人間には精神と身体とがある。これを概念として区別したのは哲学者のデカルトだと言われています。現代では二つの区別は当たり前です。精神と身体は常に一体ですが、時間とともに変化の仕方に違いがある。精神は経験を受け入れて上書きしていくことで成熟していく。それに対して身体は時間とともに下り坂となる。最後は老いの問題、さらに言えば実存の問題と否応なく対峙させられることになります。
実存とは社会的な役割を超えた、自分の本質的な在り方です。社会的な役割に忙しくしている間は、そういった自分の実存的な問いを考える暇がない。しかし人生のポイントでは自分の実存的な問いが立ち現れます。この問いを超えていくには「精神の成熟」が必要です。もし問われた問題に見合った成熟がなされてなければ、精神が負けてしまいカウンセラーや精神科医の助けが必要となります。つまり経験を上書きせずに否定(或いは逃避)して、成熟以前の自分を正当化していると、必ずやってくる実存的な問題に耐えられないということです。
精神とは数量化できないものです。非物質であるがゆえに、現代社会では置き去りにされがちです。逆に言えば、精神的な問題からの逃避として、物質や数量化の世界に没頭すると考えることもできます。しかし必ず実存的な問題はやってくる。なぜなら身体は不死身ではなく、必ず老いと死がやってくるからです。そういった根本的な問題に表面的なハウツー技法は一切通じない。ただ自分自身の「精神の成熟」だけが頼りです。デジタル社会における「精神の成熟」の問題は、一つの危機として社会的に共有されるべき問題なのです。
AUTOPOIESIS 143/ illustration and text by : Yasunori Koga
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