『ソラリス』

古賀ヤスノリ イラスト
「人は自分の潜在意識に対して責任を持てるのだろうか?」
(スタニスワフ・レム)

 ソラリスという惑星は、二つの太陽を周っている。ゆえに二つの引力の影響を受け、惑星内部の重力は不安定である。しかしソラリスに唯一存在する「海」が重力の安定化をはかっている。「海」は意志をもち、主人公たちの「抑圧されたイメージ」を物質的に具現化させる。心的抑圧による病理と、不安定なソラリスの重力は、共に「海」という安定装置によって補正される。しかし「海」という「超越的な存在」が意図することを、人類がはたして理解できるのか。数少ない登場人物にサイバネティックス学者を選んだところに、すでにこの小説のテーマが現れている。SF文学の頂点に位置する作品。

027『ソラリス』スタニスワフ・レム: Originally published in 1961
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『isonomia』

『自我という機能』

 「人間は生物である」。その意味では、アメーバーなどの単細胞生物と変わりません。「人間は動物である」。その意味では、犬や猫と変わらない。「人間は高度な知能をもった動物である」。程度差はあれど、その意味で人間は、サルやチンパンジーと変わらない存在です。「人間は自我を持った存在である」。これは今もって並ぶものがありません。
 人は自我を持つがゆえに、他の動物との違いが明確になる。この自我とは何か。簡単に言えば「自分が『自分』と思っているもの」でしょう。言い換えると、「他と自分を“区別”している機能」、とでも言えばよいでしょうか。よって「みんなと一緒」になろうとすると、自我は喪失へと向かいます。
 もし「みんなと一緒」へ向かうことが、自我喪失の原因だとすると、それは「自我をもたない動物へ降格する」ことではないか。こう言うと、「人は社会的な動物なので“みんなと一緒”でなければ人間ではない」という人もいるかもしれません。しかし群れになる動物は「みんなと一緒」ですが、自我は持ち合わせていません。かれらは「本能」によって群れを成しているだけです。
 人間が集まって、「みんなと一緒」という気持ちになった時、自我はなくなります。硬い言い方をすると「責任」がなくなる。だから集まりたいと無意識で思っている人もいるでしょう。つまりここに「集団になると自我は消滅する」という定理が現れます。多数への帰属意識は、自我からの逃走である、というわけです。

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 集団になることで自我を失う。それが「群れ化した動物たち」であるとするならば、多数への帰属意識に支配された集団は「羊の群れ」なのかもしれません。そして多数決の原理である「民主主義」の社会も、「羊の群れ」の社会であるかもしれない。「民主主義」を推し進めることで、人々は自我を喪失し「羊の群れ」となる。これが「民主主義」の矛盾であり限界にある問題です。
 もし人々に「集団になれない状態」が発生すれば、個々の自我は守られます。つまり「羊の群れ」にはなれない。言い換えると責任は自分で背負うしかない。これまで「羊の群れ」で安心してきた人々にとっては、幾分か辛い状況かもしれません。しかし「自我喪失の病」と「集団への帰属」の関係を考えたとき、その「安心」こそが病理の入り口であることを、理解する必要があります。
 私たちが良かれと思い進めてきた「民主主義」が、逆に人々を「羊の群れ」に退化させてしまう。どのようなシステムであれ、時と共に形骸化していきます。自我という高度な機能を持った人間が、その機能を退化させるような「多数への帰属意識」をどう回避していくのか。これから必要となる社会の形態は、「民主主義」と「集団心理」を揚棄した場所に構築されるのです。

AUTOPOIESIS 0062/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『名前と虚構』

 これはリンゴである。川である。或いは人間である。ものには名前が付けられています。そうでなければ他人と共通に会話が出来ません。しかし、目の前にある「赤くて丸い物体」は「リンゴ」などというものではなく、「見たまま」の物質です。あるいは「あるがまま」の存在と言ってもよいでしょう。
 人によって「見え方」は違います。微妙な赤をオレンジと感じる人もいる。形にしても人それぞれ印象が違います。つまり、それぞれが感じている「まるくて赤い物体」に便宜的に「リンゴ」と名付けて、会話が成立するようにしている。名前がなければ、みなバラバラで、会話が成立しません。

