『数は質を生むのか?』②

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 数と質は別のレベルに属するものであり連続していない。ゆえに数を増やすことは、そのレベルを固定することになり、逆に質への転化を阻害することになる。このような構造を見る限り、数が質を生むとは考えられません。しかし数が減ると最後には消滅してしまいます。その意味では数はそのレベルを維持するために必要だと言えます。
 数はあるレベルを維持するために必要である。よって数を目的としているうちは質への転化はありえません。同じ質のものを生産し続けても、そこから上質のものは生まれない。ならば質への転化はどのようにして起こるのか。低質が高質へと変化するためには、数によって維持しているレベルを捨てなければなりません。魚が魚であることを捨てたときに両生類へと変化できる。今のレベルを正当化しているかぎり進化はないのです。では「捨てる」ということはどういう事でしょうか。
 自分自身を捨てる。そして新しい質を得る。この二つは同時に起こります。しかも漸次的ではなく一瞬で起こる。例えばキリンの首が少しずつ長くなったことを示す、考古学的な証拠は存在しません。それは漸次的にではなく一挙に進化することを示しています。キリンの前身にあたる動物は、そのレベルを維持するために数を増やし続ける。そしてある瞬間から首が長くなりキリンになる。数が進化の原因ではありません。生物進化は遺伝子の「突然変異」として説明されています。その変移はランダムに起こり、結果的に環境に適応したものが残る。突然ランダムな変移が質を向上させるというわけです。
 しかし何かを練習してレベルが上がる時、その原因がランダムに与えられるということはありません。何かの訓練でいえば、その訓練で会得し理解した瞬間に、その訓練のレベルから「解放」される。つまり訓練しなくても出来るようになる。この時点で以前の質は捨てられる。そして新しい質的レベルに入ります。このキッカケはランダムに与えられるものではなく「経験的な理解」(認識)によって起こります。もし自然を擬人的に捉えるならば、自然が状況を「経験的に理解」(認識)したときに「突然変異」が起こると言えるのです。

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『数は質を生むのか?』①

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 数は質を生むのか。これはあらゆる領域に横たわる普遍的なテーマです。よって漠然としたゴールは直感しながらも、細部は不明なまま、論考を進めることになります。つまり行き先が分かって進む「決定論」を捨てて、未知の領域へと分け入るということです。実はこのプロセスと今回のテーマは本質的に重なっていると思われます。その直感を順を追って証明しいく事にしましょう。
 まず「数」とは何か。「数」とは抽象概念であり、実体ではありません。三人は3に置き換えられますが、実体として三人が先にある。5つのグラスは5個の実態を5という数字に置き換ることができる。さらに数には123…と順序があります。抽象的な規則性がある。それに対して「質」には実態を置き換えることも、抽象的な規則性もありません。「質」とは内容であり、本質であり、純度のようなものです。
 たとえばリンゴが3個あるとします。数としては3に置き換えられます。しかしその中の一つが腐っているとします。するとそのリンゴの「質」が悪いと言います。内容が悪く、純度が低く、本質的でない状態です。「数」はそういった「質」を無視したカウントにすぎません。この二つの概念は全く別種のレベルに属するものであり、決して連続してはいません。
 よく「数が質を生む」という言葉を耳にします。練習をたくさんすることで何かが上手くなる。たとえばテニスや書道や小説の訓練など。しかし本当に「数」を増やすことが「質」に繋がるのでしょうか。必要な技術や知識の「数」を増やすことが「質」の向上なのでしょうか。もしそうなら進化の過程で、魚が繁殖し「数」をどんどん増やすことが進化に繋がることになる。しかし魚は現在も魚として存在し続けています。魚から進化を遂げた生き物は「別の方法」によって枝分かれ的に進化しているのです。
 進化とは「質」の向上です。進化の「質」を段階に分けることで、魚類から両生類、爬虫類から哺乳類という「質的段階を見ることが出来ます。しかしこの段階の間には断絶があり連続していません。魚が「数」を増やすだけでは一向に両生類にはならない。なぜなら魚が「数」を増やすことは、魚のレベルを固定することだからです。ここに「数」を増やすことのパラドクスがあります。進化や質の向上からすると、「数」を増やすことはむしろ逆行を意味することになるのです。
 

