生きものに対する興味、あるいは草花に対する愛情。そういった「生を愛する傾向性」を、社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「バイオフィリア」と呼びました。「バイオフィリア」は生命を守り死とたたかう性質であり、この方向性にあるものは、物理的にも精神的にも生き生きとして豊かなものになっていく。
「バイオフィリア」に対して、その逆にある傾向性を「ネクロフィリア」と呼び、フロムは「死を愛する傾向性」と定義しています。これは生きたものを停止させ、支配(所有)する。そして全てを枯れたものへ変えてしまう。「バイオフィリア」とは完全に逆ですが、本人はその傾向に気づいていない場合が多いといいます。
この「バイオフィリア」と「ネクロフィリア」の二つの傾向は、誰もがもっているもので、人格としてどちらかが優位にある。とうぜん「バイオフィリア」を優位に保つ必要があります。「バイオフィリア」は生きたものへの関心だけでなく、現状維持よりも冒険を、部分だけでなく全体を、概要だけでなく構造を見る。そして自らの創造により、周囲に影響を与えていく。これが「バイオフィリア」の特徴です。
この「バイオフィリア」の特徴を読んで気づいたことがあります。それは私が絵の教室でポイントにしている事とすべて一致しているということです。絵の教室なので絵が上手くなることが目的ですが、描くことでその人の人生が豊かになっていかないと勿体ない。そう思い考えた「描き方の原則」とフロムの「バイオフィリア」の定義が一致していたので、深く共感しました。
「バイオフィリア」という生を愛する傾向は、生きているものにとって必要不可欠な要素で本来特別なことではありません。しかしフロムが指摘するところでは、社会が数量化と機械化、そして官僚化することで、人々が「ネクロフィリア」へと傾斜していく。昨今の異常な事件や人々の社会(あるいは他者)への無関心などはその一端です。つまり死の傾向性が多数を覆ってきている。よって相対的に「バイオフィリア」が育ちにくい環境になりつつありるのです。
フロムは「バイオフィリア」の発生をうながす条件を、創造する自由、挑戦する自由、そしてそれらの自由のために責任をもつこと、としています。それらの要素は成果主義や官僚主義的な社会では許容されていません。しかし個人の芸術活動ならそれが可能です。自由な創造行為によって成長を続けることが、「ネクロフィリア」をおさえ、生を愛する「バイオフィリア」を優位に保つ最善の方法なのです。
AUTOPOIESIS 121/ illustration and text by : Yasunori Koga
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