『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

古賀ヤスノリ イラスト illustration

 ハリウッドスターとしての全盛期を過ぎた主人公。彼は再び脚光をあびるべく、ブロードウェイに進出する。過去の栄光を忘れられない人格として、「バードマン」という妄想人格が度々現れ、ハリウッドへ戻れとささやく。不慣れな舞台、薬物依存からの更生中である娘、利己的な天才俳優など、彼を悩ませる要素との葛藤を背負いながらも、権威ある批評家の眼に舞台をさらす。「無知の奇跡」が「芸術的創造」のプロセスそのものであることを、超絶的な長回しと“怪演”で証明してみせるたシネマの限界点。

vol. 046 「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 2014年 アメリカ 119分 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
illustration and text by : Yasunori Koga

★古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『現実の受け入れ』

 「現実を受け入れる」。これが全てを正常化させる特効薬である。この考えは方はいつの時代でも正しく、ニーチェからゴダールまで、あらゆる巨匠たちが現実に従うことを肯定しています。この「現実を受け入れる」とは一体どういうことなのか。それは「ただ周囲に従う」(状況に流される)こととはどう違うのでしょうか。
 「現実を受け入れる」とは「積極的な受け入れ」を主体的に決定しています。「現実を受け入れる」ことで改めて出発することができる。それに対し「状況に流される」とは「消極的な受け入れ」であり主体は抑圧されています。さらに次の発展もなく「諦め」によって周囲に流されるままになっている。
 「現実の受け入れ」は「前進のための再認識」であり、それは「積極的な自己修正」です。それに対して、「状況に流される」とは前進を拒むための「服従」であり「消極的な自己正当化」です。つまりこの二つは似ても似つかぬ対局にあるものなのです。しかし似ているがゆえに、しばしば「服従」を主体的な決定と思い、「諦めの肯定」を「前進」と思う。
 「現実の受け入れ」があらゆる時代の最善の方法でるならば、その対極にある「現状への服従」が時代を超えて最悪の方法であることは疑いがありません。最悪の方法をとるのは怖れや弱さからであり、そのような自分の現実を「受け入れられない」がゆえに、自らの選択が「現実の受け入れ」であり「前進」であると「自己偽装」する。「自己偽装」とはパラドクス(出口のない構造)であり、容易には現実に出ることが出来ません。  

古賀ヤスノリ イラスト

 「服従」とは「現実の受け入れ」が困難になる心的状態です。それは親への服従であれ、権力への服従であれ、すべて同じことです。服従者はつねに「自己偽装」によって「自己正当化」を繰り返します。我こそ現実を受け入れて前進するリアリストであると考える。しかしそれこそが、「弱さ」と「諦め」によって生まれた服従者の「自己偽装」なのです。「周囲に流される者=服従者」は権力によって現実(出口)を遮断された「妄想者」と言ってよいでしょう。  
 「現実の受け入れ」を拒絶する服従者は、「弱さ」と「諦め」によって周囲に流される。その事実を受け入れられないがために、主体的に前進していると「自己偽装」する。ここに「現実の受け入れ」による「自己修正」はなく、「永遠に変化なく一歩も進まない」という事態が起こります。個人であれ組織であれ、「権力と服従」によって成立している構造は、必ずこの「非生産性」を露呈する。この「権力と服従」による「非生産性」を正常化させるには、「現実の受け入れ」による「自己修正」しかありません。究極の現実対峙は「死」であり、人類にとってのそれは、天災、戦争、そしてウイルスによって喚起させられると考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0058/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『数による支配』

 民主主義とは民衆(デモ)による支配(クラシ―)です。さらに、日本は間接民主主義なので、民衆の代表が数によって選ばれ、代理として国の意思決定を行う仕組みです。よって多数決という「数の支配」で全てが決まります。このような「数の支配」は資本主義も同じです。数による投票の結果だけが反映されていく。言い換えると「数が少ないものは切り捨てられていく」ということです。
 しかし、現実の世界では「数が多いから重要」ということは返って少ない。むしろ「重要な部分」は全体の一部であることが殆どです。この事実から民衆の「平均値」が国を支配する「ポピュリズム」の危険性が指摘されます。ある集団の最も優秀な人材が、船の舵取りをするのではなく、集団の平均的な人材が、優秀な人材の意見を無視して舵取りする。もちろんこの結果は、平均的な人材が満足することになり、優秀な人材にとっては納得いかないものになる。

ペンギン イラスト 古賀ヤスノリ

 資本主義のような多数決は必ず「格差」を生むと言われています。民衆という平均的な意見が「格差」を生むという逆説。実際は多数決という方法自体が不平等な形式といえます。「数の支配」も結局は支配であって、それは権力を作り出します。格差とは平等に流れないように、権力が力を加え続けることで維持さる。「多数決が平等」という「とりあえず」の取り決めの限界が、真実としての平等を阻害し続けている。そもそも「平等」とは数ではなく究極的には「精神の平等」であり、それらが数によって測られないという前提を喪失した結果の事態なのです。

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『コロナ以後の世界』

 現在、新型コロナウイルスの感染防止により、人々は切り離され、独立した「個」として振る舞うことを強いられています。これまで当然だった集まりや近いコミュニケーションが出来ない状態です。このような日常とは違う状態を「非日常」と考え、早く前の状態にも戻らないかなと考える。
 しかし、もし今回の新型コロナウイルスが、10年単位で世界中に留まるとするならば、ある程度は人と人との「距離」を保つことは、日常になるかもしれません。そうした姿勢で「新しい社会構造」を作る方が、もし新たなウイルスが発生したときには安全です。さらにお互いを変に拘束しあうような関係も、正常化されていくはずです。

古賀ヤスノリ イラスト

 ウイルスの全容が把握されていない現在、これまでのような確率論で未来予測することは難しくなっています。今のところ、「これまでの生活」に成れている私たちは、以前の生活へ戻るだろうと無意識に感じ、また願ってもいます。しかし、世界史的に見れば、大きな疫病が蔓延した後には、必ず秩序体系の「刷新」が起こります。今回のウイルスの規模から推察すると、そうなる可能性が十分にあります。つまり元へは戻れない。以前大事だった価値観は、使えないどころか、逆に不利益を生むかもしれません。少なくともそう考えておくことで、次にくる「新しい世界」への有効な備えとなるはずです。

AUTOPOIESIS 0056/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『遊びと人間』

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「遊びと芸術は生命力の余剰から生まれる」
(ロジェ・カイヨワ)

 ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を着想に生まれた一冊。フランスの天才的評論家ロジェ・カイヨワによる「遊び」の徹底分析は、臨床心理学の分野にも活かされるほどの実践的な内容。遊びを「競争」「運」「模倣」「めまい」の四つに分類する。さらに「模倣」と「めまい」の結合が人間を原始的な状態にとどめ、その世界を断ち切り「競争」(才能)と「運」(挑戦)の結合世界を作ることが文明への道だとする。原始的な「模倣」と「めまい」が“仮面”によって結合するというくだりは、統合失調化する現代を一言で表している。決してホイジンガの「模倣」ではない、まさに文化遺産的な一冊。

book / 026『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ: Originally published in 1958
illustration and text by : Yasunori Koga

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