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 ここで妙なことに気づきます。みなそれぞれに「見え方」が違うのなら、それらを「共通に認識する基準」をどのように発見たのかということです。もし「見え方」がバラバラなら、共通項を抜き出すことは不可能です。しかし「リンゴ」にはリンゴに共通する“何か”がある。だからみなリンゴを思い浮かべることができる。
 みなそれぞれに認識しているリンゴは別々のリンゴです。会話でリンゴの話しをしていても、まったく同じリンゴのイメージを持つことはあり得ないでしょう。しかしリンゴの「リンゴたる所以」は、みな同じイメージとして持っている。つまりリンゴの「定義」をイメージとして理解しているということです。

古賀ヤスノリ イラスト
 このイメージによる「定義」さえ共通であれば、あとは少し欠けたリンゴであろうが、赤くないリンゴであろうが、共通に会話が成り立ちます。この定義は言葉による定義ではありません。むしろ言葉に出来ない定義であるからこそ、無限の差異を統一できる。ここに「言語の終焉」というテーマも発生してきます。
 「言語の終焉」の話しは別の機会に譲るとして、リンゴの共通項であるイメージ定義を、紀元前にすでに発見した人がいます。古代ギリシャの哲学者プラトンです。彼が発見した概念で一番有名な「イデア」がそれにあたります。プラトンはイヌならイヌの、シカならシカの、イスならイスのイデアがあると言います。それぞれの違いを超えて共通にあるもの。そのイデアは言語的な差異ではなく「直観されるもの」です。
 丸くて赤い果物に「リンゴ」と名付けたときから、人々は目の前の「あるがまま」を見なくなる。個別的な差異は見なくなります。そうして私たちは、「言葉だけの世界」に入り込み、そこから出られなくなる。名前とは本来イデアに付けられたものであり、本物は一つとして同じものはありません。しかし言葉に支配されると、名前が実質となる。このような形骸化が「人を虚構に住まわせる」のです。

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『新しいとは』

 「新しいこと」を取り入れる。これは良いこととされています。なぜなら放っておくと古くなるからです。身体は水や食料といった「新しいもの」を摂取し、古くなったものを排出することで維持されます。つまり新陳代謝です。それは「もの」だけでなく、知識や文化といった「こと」にも言えます。
 新しい知識や情報を取り入れる。これは現代人のなかば至上命令として作用しています。学校で学習しネットで検索し、会話で情報を得る。出来るだけ多くの「新しいこと」を知ることが有利である。そのような観念をみな無意識に持っています。それによって自分はより新しく強化されると。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも「新しいこととは何か」という問題があります。例えば、芸術の世界では、新しい表現に価値があります。亜流は無価値だと判断される。しかし現代の芸術には、一見すると古典的な表現もなかにはあります。しかし最新の芸術として評価される。つまり表面的な新しさが「新しいこと」ではないということです。
 水や食べ物のような「新しいもの」は、鮮度として計ることが出来ます。しかし「芸術表現」といった「こと」に関しては、客観的に図ることが出来ません。物理的なものを計る「明確な物差し」がないからです。よって量的に測れないものは、心で感じ、精神によって「判断」するしかありません。
 見た目ではなく、本質的な新しさは、量的には測れない。よって心で「感じ」、精神で「判断」するしかない。ここに「新しいこと」を認識することの難しさがあります。量的に測れないということは、機械には認識できないということです。鮮度や時間にかかわることなら機械で認識可能です。しかしそれが不可能な場合は、人間のような「心を持つ者」でしか判断できないということです。

