『経験的な理解』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 理解には二つある。一つは「部分的な理解」。例えば絵の「色」について理解する。あるいは「形」について理解する。これが「部分的な理解」です。そしてもう一つは「全体的な理解」。絵の色や形といった要素ではなく、絵の全体を見た時に“感じる”もの。この二つの理解を言い換えると、前者が「学習的な理解」、後者が「経験的な理解」です。パズルで言えば、一つ一つのピースを分析するか、全体を組み上げた時の風景を味わうかの違いです。
 「学習的な理解」は客観的な理解であり、だれでも同じような理解に達します。それに対して「経験的な理解」は個人の主観によって左右します。そしてこの「経験的な理解」でなければ知ることが出来ないものがたくさんあります。例えばオーケストラの演奏はヴァイオリンやフルートといった個々の演奏だけではなく、音楽全体を経験しないと分からない。あるいは親切な人と接することではじめて「親切」というものが、方法ではなく経験的に理解される。そしてそれらは経験的に理解することでしか、自ら作り出すことができない。
 オーケストラは各部分の演奏者に分かれています。そして各部分を全体へ導く指揮者がいる。指揮者は「全体的な理解」と「部分的な理解」の両方のエキスパートであり、総合的に未来を予見して舵取りします。一人の演奏者にこの仕事が難しいのは、部分的な技巧に専門特化しているからです。各部分を統合し、総合的な状態を把握するには、空気や風景のような全体性を経験的に理解していなければならない。そうすることではじめて総合的なものが作り出せるようになる。知識が細分化し「部分的な理解」が優先になった現代。各部分の統合に必要なのは、実体験によってしか得られない「経験的な理解」なのです。

AUTOPOIESIS 172/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『純粋空間』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描くときに「自分が好きな絵」と「他人に気に入られる絵」のどちらを描くかで悩んでいるひとが多くいます。この二つの概念は相関していて、片方を上げるともう片方が下がるといった具合に矛盾している。ゆえにどちらを取るか決めかねている人には悩ましい状態となっています。これは煎じ詰めると、自分の納得を取るか、他人からの評価を取るかに還元されます。
 しかしこの二つの方向は、片方へ行き過ぎると問題が発生してきます。自分の感情だけを追求し、だれもまったく理解できない世界を表しても意味がない。逆に他人に気に入られるようとしすぎると、自分を見失いバランスを崩すことになります。絵を描いていく上で、この二つの概念は分裂させずに統合する必要がある。二つを統合した世界では、どちらも等価であり相関もしていません。よって矛盾もおこらない。
 二つの矛盾が起こらない世界で絵を描く。この世界を「純粋空間」と呼ぶならば、この「純粋空間」をどのように確保するかが大事になってきます。これは技術や知識とは別種の、絵を描くときの重要事項です。矛盾を統合できるのはこの「純粋空間」しかないく、この空間は方法論では生まれません。相反する二つの価値観の上位にある「純粋空間」は、経験でしか会得できない。つまり「純粋空間」が存在する場所で「経験的に理解する」ことで、初めて獲得されるのです。

AUTOPOIESIS 171/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『絵が上手くなる方法』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 あの人は絵が上手い。そう言われる人の絵はまず技術的に上手い。つまり形を正確に描けるということです。これが一般的な絵の上手さの基準になっています。形の正確さはデッサンの訓練によって身につく。よってあの人は絵が上手いということは、デッサンが上手いという暗示があります。確かに形をそっくりそのまま正確に描く能力は、練習してもなかなか身につきません。その意味では凄いことです。しかし絵が上手いという基準はそれだけではありません。
 形ではなく雰囲気を表すことが上手い人、あるいは対象を省略して描くのが上手い人、さらには全てを自分の世界に変換するのが上手い人もいます。それらの価値基準は形の正確さとは別種のものです。そして形の正確な絵がそれらの絵よりも優れている訳ではありません。それは絵を見ることよりも実際に描くことでその素晴らしさが実感されます。つまり描く経験が豊かになればなるほど、形の正確さ以外の価値観が理解されていく。
 「絵が上手くなる方法」とは、デッサンだけではなくそれ以外の価値観も理解して洗練させる方法です。デッサンや形をリアルに描くことに固執すれば、それ以外の多くの側面がおろそかになる。つまり絵に関わる全ての側面をバランスよく訓練していくことで、形だけに片寄らない、絵ならではの印象的なイメージを描くことが出来るようになる。そしてそのイメージが自分自身でしか描けないものであるとき、その絵は他人にとっても魅力的なものになる。それら一連のプロセスを訓練していくことが、本当の意味での「絵が上手くなる方法」なのです。

