『現実を読む』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 分からないことがあればなんでも検索する。ネットは便利なもので、誰かが必ずと言って良いほど情報をアップしてくれています。それを読めば知りたいことが分かる。もちろんその情報が正しいかどうかの問題はありますが、とにかく検索すれば知ることができる。ほとんどの情報を知ることができりので、検索しても出てこないものはこの世にないものとして扱われる。少し大袈裟ですが、検索して出てこないものは分からないので、無いと判定しがちなことは事実です。
 例えばネットの地図にない道はないものと考える。カーナビの情報とは違う大きな道が現れたら驚いてしまう。しかし本当は驚く方がおかしい。なぜなら、ネットの情報は現実の一部を情報化したに過ぎず、まだ情報化されていないものも沢山あるからです。さらに現実は変化するので、それに応じで情報をアップデートしなければならない。しかし修正せずに放置されたままの情報もたくさんあります。
 人は大事なものはあまり人目に晒さない性質をもっています。よって大事な事や重要な発見などはいまだネットに情報化されていない場合が多い。それらはネットではなく現実の方にある。この意味ではネットに情報化されたものは既に終わったものであり、古くなり修正を待つものも多いと言えます。もっとも新鮮で価値があるのは現実の情報です。私たちはネットの情報を読むように、「現実を読む」ことではじめて古い情報の蓄積による「思考の形骸化」を回避することができるのです。

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「精神的な自由」

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 自由とは拘束をうけずに自分の思うままに振る舞えることです。例えば手足を使うことを制限されていたら自由に振る舞えない。これは「物理的な自由」の問題です。しかし自由とは「精神的な自由」もあります。ものの考え方が他に拘束されずに自由であること。例えば人目を気にし過ぎたり、親や世間体といった価値観だけを採用していると「精神的な自由」は阻害されます。このように自由には「物理的な自由」と「精神的な自由」の二つがあります。
 自由の問題でよくあるのは、なんでもありは自由にあらず、ということです。ただ好き勝手に振る舞い他人を傷つけたりすることは自由ではありません。なぜならそれは相手の自由を阻害していることになり、その世界を許容すれば自分もまた自由を阻害されるからです。さらに精神的な面でも、自分自身への禁止が多ければ、他人へもそれを強要して相手の自由を阻害してしまう。つまり自由とは自己と他者の両方を拘束しない状態だといえます。
 自由の根本は自分が他に依存せず精神が自由であることです。そのことによって判断の自由や行動の自由といった「物理的な自由」が生まれる。そうなれば相手の自由を阻害せずに尊重することも自然になされます。自己と他者の自由を同時に確保するためにも、自分を自ら拘束せず「精神的な自由」を保つ。そうすることで相手の精神が自由であることも自然に受け入れられるのです。

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『一般化できないもの』

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 個性という言葉は人びとの間で一般化しています。誰もが個性という言葉を共通に理解している。しかし、個性とは一般からはずれた部分を意味している。つまり「みんなと同じ」以外の部分に個性が現れます。つまり一般化できない所を個性と呼ぶ。
 一般化できない性質である個性が、自分と他人を区別する指標であり、それは他人がどう頑張っても得られないものです。例えば真似するのが得意な人でも、完全にそれを真似しつくせない性質のものが個性です。よって個性というものを本人が捨て去ろうとしても、そんなことはできない。なぜなら個性こそが自分そのものだからです。
 その人固有にある性質である個性は捨てることができない。また他人が完全に真似ることもできない。そんな個性を無視して一般化しようとしても無理があります。上手くいかないし、むしろ失敗の連続になってしまう。一般化が難しい性質は、受け入れてその個性に従うことで、本来の自分らしさや自由が生まれる。つまり一般化できないことを受け入れた時に、真の自分が現れるということなのです。

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『ポリコレと自由』

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 ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ。これは特定のグループに不快感を与えないような表現を選ぶこと。人種や性別などによる偏見的を含まない中立的な表現を用いることです。いまこのポリコレはクリエイティブの世界で逆説的な問題を発生させています。つまり、あまりに中立的で保守的に創作するので、出来上がったものに面白みがないという現象が世界的に起こっています。
 そもそも表現とは一つの意思の表れであり、そこには精神的な決断と表明があります。そして意見には必ず真逆の意見がある。相補的な関係が必ずある。それが現実の世界です。絵で言えば影を描かないと光もないことと同じです。すべてを平均化したものは動きがなく作者の判断も見えず、表現する意味すら疑問になってきます。もちろん差別や偏見はあってはならない。しかし創造の世界においてまで、現実の中立性を強いるのは問題です。
 平均とはそもそもある一定の数によって見えてくる確率的な概念です。たくさんの数が集まったときに初めて現れるバランスです。よって一つ一つを取ってみれば平均より上だったり下だったりする。これが現実です。しかしひとたび平均を基準とすれば、一つ一つがその枠から出られなくなり自由もなくなる。現在のポリコレの問題はこの「確率論のパラドクス」に陥っています。現実の世界には「倫理的中立性」が必要です。しかし創造の世界にまでそれを強いるのは行き過ぎです。ここには数々のファンタジー作品がテーマにしてきた「創造の世界(ファンタジア)に現実が介入する」という問題が発生していのだと思います。

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『失敗の受け入れ』

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 失敗を積み重ねることによって成功に到達する。これはいわゆる「失敗は成功のもと」ということです。別の表現を使えば「失敗は成功の構成要素」だといえるでしょう。成功は失敗を含み持つことで成立している。逆にいえば、失敗のない成功はありえない。
 そもそも失敗という概念は成功という概念に支えられたものです。成功のない世界には失敗もないし、また失敗のない世界には成功もない。いつ何をやっても成功しかしないのなら、成功に意味も実感も発生しないでしょう。よって失敗を受け入れずに排除すると成功もなくなってしまう。
 失敗とは時間と関わりがある。つまり「取り返しがつかない」ということ。後戻りできないから失敗がある。そして成功もまた然り。後戻り出来る世界には失敗も成功もなく、あるのは暫定的で未決定なイミテーションだけです。失敗を避け、受け入れを拒めば時間は空回りする。そしてすべてが未決定なままとなる。後戻りできない世界で失敗を受け入れることで、成功が形づくられるのです。

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