古賀ヤスノリ コラージュ
 話しが複雑になってきましたが、この論考のテーマは「新しいとは」です。新しさには「こと」と「もの」があり、前者は数量化できるが後者は数量化できない。量的に測れないものは、心で「感じ」精神で「判断」するしかありません。つまり「新しい」には「量的な新しさ」と「意味的な新しさ」の二つがあるということです。
 「量的な新しさ」とはつまり「物理的な新しさ」です。それに対する「意味的な新しさ」とは「精神的な新しさ」です。たとえば「新しいショップがオープンした」という情報は、物理的な新しさです。最新のモード、有名人の振る舞い、企業の広告、すべて「量的な新しさ」です。それに対し、物理学者が新しい発見をしたのなら、それは「精神的な新しさ」です。たとえそれが、過去の論理や数式の組み換えや応用に過ぎなかったとしても。
 人々が「新しい情報」を取り入れる。しかし、ただ溜め込むだけでは新陳代謝は起こらず、阻害の原因にすらなります。真の意味での「新しい情報」とは、それまで蓄積した情報を刷新し、古いものを排出する。そのような作用をもつものが、量的に測れない「新しいこと」です。それは客観的な物差しがないので、自分自身で判断するしかありません。つまり「自分にとっての新しい」ことです。それは心でしか「感じる」ことが出来ないものです。
 「量的なもの」「物理的な新しさ」は誰にでも分かるものです。だからモードを一般として共有できる。しかし「新しいこと」は「新しい発見」であり、それはその人の発見です。芸術や学問のように、それが一見古い見た目であったとしても、そこに新たな発見を見出せれば、最新の情報に昇華する。これは精神的な新しさであり、量的には測定不可能です。この「新しいこと」が、心をもった人間にしか量れないのであれば、ここに個性や自我といった、人間の根本問題が隠されていることは、疑いのないことなのです。

AUTOPOIESIS 0060/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『社会的な多様性』

 生物多様性なることばをよく見かけます。それとともに「多様性」という言葉が、様々な場面で使われるようになっています。そもそも多様性とは「違いの共存」とでも呼べる状態を示しています。自然界はまさにそのような状態であり、それらの違いが影響し合い、一つの生態系をかたち作っている。つまり個々の違い(差異)は、自然にとって不可欠なものです。
 生態系にとってなくてはならない「多様性」は、自然発生的に生まれる差異です。それはエコシステムにとっての重要な要素。もし個々の差異がなくなり、すべてが一様となれば、エコシステムは停止する。つまり「個々の違いが全体(エコシステム)を機能させる」という意味においてのみ、「多様性」が重要だとうことです。
 しかしこの「多様性」という言葉が、いま自己正当化の方便として使われています。自分(或いは所属する組織)を、周囲が認めないのは多様性に反する、といった具合に。しかしこの論理を突き詰めると、泥棒の多様性を認めよ、暴力をふるう多様性も認めよ、ということにもなります。彼らには「多様性」がエコシステム維持のための「分散機能」であることが理解できていません。ただ言葉の意味が悪用されているだけです。「多様性」を自己正当化と思い違いをすると、逆に人間にとっての生態系である「社会」が腐敗していくことになります。
 社会的なエコシステムが機能するための「多様性」を、どのようにつくりだすか。これが今後の人類のテーマです。生物多様性にできるだけ近い形で、「社会的な多様性」を実現させていく。そのためにはやはり、自然界の多様性を手本にする必要があります。自然界の多様性は、たとえ暴力的に見える捕食者であっても、そのすべての行動と結果が生態系維持のための重要な要素になっています。それに対して社会的な暴力は、ただ社会を破壊するだけです。

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 これまでの社会は、自然環境を人工的に整備(制御)することで成立してきました。自然と共存していた先史時代の社会とは違い、現代の社会は自然を制御し利用するだけで、基本的には自然と断絶しています。自然から隔離された環境内(現代社会)での暴力や破壊は、社会の無秩序化と、環境破壊へ向かいます。自然のエコシステムによる再生産機能が、今の社会には存在しないからです。よって「多様性」と自己正当化を混同することは危険なことなのです。
 今後、自然がもつエコシステムを社会が獲得するためには、真の意味での「社会的な多様性」の成立が必要不可欠です。それは個々が「なすがまま」を正当化するのではなく、エコシステムにとっての「多様性」を理解することから始まります。その意味でも、「自然との共存」を高次元で回復した「環境主義的な社会」をイメージすることが大切です。自然を制御するのではなく、環境の変化に対応しながら変化していく社会。「自然との同期」と「社会的な多様性」の確保は、これから同時に行われるのて行くだろうと予想されるのです。

AUTOPOIESIS 0059/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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