『スケアクロウ』

 アメリカン・ニューシネマを語るうえで、欠かせない映画がいくつかある。「イージーライダー」や「タクシードライバー」、そしてこの「スケアクロウ」もその一つだ。若き日のアル・パチーノとジーン・ハックマンの演技が胸を打つ、不器用な二人のロードムービー。アルトマンの「ロング・グッドバイ」を撮り終えたばかりの名カメラマン、ヴィルモス・スィグモンドの撮影も素晴らしい。観終わったあとに何とも言えない余韻が残る名作。

vol. 006 「スケアクロウ」 1973年 アメリカ113分 監督:ジェリー・シャッツバーグ
illustration and text by : Yasunori Koga

★古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『ストリート・オブ・クロコダイル』

古賀ヤスノリ イラスト

 この作品はポーランドの作家、ブルーノ・ジュルツの「大鰐通り」を映像化したもの。朽ち果てた人形やネジ、ゴムたちが、命を宿したかのように動きまわる。幻想のようなしかしリアルな世界。この世界はクウェイ兄弟ならではとおもわれているが、実はシュルツの小説そのままと言ってもいいくらいだ。クエイ兄弟が以前からこの小説に影響を受けていたことがよくわかる。

人形をコマ撮りした、ストップモーションの映画なので全てが作り物。しかし、どこか現実以上に現実的なところがある。このような映像を芸術と呼ばずして、なにが芸術なのだろうか。

vol. 005 「ストリート・オブ・クロコダイル」 1986年 イギリス22分 監督:ブラザーズ・クエイ
illustration and text by : Yasunori Koga

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『カルパテ城の謎』

古賀ヤスノリ イラスト

 婚約者をさらわれたオペラ歌手テレック伯爵。その傷を癒すべく療養地として訪れた村で、人々から怖れられる「カルパテ城」の奇怪な噂を耳にする。興味を惹かれカルパテ城へ向かうテレック伯爵。その行く先で待ち受けるのは、婚約者をさらった奇人、ゴルツ男爵であった。

コメディー×(オペラ + 博物趣味 + SF)。これがこの映画を表す式である。ジュール・ヴェルヌの小説を下敷きにしているだけあって、地底、海底、宇宙のメタファーが、過去とも未来とも言い難い世界にちりばめられている。
この映画の見所は、主役のとぼけたオペラ歌手と、敵役であるゴルツ男爵の変人ぶりであろう。また美術を担当するのは、チェコのシュールレアリスト、ヤン・シュワンクマイエル。彼がデザインする奇妙な小道具の数々を見るのも楽しみの一つだ。監督のオルドリッチ・リプスキーは、つねに一風変わった世界を見せてくれるチェコ映画界の巨匠。 テリー・ギリアムやジャン・ピエール・ジュネの東欧版といったところか。この映画以外にも「アインシュタイン暗殺指令」や「アデラ、ニック・カーター、プラハの対決」が同じ傾向の傑作である。あの寺山修司やクローネンバーグ も愛したリプスキーの世界を、映画好きとして堪能しない訳にはいかない。

vol. 004 「カルパテ城の謎」 1981年 チェコ99分 監督:オルドリッチ・リプスキー
illustration and text by : Yasunori Koga

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『信頼』

 大工さんが建物を建てる。二階部分は届かないので、周りに足場を組む。その足場で二階部分の作業をします。もし、大工さんが足場を組んだ人の技術を信頼していなかったら、作業をしても落ち着きません。仕事が手につかないということになります。イライラしてストレスがたまってしまう。
 人は自分が信用できる足場でしか、落ち着いて作業ができません。信頼できる地盤でしか通常の能力が発揮できない。信頼とは何か。それは自分を預けても大丈夫だという感情のようなものでしょう。あるいは、存在の基盤を支える実存的な確証。世界に対する信頼がないと、そこで生活する人々は不安定になります。

古賀ヤスノリ イラスト

 では自分の足場となる世界を信じるにはどうすればよいのでしょうか。人は「壊れたつり橋」を渡る時、足で強度を確認しながら進みます。「ここは大丈夫だ」といった感じで。少しずつ信頼できる足場が広がる。広がった足場から新しい風景が見える。信頼とは「表面的なこと」ではなく「本質的なこと」(事実)です。本質に目を向けて、信頼できる足場を広げることで自分の実力が自然に顔を出す。自分の思いがスムーズに表現できる状態がここにあります。

AUTOPOIESIS 0055/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『社会的な価値』

 社会的な価値観というものがあります。「人々が共通に考えている」と思われている常識のことです。この常識は時代によって変化します。さらに一時的な社会状況によっても左右されます。社会を水槽に例えるならば、水槽の中の熱帯魚は水槽という社会環境を常識としている。もし水槽が傾いたり揺れたりすると、その変化を社会的な価値として熱帯魚は常に受け入れて生きます。
 もし水槽内が良い状態にあれば、その中の常識も魚たちに良い影響をあたえます。しかし水槽が不自然に振動したり、ろ過されていない水や有害な物質が入ってきたらどうか。もし熱帯魚たちがそれに気づかなければ、いつも通りの常識を受け入れて生活することになる。もちろん熱帯魚たちは悪い影響をじわじわと受けていく。

古賀ヤスノリ イラスト

 社会的な価値という「見えない環境」は、クリーンであるか汚染されているかが分かりにくい。中にどっぷり浸かっていては分からない。それらを適切に判断するには「外から見る」しかありません。それは、社会的な価値(常識)が「常に正しく無条件に従うべきもの」という考えを一度捨てることでもあります。そうして「見えない環境」の汚染に気づいたときには、人々の手によって、適切な状態へと戻す必要があるのです。

AUTOPOIESIS 0054/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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