AUTOPOIESIS 170/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『フロイト、文化と芸術』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 アメーバのような単細胞生物に文化はない。当然ながら生きることだけが目的化した存在です。そこからもう少し進化して魚になったとしても文化がないことは同じです。シャケが生まれた川へ戻るのは文化ではなく、生存のためのプログラムです。文化とはむしろ生存に直接は結びつかない営み。つまり物質的、肉体的な目的を超えた「精神的な目的」のために文化が形成されて来たということです。
 生存の欲求につながる、あらゆる欲望に対して反比例する文化。それは人類の歴史の中で「欲望の放棄」と引き換に発展してきました。つまり文化の歴史は「欲望の放棄」の歴史であるということです。このことについて精神分析学の創始者フロイトは、人間の原始的な欲求を放棄することで文化が獲得される、しかし必ず欲望の放棄には強烈な反発が生まれると指摘しています。そしてその反発は集団であれ個人であれ、あらゆる内的な問題のを引き起こすことになる。
 フロイトは精神的な病を、人間の原始的な部分からの未分化、未発達な状態だとしました。つまり文化が獲得されていくプロセスで内的な反発が起こり、精神的な停滞に繋がっている。そしてこの停滞の原因となる反発を、発展的に昇華できるのが「芸術」であるとしています。もちろんフロイトが指摘する「芸術」は職人的な技術や知識ではなく「創造性」を指しています。このフロイトの見解は、文化や芸術とは何かという問いに一つの答えを示すとともに、精神的な停滞を解決する最も有効な手がかりを示しているといえるのです。

AUTOPOIESIS 169/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『主観と客観』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 カフェでコーヒーを飲んでいるとき、不注意でカップを落としたとします。アッと思った瞬間にカップはフロアに落下して割れる。アッと思うのはカップが落ちてどうなるかが予測されるからです。つまり物質は万有引力という力に従って落下する。そういった客観的な法則がある。客観とは自分だけではく、他人も同じくその法則を共有できるということです。それに対する主観とは自分の中だけの世界。例えば「私はカップを宙に浮かせることができる」と誰かが真剣に言うとき、それは主観だけの世界に陥ったことを意味します。
 もしコーヒーカップが自分のモノであれば、割れると悲しい。これは主観です。誰のモノか分からないカップが落下しても悲しくはならない。ただ客観的にカップが落下したと理解される。このように客観的に物事を理解するときには、主観は邪魔になることがあります。しかし主観を大事にしなければ、究極的には自分を大事にできないし、他人も大事にできない。よって物事を客観的に理解することと、主観を大事にすることの両方が大切になってきます。
 客観的な認識は、他人にも理解可能な世界を作ります。よってより多くの人々と客観的世界を理解し合うことが可能となる。それに対する主観は自分の内側だけの見解。この内側の世界をみんな持っている。そしてこの主観的な個人の世界を、客観的な世界において表現することで、伝え合うことが出来る。自分がどう感じどう思っているのか。また他人がどう感じどう思っているのか。主観だけあるいは客観だけではなく、両方を大事にすることで、私たちは真の意味でお互いを理解し合うことが出来るのです。

AUTOPOIESIS 168/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

Scroll to top