『自由意思と文化』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 人は自分の意思に従って行動します。ただ本能に従うだけの動物との違いは「原始的な損得判断」を抑制できる知性的判断を持っているということです。しかし動物の本能といえる損得判断を抑制するにはエネルギーが必要です。抑える力が弱まるとすぐに本能が優勢になります。それを上手く抑制する「型」として文化がある。例えば食事は手づかみで食べる方が早いが、箸やフォークを使うという面倒な「型」で本能を抑制する。
 自分の意思に従うということは、本能(損得判断)を抑制して文化的な判断を優先するということです。つまり本能から自由になること。例えば世間体という集団の原理(群れの原理)は、個人の自由意思が抑制されることで成立します。集団心理学者のル・ボンも「人は群れると原始的になる」と言っています。その群れから自立することで自由意思が初めて確保される。高度に進化する個体もそのようなプロセスをたどります。手づかみの本能を拒否しえたものたち。
 自分の意思が本当に自分のものなのか、あるいは世間体に従っているだけなのか。この区別をつけるのは難しい。社会に生きる上では世間体を完全に無視することはできません。しかしただ無防備に従えば本能優先という「原始的な病」に陥ることになる。そうならないためには、自分の中にエネルギーを作り出し、知的判断によって本能(損得判断)を抑制する文化的な「型」を作り出す必要がある。個人の自由意思(主体)はそうすることではじめて確保されるのです。

AUTOPOIESIS 174/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『発展的な表現』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 良いことがあり嬉しくなって「やった!」と声をあげる。やったという言葉は喜びの表現です。もしその時腕を大きく広げたなら、その身振りも喜びの表現です。あるいは腹が立って壁を叩く。叩いた音や壁の凹みは怒りの結果現れる表現です。このように表現は心のありようと深く関係しています。積極的な時は積極的な表現(例えば絵や音楽の表現)として、また消極的な時は消極的な表現として現れます。
 表現が前向きで積極的な時は、心も肯定的です、変化や偶然を許容できて発展的。それに対して表現が消極的な時は、心は否定的です。変化や偶然を拒み、全てを決めつけて防衛します。前者の表現は、表現自体を楽しむためになされますが、後者は自己防衛(あるいは逃避)のためになされます。つまり表現の仕方によって、心が発展したり衰退したりするということです。
 喜びの声はその波長が他人へも伝わり前向きな影響を与えます。怒りだとその逆の影響を与えます。積極的な表現だと自己肯定感が増しそれが外へも伝わりますが、消極的な表現は「自己否定の正当化」というパラドクスになっています。つまり表現には前向きな表現(発展的な表現)と後ろ向きな表現(衰退的な表現)の二つがある。どちらの表現を続けていくかで、自分への影響は大きく変わってきます。二つの表現の区別をつけて、前向きなマインドから生まれる「発展的な表現」(偶然や変化を許容する表現)を心がけることが大切なのです。

AUTOPOIESIS 173/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『経験的な理解』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 理解には二つある。一つは「部分的な理解」。例えば絵の「色」について理解する。あるいは「形」について理解する。これが「部分的な理解」です。そしてもう一つは「全体的な理解」。絵の色や形といった要素ではなく、絵の全体を見た時に“感じる”もの。この二つの理解を言い換えると、前者が「学習的な理解」、後者が「経験的な理解」です。パズルで言えば、一つ一つのピースを分析するか、全体を組み上げた時の風景を味わうかの違いです。
 「学習的な理解」は客観的な理解であり、だれでも同じような理解に達します。それに対して「経験的な理解」は個人の主観によって左右します。そしてこの「経験的な理解」でなければ知ることが出来ないものがたくさんあります。例えばオーケストラの演奏はヴァイオリンやフルートといった個々の演奏だけではなく、音楽全体を経験しないと分からない。あるいは親切な人と接することではじめて「親切」というものが、方法ではなく経験的に理解される。そしてそれらは経験的に理解することでしか、自ら作り出すことができない。
 オーケストラは各部分の演奏者に分かれています。そして各部分を全体へ導く指揮者がいる。指揮者は「全体的な理解」と「部分的な理解」の両方のエキスパートであり、総合的に未来を予見して舵取りします。一人の演奏者にこの仕事が難しいのは、部分的な技巧に専門特化しているからです。各部分を統合し、総合的な状態を把握するには、空気や風景のような全体性を経験的に理解していなければならない。そうすることではじめて総合的なものが作り出せるようになる。知識が細分化し「部分的な理解」が優先になった現代。各部分の統合に必要なのは、実体験によってしか得られない「経験的な理解」なのです。

AUTOPOIESIS 172/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『純粋空間』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描くときに「自分が好きな絵」と「他人に気に入られる絵」のどちらを描くかで悩んでいるひとが多くいます。この二つの概念は相関していて、片方を上げるともう片方が下がるといった具合に矛盾している。ゆえにどちらを取るか決めかねている人には悩ましい状態となっています。これは煎じ詰めると、自分の納得を取るか、他人からの評価を取るかに還元されます。
 しかしこの二つの方向は、片方へ行き過ぎると問題が発生してきます。自分の感情だけを追求し、だれもまったく理解できない世界を表しても意味がない。逆に他人に気に入られるようとしすぎると、自分を見失いバランスを崩すことになります。絵を描いていく上で、この二つの概念は分裂させずに統合する必要がある。二つを統合した世界では、どちらも等価であり相関もしていません。よって矛盾もおこらない。
 二つの矛盾が起こらない世界で絵を描く。この世界を「純粋空間」と呼ぶならば、この「純粋空間」をどのように確保するかが大事になってきます。これは技術や知識とは別種の、絵を描くときの重要事項です。矛盾を統合できるのはこの「純粋空間」しかないく、この空間は方法論では生まれません。相反する二つの価値観の上位にある「純粋空間」は、経験でしか会得できない。つまり「純粋空間」が存在する場所で「経験的に理解する」ことで、初めて獲得されるのです。

AUTOPOIESIS 171/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『絵が上手くなる方法』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 あの人は絵が上手い。そう言われる人の絵はまず技術的に上手い。つまり形を正確に描けるということです。これが一般的な絵の上手さの基準になっています。形の正確さはデッサンの訓練によって身につく。よってあの人は絵が上手いということは、デッサンが上手いという暗示があります。確かに形をそっくりそのまま正確に描く能力は、練習してもなかなか身につきません。その意味では凄いことです。しかし絵が上手いという基準はそれだけではありません。
 形ではなく雰囲気を表すことが上手い人、あるいは対象を省略して描くのが上手い人、さらには全てを自分の世界に変換するのが上手い人もいます。それらの価値基準は形の正確さとは別種のものです。そして形の正確な絵がそれらの絵よりも優れている訳ではありません。それは絵を見ることよりも実際に描くことでその素晴らしさが実感されます。つまり描く経験が豊かになればなるほど、形の正確さ以外の価値観が理解されていく。
 「絵が上手くなる方法」とは、デッサンだけではなくそれ以外の価値観も理解して洗練させる方法です。デッサンや形をリアルに描くことに固執すれば、それ以外の多くの側面がおろそかになる。つまり絵に関わる全ての側面をバランスよく訓練していくことで、形だけに片寄らない、絵ならではの印象的なイメージを描くことが出来るようになる。そしてそのイメージが自分自身でしか描けないものであるとき、その絵は他人にとっても魅力的なものになる。それら一連のプロセスを訓練していくことが、本当の意味での「絵が上手くなる方法」なのです。

AUTOPOIESIS 170/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

Scroll to top