『フロイト、文化と芸術』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 アメーバのような単細胞生物に文化はない。当然ながら生きることだけが目的化した存在です。そこからもう少し進化して魚になったとしても文化がないことは同じです。シャケが生まれた川へ戻るのは文化ではなく、生存のためのプログラムです。文化とはむしろ生存に直接は結びつかない営み。つまり物質的、肉体的な目的を超えた「精神的な目的」のために文化が形成されて来たということです。
 生存の欲求につながる、あらゆる欲望に対して反比例する文化。それは人類の歴史の中で「欲望の放棄」と引き換に発展してきました。つまり文化の歴史は「欲望の放棄」の歴史であるということです。このことについて精神分析学の創始者フロイトは、人間の原始的な欲求を放棄することで文化が獲得される、しかし必ず欲望の放棄には強烈な反発が生まれると指摘しています。そしてその反発は集団であれ個人であれ、あらゆる内的な問題のを引き起こすことになる。
 フロイトは精神的な病を、人間の原始的な部分からの未分化、未発達な状態だとしました。つまり文化が獲得されていくプロセスで内的な反発が起こり、精神的な停滞に繋がっている。そしてこの停滞の原因となる反発を、発展的に昇華できるのが「芸術」であるとしています。もちろんフロイトが指摘する「芸術」は職人的な技術や知識ではなく「創造性」を指しています。このフロイトの見解は、文化や芸術とは何かという問いに一つの答えを示すとともに、精神的な停滞を解決する最も有効な手がかりを示しているといえるのです。

AUTOPOIESIS 169/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『主観と客観』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 カフェでコーヒーを飲んでいるとき、不注意でカップを落としたとします。アッと思った瞬間にカップはフロアに落下して割れる。アッと思うのはカップが落ちてどうなるかが予測されるからです。つまり物質は万有引力という力に従って落下する。そういった客観的な法則がある。客観とは自分だけではく、他人も同じくその法則を共有できるということです。それに対する主観とは自分の中だけの世界。例えば「私はカップを宙に浮かせることができる」と誰かが真剣に言うとき、それは主観だけの世界に陥ったことを意味します。
 もしコーヒーカップが自分のモノであれば、割れると悲しい。これは主観です。誰のモノか分からないカップが落下しても悲しくはならない。ただ客観的にカップが落下したと理解される。このように客観的に物事を理解するときには、主観は邪魔になることがあります。しかし主観を大事にしなければ、究極的には自分を大事にできないし、他人も大事にできない。よって物事を客観的に理解することと、主観を大事にすることの両方が大切になってきます。
 客観的な認識は、他人にも理解可能な世界を作ります。よってより多くの人々と客観的世界を理解し合うことが可能となる。それに対する主観は自分の内側だけの見解。この内側の世界をみんな持っている。そしてこの主観的な個人の世界を、客観的な世界において表現することで、伝え合うことが出来る。自分がどう感じどう思っているのか。また他人がどう感じどう思っているのか。主観だけあるいは客観だけではなく、両方を大事にすることで、私たちは真の意味でお互いを理解し合うことが出来るのです。

AUTOPOIESIS 168/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『精神の整理術』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 物事は放っておくと必ず無秩序へと向かう。たとえば整理を怠ると部屋は足の踏み場もなくなります。また美しい庭園も手入れを怠るとすぐに荒廃する。こういった散らかり具合の指数を物理学ではエントロピーと呼びます。つまり物事は放っておくと必ずエントロピーが上がっていく。よってエネルギーはエントロピーを低く保つために使用さる。これが生命活動の基本です。
 エントロピーは熱力学第二法則という物理学の概念ですが、精神にもこの法則が当てはまります。ただ生活するだけで精神を放っておくと、足の踏み場もないほどに散らかっていく。そして最後には収集不可能になります。物理的な空間と違い、精神は目に見えないので散らかり具合を事前に察知するのは難しい。よって日々の整理整頓が重要になってきます。
 精神の整理整頓は言語によって「考える」ことでなされます。さらに言語でカバーできない無意識の領域は、芸術などの自己表現によって把握されます。この思考と自己表現によって精神は整理されエントロピーを低く保つことが出来る。これらを怠ると精神は徐々に無秩序へと向かうことになる。言語による思考と、芸術による自己表現によって、心のエントロピーは低く保たれ、未来の精神的破堤(カオス)は回避されるのです。

AUTOPOIESIS 167/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『老化を防ぐ方法』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 いま認知科学の視点から、現代人は文字や絵をかくのが苦手になっているということが問題視されています。その原因の一に、パソコンやスマホといった仮想空間の情報に接する時間が、現実の情報に接する時間を超えてきたという事実があります。そもそも認知とは現実の情報を把握して意味付けするプロセスのことであり、それはつまり自分自身で物事を情報化するということに他なりません。その認知能力が弱ければ、現実を視覚的に把握し再構成する力や、意味的な把握にも問題が起こります。
 文字や絵のバランスをうまく取ることが出来ないということは、文字や絵の全体をイメージとして把握する力に欠けているということです。各部分を全体に従わせることが出来ない。つまり文字や絵を上手く描けない状態と、いわゆる認知症の状態は似たところがあるということです。各部分の情報を集められても、全体の構成ができなければ意味のレベルを作り出せないということです。特に絵で全体のバランスをとって描けるかそうでないかは、認知機能の有無を示す分かりやすい指標といえます。
 一般論として画家は高齢になってもボケにくいと言われています。これは認知能力を日々鍛えているからと考えれば頷ける話です。このイメージによる認識と、さらに言語的な意味づけ(思考)を鍛えることで、認知能力は高まり、老化を遅らせる可能性がある。画家や絵を描く職業の人のなかでも、評論やエッセイなどの言語活動にも秀でた人が、長生きだったり、年齢より若く見える人が多いのは偶然ではないのかもしれません。この視点での研究はこれから進んでいくだろうと予想されます。

AUTOPOIESIS 166/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『ゴダールのことば』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 先頃フランス映画界の巨匠、ジャン=リュック・ゴダール監督がこの世を去りました。世界中の映画ファンが彼の映画を愛していました。わたしもその中の一人で、20代のころに「勝手にしやがれ」を観て以来、ゴダール映画のファンです。ゴダールは映画評論家だったので、彼の書く評論や講義録も映画にまけないくらい私を惹きつけました。カフェでコーヒーを飲みながら彼の哲学を読み耽ったものです。
 そんなゴダールの発言でいまでも頭から離れないものがいつくかあります。その一つに「人々は想像力を委託してしまっている」という発言があります。自分自身の想像力を使い何かを作り出すのではなく、他人に想像力を使ってもらい、作ってもらう状態に甘んじているということです。例えばテレビやネットで価値観や行動規範をもらい、CMを見て刺激を受けて作ってもらったものを買う。想像力を使う余地が格段に減っている。
 全てを委託できるのは楽で便利です。しかし自らの想像力で「自分にしか作り得ないもの」を作るチャンスを無くしてしまう。「自分にしか作り得ないもの」の最たるものが「自分の人生」であることは明らかです。人生を作り上げるために必要な想像力が乏しいと、問題がいろいろと出てきます。また解決も難しくなる。想像力を委託してはならない。このゴダールの言葉は、カフェの雰囲気とともに染みこみ、いまも心に響き続けています。

AUTOPOIESIS 165/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

Scroll to top