した行動を繰り返します。これは機械のように正確です。もしアリが個々に「自分らしさ」を追求し個性を発揮すれば、アリの行列は乱れそれぞれが一人旅に出はじめる。あるいは種の保存とは関係のない飛び方をする独創的な蝶が現れるかもしれません。
 人間はアリや蝶のように行動が本能によって、完全に決められいるわけではありません。ある程度の自由が許されています。これは種の保存だけを目的とする本能優位の生物からすると「不完全な存在」です。ある意味で本能が不完全である。だから画一化や一般化、平均化に対しては、安心感とは裏腹に抵抗を感じるという矛盾をもつ。
 画一化への安心感は、アリや蝶と同じレベルでの生物の本能が働いているときです。これは人間にもあります。しかし画一化への抵抗は他の動物が持っていない、本能から自由な「精神」が感じるものです。人間には動物的な本能のレベルと、より高次の精神のレベルの二つが積み重なって存在しています。そして本能が優位な時は保守的になり、精神が優位なときは革新的になります。
 画一化へ感じる閉塞感は、本能の上にある精神レベルの反応です。自分らしくありたいという「個性への欲求」は、アリが行列を離れ「自分の目的」を持って歩き、蝶が「自分のために」飛ぶことを意味します。本能に従うアリや蝶たちは、脱線したアリや蝶をみて無意味な行動だと思うでしょう。だからこそ本能(保守)から出られない。常に一つ上のレベルは、今現在と逆の価値体系になっているのです。
 アリが自分の道を歩む。そして蝶が自分らしく飛ぶ。しかしそのことで自分が危機に瀕するのなら本末転倒です。なので本能のレベルも無視できない。本能レベルと精神レベルが上手く統合する地点こそが高次のレベル、つまり人間のレベルです。本能からの支配、あるいは画一化からの反動ではなく、真にそういったものから「解放」されるならば、自由意思で行列に「自分らしく」参加するこも可能です。そして蝶は「自分らしい飛び方」で、本能レベルをも満たし、新しい世界を生きることができるのです。

AUTOPOIESIS 114/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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