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑥

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 出口のない迷路から見えてきた月と、そこから発見した「相関性の原理」。入口と出口が重なり見分けがつかなくなった時、その構造はパラドクスとなり「内側しかない世界」となります。迷路の住人が外の世界と関係が切れたとき、あるいは外を否定し内部だけを肯定したとき、その構造は閉じて出口を失う。つまり外と内の相関性が失われた時、迷路は出入口を失い、脱出が不可能になるということです。
 迷路の外と内の間に相関性が失われた時に、迷路は出口なき構造となる。ならば再び外と内の間に相関性を作り出すことで、出入口が現れるのではないか。相関性は類似点を言葉や数字で括ることで生まれる。逆により小さな違いを分類することで、相関性の原理を免れると書きました。つまりそれまでは迷路の外側が「外」であり世界の「全体」であった。しかし迷路に入り込むうちに、迷路の外側が忘れ去られ、内側だけが世界の全てになってしまったのです。
 「資本主義的な相関性」から免れる方法は、数字や言葉による括りよりも、物事のリアルな「違い」に目を向け、注意深く分類を行うことでした。これとは逆に、出口のない迷路から脱出する方法は、外と内の相関性を取り戻すことです。つまり外と内が相関するレベルまで、内的に細分化した世界観を、大きく俯瞰して「全体を取り戻す」こと。そのためには細部を省略し、より大きな塊を全体として認識する必要があります。顕微鏡のレベルで世界を見ている限り、迷路の外と内が相関することはないのです。
 細部を省略し、より大きな塊を全体として見る。その全体をまた一つの分子として考え、その分子の集合体としての全体を見ていく。つまりマクロ的な視点を導入していく。このように「ミクロ視点からマクロ視点へのターン」を行うことで、迷路の外が見えてきます。この時点で迷路の内と外の相関性も回復される。出入口を探すまでもなく、私たちはすでに迷路の外に脱出したことになります。
 資本主義的な負の相関性は「マクロ視点での記号化」(共通概念による括り)と「貨幣経済」が無謀議に結びつくことで発生しています。この「マクロ視点」と「相関性」という所では「迷路の脱出方法」と重なります。しかし資本主義的な「負の相関性」は言葉や数字による記号化が要です。そのことによって形骸化という大問題を引き起こしています。それに対する迷路の脱出に利用した「マクロ視点」の導入は、「イメージによる相関性の回復」に他なりません。私たちは数字や言葉を超えた「イメージを思い描く力」(想像力)を使うことで「記号的に不可能と思われる構造」を超えていくことが出来るのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑤

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  相関し合わないものが言葉によって相関してしまう。それは細部の「違い」を無視して「類似部分」だけで物事を括ることで強固となる。さらにその括り方や共通項の選択は恣意的である。ちょっと複雑な見方ですが、ようは物事の共通部分に注目したもの同士が相関するということです。逆にそれぞれの「違い」に注目すると物事は相関性から免れる。
 相関性から免れるということは、他とは影響せずに独立であるということです。魚の種類分けを細かく行うことで、それぞれは独立していく。それらを一括りとするのは「魚」という言葉である。しかし言葉よりももっと強力な括りがあります。それが「数」です。数はすべてを同列のレベルに還元してしまう。魚も鳥も全て数字に置き換えてしまえば、どんなに違うものでも相関してしまうのです。
 魚と鳥が相関すればそこから奪い合いも起こる。本来は相関せずに争いも起こらないはずの事象が混乱していく。数字は便利である反面、世界に争いをもたらす原因ともなっています。言葉にしても数字にしても、社会を円滑に機能させるためには無くてはらなない概念です。その意味では社会を成立させる条件である「記号化」が、争いの原因であるというパラドクスがここにあります。
 数量化によって成立した社会がそこに「貨幣」という発明を利用することで、現在の資本主義は成立しています。現代ではお金こそが全てを等質な価値に還元してしまう魔法の尺度です。本来は相関するはずのないものたちが、あらゆるものと相関「させられている」という状態です。人々は奪い合い、争い合う。そこから得た利益がさらなる資本主義の原動力として投じられていくのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』④ 

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 「負の相関性」を阻止するには物事を「適切な階層へ分ける」必要があります。しかしそれを邪魔する者がいます。それは言葉です。例えばサバやイワシという種類が「魚」という上位概念でしか認識されなければ、この二つは「同じもの」として扱われます。つまり「魚」という言葉の括りによってサバとイワシは同じ世界に並列されてしまいます。エレベーターで言えば1階2階という「階層の“違い”」が「フロア」という上位概念で認識されることで、階層の違いは同じものとして扱われ、そこにパラドクスが発生することになります。
 言葉は世界を文節化して対象化し、名前をラベル貼りして出来たものです。海に住む生物のある特徴のものを「魚」や「fish」と名付ける。そして共通了解へと至る。この言葉が、細部の違いがある「実体」より先行すると、物事の階層分けの邪魔をすることになる。サバとイワシは同じ魚ですが、より詳しく見ると種類が違います。逆により大きな括りでみると同じものになる。魚であり、生物であり、食料になるものであり、お金になるもの、などです。
 細部の違いがある「実体」を無視して、大きな括りだけで捉えると、別々の階層にあるものが、同じレイヤーへと結合されてしまう。そうすると相関しないはずのものが相関することになってしまう。逆に、相関しているものたちの違いを発見し、分類することで相関を回避することができる。つまり「同じ所」に注目すると相関し、「違う所」に注目すると相関を回避できるということです。より平易に言えば、「仲間の条件」で括れば相関し、「仲間ではない条件」で括れば相関しないのです。
 ここで重要な問題は、それぞれの関係を「仲間の条件」で括ることも「仲間でない条件」で括ることもできるということです。つまりそれぞれの関係を相関させるか相関させないかは、恣意的な次元にあるということ。どちらが正しいとか、決まっているとかいったことはないのです。もちろん物理的な世界の物質は「押せば動く」という相関性がみられ、物理法則として決まっている。恣意的ではありません。しかしそれも物質の「位置」という視点で括っている時の相関性であり、「重さ」の視点ではお互い無関係です。その意味で、相関性は予め決まっていないと考える「相関の恣意性」は、視点や条件、括り方が恣意的(自由)であり、それらは主体的に決定することが出来る、ということなのです。

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