『研究と表現』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 研究とはまだよく分かっていないことを、認識し整理して再現可能なものへ変えていくことです。なので誰もが分からなかったことを、誰にでも分かるようにまとめられた研究は、それだけ価値があることになります。しかしリスクもあり、長い年月をかけても結果が出ない場合もあります。よって保守的な研究者は、分かっていることを集めて整理して研究としがちです。
 分かっていることを並べ替えたり、言い換えたりすることで新しい結果とする。研究であれ表現であれ、この手法は一見新しい結果のように見えます。その性質上、他人にも分かりやすい。しかし実質は「同じ枠内」の変化にすぎません。それに対し本当の研究や表現(創造)は、「枠の外」というまだよく分かっていない領域を探求するものです。もしそれが本物の研究や創造であるか、という区別をつけるとすならば、「枠内」の反復か「枠外」の探求かが一つの基準となります。
 印象派のモネにしても、ウィーン分離派のクリムトにしても、最初はアカデミズムという枠内で表現していました。しかし段々と窮屈になり、枠外を仲間と探求し、表現して自分のスタイルを作り上げました。これは良質な学者の研究と同じです。歴史的に評価されているものは、常に反アカデミズムの性質があり、形骸化した枠を取り壊す重要な役目を担っています。もちろん抵抗する側もいますが、歴史は彼らを必ず退けます。真の研究や創造とは、形骸化したアカデミズムに気づき、その枠の外に広がる可能性を探求することなのです。

AUTOPOIESIS 252/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『自我の分子構造』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga
 よく心理学の分野で「自我」という言葉を使います。「自我」とは一般的には自分が「これが自分だ」と思っているところのものを指します。つまり他人は自我ではないし、また無意識にあり把握できない自分は自我から排除されています。この意味で「自我」とは他人ではないが、また自分の全体でもない、ということになります。そしてこの自我は始めから先天的にあるものではなく、人間関係によって作られます。
 自我は作り物です。しかも人との関係によって自我のあり方が決定される。このことから、自分の親が自我形成の最重要人物であることは疑いがありません。もし自我が不安定である場合、親に原因があると考えるのは自然なことです。親が支配的・圧政的であれば、子供の自我は「不安」と「服従」で構成され、無意識の行動原理となります。また親が子の主体を尊重し、拘束ではなく最終的な自律を目的として接すると、その自我は自由で自律的になります。
 親との関係で自我が形成される。それと共に、その後の人間関係によってマイナスがプラスへ転じたり、また逆もあります。分子構造のように、プラスやマイナスの人間関係が複雑に構成され、自我構造が出来上がっている。悪い方法をよしと吹き込む人や、怠惰や堕落を旨とする分子と結合すれば、そのような自我になる。また善悪の判断の重要性や、戦うべき時は逃げないという意志をもった分子と結合すれば、外部に流されない強い自我構造になるでしょう。つまりマイナス分子をできるだけ発見して分離(あるいはプラスと結合)することで、自我構造を安定させることができる。自我は人間関係によってできる分子構造のようなものなのです。

AUTOPOIESIS 251/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『美しく育つ環境』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga
 鉢植えで植物を育てていると、なんとなく調子が悪いものに気付きます。すぐに枯れていると分かるのではなく、成長が遅くなったり葉の形が小さくなったり退色したりという変化です。この状態を放置していると最後は枯れてしまいます。これは鉢の中に根がパンパンに張って鉢をおし広げようとしている状態です。こうなると根は“窒息”し水はけも悪くなる。つまり適切な成長には、植物の苗に見合ったサイズ(大きすぎてもよくない)が必要だということです。
 これは植物だけに限りません。成長に関わることには適切な器(質)とその大きさに見合ったサイズが必要不可欠です。もし成長が遅すぎたり止まっていたり、あるいはマイナス(たとえばヤル気が出ないなど)になったとすると、それは器(環境)に問題があると考えられます。器が小さかったり、偏っていたり、古くて壊れかけているものも良くありません。このように成長の鈍化や問題が器(環境)のほうにある場合も多いのです。
 植物の根は水や栄養を吸収する大事な役割があります。根がやせていたり問題があると、それは全てに影響します。美しく育つ植物は根がしっかりと健康ではっています。もちろんそれには日光や水といった要素が不可欠です。それと同時に植物の根が健康に成長する環境が大切です。成長に見合ったサイズへ器を変えていく。この概念があるかないかで成長は随分とちがいます。根は隠された成長の基盤です。その根に適した環境選びこそが大事なのです。

AUTOPOIESIS 250/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『猫が行方不明』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 メイクアップ・アーティストのクロエは、異性に無関心な男性と同居して日々を過ごしている。最大の友人はクロネコの「グリグリ」(仏語で灰色)。バカンスのため猫を預けることになり、その後猫が失踪することから物語が展開していく。

 主人公クロエは、男女関係という面倒を回避するために、異性に無関心な男性と同居生活を送っている。彼はクロエに対して女性的な興味を一切持っておらず、男女の同居が発展しない曖昧な構造で安定している。その状態を可能にしているのがクロネコ(名前の灰色も曖昧さを表している)の存在。クロエは猫に依存して生きている。しかしその猫がある日行方不明になる。捜索に乗り出すことで知り合いや経験が増えていき、物語の最後にはクロエは少しちがった女性になっている。依存対象から離れることで成長が始まるという、心理学的なプロセスが「パリの日常」で展開されるエスプリの効いた良作。

051「猫が行方不明」 1996年 フランス 監督:セドリック・クラピッシュ
AUTOPOIESIS 249/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『部分と全体』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga
 物事はすべて部分と全体で出来ている。人なら頭や体、足などの部分によって全体が出来ています。あるいは顔は目や鼻や口から出来ている。体の中だと心臓や肺といった部分によって全体が出来ています。当然ですが部分は全体の一部であり“全体のために存在する”ものです。よって部分が全体にとって代わることはありません。もし部分が全体にとって代わるとどうなるでしょうか。
 たとえば建物の部分である屋根がどんどん大きくなるとどうでしょう。最後には建物の全体が支えきれずに潰れてしまいます。あるいは生命活動の一部である「食べる」という部分だけが肥大化すれば健康を害するでしょう。さらに生活の一部である「仕事」を熱心にやりすぎて、生活が仕事に従うという逆転が起こると問題が発生します。このように、「部分が全体を侵食する」とあらゆる領域で問題が発生してきます。
 「部分と全体の転倒」は部分に熱心になりすぎて「全体を見失う」ことで起こります。その原因は「部分への固執」ともいえるし「全体からの逃避」ともいえます。あるいは全体のシステムにたいする責任から逃れるために、部分という歯車(部品)に“成りすます”ともいえるでしょう。人が人生全体よりもある事がらに執着(依存)したとき、あるいは集団が「人としての倫理」よりも組織防衛を優先したとき、あるいは生命活動よりも小さながん細胞が自己増殖を優先したとき、成長のベクトルは逆向きとなる。「部分と全体の関係」をチェックする仕事は、なにを差し置いてもなされるべき重要な仕事なのです。

AUTOPOIESIS 248/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

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