人間は生物であり動物である。しかしキリンやゾウのように自然そのものの生き方はしていません。人類史が示すように、人間も最初は原始的な生き方をしていました。しかし脳が発達して火や道具を使うようになり、やがて文明を築くようになった。それとともに自己を律する術を覚え、原始的な自然状態から文化的な生活ができるようになりました。つまり放っておくと原始的になる自己を律するのが「文化的な型」であるということです。
たとえば学級崩壊という現象があります。監視が弱まったときに(相手がなにも言わないときに)、自己を律する力のない個人や集団が「原始的な振る舞い」に身をゆだねる。そして無秩序化する。つまり「文化的な型」がないゆえに、好き勝手な利己主義に陥る。このような原始的なレベルを抑制するには、罰を与えて秩序を強制するか、「文化的な型」を獲得させるかのどちらかしかありません。
原始的なものを抑制するときに、罰(たとえば叱責や体罰など)によって強制すると、これは調教になります。家畜ならまだしも相手が人間であれば、やはり「文化的な型」を獲得してもらうほうがいい。「原始的な欲動」を抑えることで得られるものを知ってもらう。それが好き勝手な振る舞いや、奪い合うことで得られるものよりも、さらに良いものであることを経験的に知ってもらう。抑制によって到達できる文化とコミュニケーションの領域にのみ、犠牲の上に成り立つ世界にはない「ウインウインの関係」(非ゼロ和)が矛盾なく成立するのです。
AUTOPOIESIS 191/ illustration and text by : Yasunori Koga
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