一枚の絵を描くとします。出来た絵がたとえば「上手い・下手」などといった事がらを抜きにすると何が残るか。そこには「その人が描いた」という事実だけが残ります。もちろん描いた人自身が「好きだ」とか「好きでない」とかいろいろとあるでしょう。しかし「その人が描いた」という事実に変化はありません。他の人の絵ではないのです。つまりその人は「このような絵を描く」ということが絵から分かります。
しかしもう一枚描いてみるとどうでしょうか。ちょっと違うテイストの絵が出来るかもしれない。そうなると一枚目での判断は訂正を迫られます。よってその人の絵のスタイルを知るには、枚数が多いほど正確で良いことになります。これは一枚で理解されるものと、複数あって初めて理解されるものは次元が違うということを意味しています。後者のほうがより高次のスタイル認識というわけです。
絵のスタイルは一枚ではわからない。出来た絵を一枚ずつ重ねていくと、最後にはビルのような立体になります。その中心を串刺ししたときに得られる情報が、本当の意味でのその人の絵のスタイルです。これは二次元の絵を積分した三次元的な立体情報と考えることができます。この立体情報にこそ、その人の本当の個性が隠されている。
自分がもつ自分自身のイメージをセルフイメージといいます。そしてこのセルフイメージは実際の自分(客観的な自分)からズレている。真逆である場合も多いのです。このようなセルフイメージと現実とのズレは、自分をその時々のイメージでしか認識しないことから起こります。それは自分を一枚の写真でしか判断していないようなものです、それよりも沢山の写真を束ねて映画のフィルムのように、あるいはパラパラ漫画のように動的な流れをみる方が、本当の自分を正確につかめるのです。
日々描く絵を連続として捉える。その時に初めて見えてくる絵のスタイルがある。それは一枚の絵で認識できるものと次元の違う、より正確な自分のスタイルです。その認識は写真と映像の違いほどに情報の質がちがう。もちろんそういった情報を認識するには、絵の変化を一つの連続体として対象化する概念が必要です。絵を連続体として捉え、そこに高次のスタイルを発見する。それがより正確な自分自身でもある。
自分自身をその一瞬一瞬だけで判断しない。一枚だけて結論づけない。細かく細分化された情報は、情報を整理したり操作したりする時に大いに役立ちます。しかし動きに満ちたものや予測し難い「有機的なもの」を把握する時には役に立たない。しかし現代社会はそのような情報の細分化で成立しています。絵のスタイルも一枚に還元され、人の心も写真のように扱われる。情報を高次元に連続させ、その全体を認識していくことが、これからの社会に必要なことなのです。
AUTOPOIESIS 117/ illustration and text by : Yasunori Koga
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