『名声を求める心』

古賀ヤスノリ イラスト

 名声を求める心とはいかに。それは「自分をどう思うか」ではなく「他者からどう思われるか」に固執た状態でしょう。その元型はやはり幼少期に‟親からどう思われるか”に過度に囚われたことが原因ではないでしょうか。つまりフロイトの言葉を使えば「超自我」が原因だと考えられます。超自我とは親の価値観が内面化したも。つまり「親の要求」が今だに働いているということです。名声を浴び、頂点で人々を支配すれば、親が関心するだろうという思いがある。もちろん他者から悪く思われたりすることは誰だって遠慮したいものです。しかし‟名声を浴びたい”という感情も、ある意味で悪人と思われる事と同じく「異質な見られ方」です。それほどまでに「あるがまま」ではいられない状態なのかもしれません。しかし結果として「親の代理満足」を得るために利用された形となっている。それを自分が望んでいると思い込むのが名声欲でしょう。そこに本人の自由はないということになります。

 

AUTOPOIESIS 0010./ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『自己とフィードバック』

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 河合隼雄さんの本を読んでいると、エリクソンの話しが少し出ていた。アイデンティティということばを生み出したエリクソン曰く、自己と社会性が調和したところにアイデンティティの確立があるという。しかし青年期に自己のディフュージョン(同一性の拡散)が起こると、大人になってからアイデンティティを確立しにくくなるということだ。このディフュージョンはなぜ起こるのか。自分なりに推測してみて思うことは、やはり自我の過剰防衛による「反ホメオスタシス構造」(反サイバネティックス構造)が内部に出来上がるからではないだろうか。自己同一性を維持するためには、外部変化に流されない一定の舵取りが必要である。つまりフィードバック回路がないと拡散してしまう。しかし過剰防衛で外部情報を遮断してしまえば、フィードバックを取り入れることができない。ここにディフュージョンが起こる。端的にいえば、親が不必要な厳しさで子供に接するとき、子どもは過剰防衛的に育つ。心的なフィードバック回路が未発達のまま社会に接するとディフュージョンが起こってしまう。ここに「自己と社会性の調和」(アイデンティティの確立)が難しくなる原因があるのではないだろうか。 

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『進化するために』

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 進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドという人が、偶発性こそが生物進化の鍵だと著書で述べています。だから進化を科学的に予測などできないとも。振り返ったときにそれは見えるということです。つまり「ああすればこうなる」という「決定論」を採用して進む限り、進化できないということ。ここで現代の大きな問題が浮かび上がります。テクノロジーの最先端であるパソコンやインターネットの中は、すべて決定論で出来ています。突発的な偶然など起こりません。ゆえに、人間がパソコンやネットに依存している限り、進化できないことになります。このような状況に対して、偶発性を作り出すには、パソコンもスマホも放りだして進まなければなりません。現在の状況を考えると、そのようなことは無理だと思われます。しかし進化とは前段階が死ぬことでもある。しかし人間はそのような社会的破堤を回避しようとする。ここに最先端の技術が進化を阻害するというパラドクスがあります。その先にゆくことは(たとえば社会がパソコンを棄てることは)予測不能な事態に飛び込むことです。進化とは後から振り返ったときにしか見えないもの。つまり前が見えないまま進むことが進化だということでしょう。もちろんただ単にパソコンを棄てただけでは、進化など出来ないことは自明のことでしょう。
 
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『集団心理の壁』

 個人であれば自分一人が枠であり、集団になれば集団の枠があります。集団の中で個人のアウトラインが明瞭に意識されることはまれで、集団心理とはそれほど内部の人々の「個人的な枠」を消し去るものです。
 たとえば家族という集団、さらにその集合体である地域、街、国家など、より大きな枠へと進んでも、そこには必ず枠内を拘束する集団心理があります。集団心理はつねに、「内側」という意識に支えられていて、その意味では「外側」との関係によって成立している。国家が他の国家によって成立することは当然のことです。よって内部の結束をより強固なものにするためには、外部(あるいは敵)を作り出す必要があります。子供のいじめから国家の舵取りまで、この原理による振る舞いは、いたるところで見られるものです。
 しかしこのような外部依存型の「閉じた構造」は、すでに崩壊の始まりを表していると言えます。物理学の視点で見れば、内部のエントロピーは増大の一途をたどる。閉鎖した集団が、外に敵を見出して硬直化するというプロセスです。その先に幸福が待っていたためしは、歴史上いまだかつてありません。しかし人間は、集団の力を利用せずに文明を維持することはできない。ここに文明のパラドクスと、超えるべき指標があるように思います。
 
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『尊厳と文化』

  他人を尊重する。当然のことであるけれども、これはまず自分が自分自身を尊重できていなければできない。なぜなら人は自分にしていることしか他人に出来ないからである。その意味で自己は他者であり、他者は自己である。自分を尊重するとは、自分の欲を尊重することなどではない。その逆に自分の低レベルな欲望に支配されずに、自分の尊厳を守れるような判断をするということだろう。そのことによって自分は結果として尊重されていく。原始的な欲動からの解放が、自他の尊厳を守る方法であるのならば、フロイトが定義した「文化の獲得」と完全に一致する。つまり、他人を尊重することで自他の尊厳が守られ、そこに文化が発生する。その代償は欲望の放棄である。「経済が低レベルな欲求を刺激することで利益を得ているいう構造」、それが文化の発展を妨げている。この説は、「文化=欲望放棄」の視点で見ると的を得た指摘だと考えられる。‟消費は未開の儀式だ”とレヴィ=ストロースあたりが言っているのかもしれないが、私はそれを知らない。逆に、自他を尊重し人々の尊厳が守らる社会では、消費は下降すると考えられる。よって現代社会は尊厳を・・。さあ考え出すときりがないで、このあたりでやめにしよう。
 

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