『ネコのはなし』

古賀ヤスノリ イラスト むかし飼っていたネコは、知らない人が来るとすぐに怒っていた。気に入らないのか不安なのか理由はよくわからない。怒ったって仕方がないのに怒る。怒らないネコもいるので、それが個性というものであったか。おとなしくとも無反応なら、個性としては記憶に残りにくいかもしれない。やはり何かしらの「個性の表現」があって初めて人の記憶に残る。これはネコだけの話ではないなとおもう。
 

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『価値の急降下』

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 長年追い求め労力も費やしてきた事柄が、ある日色あせて何の価値も感じなくなる。このようなことが往々にして起こります。なぜこういった価値の急下落が起こるのでしょうか。そもそも熱っぽく何かを求める対象は、「心の穴を埋める」ような要素である事が多い。心の不足を補うような対象であるがゆえに、熱心にそれを追い求める。しかし不足を自分自身で(たとえば精神的な成熟によって)解消してしまうと、追い求めていた対象の価値が急下落する。このパターンはかなりあると思われます。もう一つのパターンは、社会の変容によってその価値が下落するというものです。これはそもそも相対価値を基準として追いかけるので、周囲の関係によって価値が変動せざるを得なくなります。こちらの方は永遠に価値の変動と追跡を繰り返すので、満足に行き着くことがありません。前者の場合の価値下落は、その時の寂しさはあるけれど、結果的には良い下落だと思われます。そもそも価値というものは、対象自体にあるのではなく、人間側の心の変容にある。だからこそ、お金や数字で一般化されたものでさえ、価値が下落してしまうのでしょう。

 

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『こどもへの抑圧』

 日本の児童、生徒の自殺者が過去最高になったとイギリスのBBCが報じています。日本はここ数年自殺者は減少しているが、それに対して子供の自殺者は増加しているといいます。この事態をどう考えればよいのでしょうか。統計では、いじめや家族の問題よりも「進路問題」が自殺の原因のトップだったそうです。つまり社会的な抑圧が原因で、子供たちが自殺へ追い込まれているということです。自殺者の数を減らそうと対策を打つ。その影響で大人の自殺者だけが減り、子どもの自殺者が増えた。つまり「大人を助ける制度」が結果的に子どもを苦しめている。ちょっと考えただけでも「大人の安定=保守化」に社会を傾けることで、未来に可能性がある子供たちには抑圧となります。不必要な補助は人をダメにするというテーゼ。自殺を考える人に対する補助と、未来の可能性を消し去る補助の区別がここでは問題となります。たとえ意図せずとも、大人のために「子供に必要なもの」を取り上げる制作になっているとすれば、それは「超自我の強い日本列島」(親優位社会)の発想そのものだと言えます。大人が真に自分の腹を裂くことでしか、この問題は解決して行かない。こどもは親や大人の所有物ではないのですから。
 

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『哲学入門』

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 イギリスの哲学者バートランド・ラッセルという人が『哲学入門』という本を書いています。もう一つ『現代哲学』という本もありますが、どちらも哲学の入門書として書かれたものです。しかし、その内容は明らかに哲学書そのものです。特に『現代哲学』は入門書としては難しすぎる内容です(私の主観ですが、プラトンやデカルトより難しい)。しかしこれはとても面白いことではないでしょうか。入門書とは本格的な哲学書など歯が立たない人が読む本です。しかしその入門書が本格的な哲学書になっている。これは一種のパラドクスでしょう。しかしテーマである「哲学」の性質上、「物事の本質を扱う」という‟哲学的形式”を外すことができません。なので入門書も‟哲学的形式”で書かれることになります。当然バートランド・ラッセルのような正真正銘の哲学者が‟哲学的形式”を外すはずがありません。よってバートランド・ラッセルの『哲学入門』という哲学書が生まれることになります。このような本が真の哲学の入門書だとするならば、それ以外の本(哲学書でない入門書)は入門書にあらずということになる。「哲学の入門書=哲学書」という等式。ここであらためて気付くことは、‟哲学書とは哲学の入門書である”ということです。哲学書とは、著者と共に哲学を探究する書物なのですから。

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『セルピコ』

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 「自分自身になる」ということは「別のものになろうとしない」ということでしょう。あるいは演じようとしない、成りすまそうとしないということです。『セルピコ』という映画で、主人公のセルピコ(アル・パチーノ)が、パーティーの人々が肩書を言い合う姿をみて「みんな別人になりたがっている」とつぶやくシーンがあります。彼はその光景に飽きあきしているわけです。まあ商売上、肩書が必要なことはありますが(私も肩書やペンネームを使っています)、そのシーンは「自己逃避の振る舞い」に嫌悪するセルピコの個性を表していました。もし別人になり切ることで安心するとすれば、それは自己逃避による一時的な不安の解消と考えられます。もし人々が世間の要望に従い、別人格を振る舞うとするならば、その裏にあるのは不安の解消です。もちろんそのような環境が「自分自身になる」ことを許すはずもありません。この‟出る杭は打たれる”という暗黙のルールは、セルピコから嫌悪されるでしょう。しかし『セルピコ』という映画がアメリカで作られていることを考えると、世界はどこであれ大差ないのかもしれません。
 

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