『個性と運命』①

 分析心理学者のユングは運命とはその人の個性が作り出すもので、つまり運命とは個性のことであると言っています。ゆえに自分の個性を受け入れるかどうかで、自分の運命を受け入ることが出来るかどうかが決まる。運命とは動かしがたい自分にとっての事実であり真実です。いくら拒絶しても最後までついて回る。そういった運命を受け入れることができれば、自分と世界はピッタリと歯車が合い安定して動き出す。こう考えると自分の個性を把握して受け入れることが、思いのほか大切であることが分かります。
 自分の個性は自分が一番分かっている。そう思うのは当然です。しかし自分が持つセルフイメージと、他人が自分に対してもつイメージはズレていることが殆どです。そして他人の意見のほうが客観的に事実に近い。つまりそれだけ他人のほうが自分の個性を把握しているということです。ならば自分を他人のように見ることが出来れば、ある程度の距離を取って眺めることが出来れば、自分の個性を正確に把握できる。
 しかし自分から距離を取って眺めることはなかなか難しいことです。「自分を客観的に見る」のは言葉でいうほど簡単ではありません。よって他人の意見は大きなヒントになります。さらに自分がやってきたことを、他人がやったことと過程して眺めるという手もあります。しかしもっと簡単な方法は、日常において創作をし出来た作品を自分なりに分析する。そこで思ってもみない自分の側面を発見すれば、それは今まで見ていなかった自分の個性を認識したことになります。そしてこのような個性があったからこそ、現実がこうなのだという理解も得られる。哲学者ニーチェは「自分の運命を愛しなさい」と言いました。つまりそれは「自分の個性を知りそれを愛しなさい」ということなのです。

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『思い入れの原理』

イラスト こがやすのり

 植物を種から育ててみる。まずは芽がでるまでに時間がかかります。もどかしい時間がすぎて芽がでたら、今度はある程度の苗になるまで予断を許さない。そうして段々と大きくなってその品種本来の姿があらわれます。いろんな苦労を経て育てた植物には思い入れがあり愛着がわく。ここにはプロセスを「自分との関係」において経験しているからこそ生まれる「思い入れの原理」があります。
 もしある程度の大きさの苗を買って来たとすれば、途中で枯れる心配はありません。もちろん手頃な苗を買うほうが一般的で、種から育てる苦労やリスクを負う必要はないでしょう。しかしリスクや苦労がある所には、対象を愛するための「思い入れの原理」が発生します。危険な所にこそ宝があるように。
 ロープウェイで山に登るよりも、自分の足で登るほうが山頂に至った時の感動は大きい。何事も自分自身で作り上げて到達するほうが、世界に対する興味や愛着がわきやす。これは料理をすることであれ、絵のスタイルを作り上げることであれ、人生それ自体であれ、そこにはすべて同じ原理が働きます。「既にあるもの」に頼らずに、「自分の力でつくるプロセス」を大事にすることで、自分自身が接している世界は圧倒的に豊になるのです。

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『創造の心的効果』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 何かを創造する。クリエイティブによって新しいものを生み出す。それは既にあるもののコピーや模造品ではなく、これまでに存在していなかったものを作り出すということです。この意味で創造の結果として何らかの「もの」(物質)が生まれる。しかし創造の利点は物質的なものだけにとどまりません。
 創造するには、自分自身の主体的な能力を発揮する必要があります。この自らの力を行使する能力を社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「ポテンシー」と表現し、精神的な病はポテンシーのレベルが低く「生産的に生きる」ことができない状態だとしています。
 フロムが言う「生産的に生きる」とは、ポテンシーに支えられた「創造による生産的な生き方」のことです。このポテンシーと創造する能力が落ちると心は不安定になり、思考や行動が乱れてくる。彼の「創造できない人は破壊をこのむ」という表現はそれを示しています。この破壊的な方向を解決する唯一の方法が、「創造可能性とポテンシーを生産的に利用する能力」を高めることだとフロムは断言しています。創造する力を高め行使することは、物質生産よりも人々の心にこそ、最も必要な効果をもたらしてくれるのです。

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『ゆらぎについて』

ラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 機械でリズムを奏でる。正確無比で永遠に同じリズムを刻める。人間がやるとそうはいかない。たとえばドラムだといくら正確な技術の持ち主でも、ドラムマシーンと比べたら不正確な「ゆらぎ」がでてくる。しかし人間が奏でる音楽に、機械で作った音楽にはない良さがあるとすれば、そういった「ゆらぎ」にこそ秘密が隠されています。
 不正確さが禁じられた場所(たとえばある種の仕事など)では「ゆらぎ」は排除される。あるいは強迫観念的に「ねばならない」に支配された人の周囲も揺らぎは排除される。しかしそこにあるのは機械が作り上げる正確な結果と、失敗や汚れを一切受け入れないという神経症的なありだけ方です。
 そのような機械的な世界観に対し、自然な世界観は多様な「ゆらぎ」に満ちています。枯れ葉の落ち方から滝のしぶきまで、正確さとは無縁の動きに満ちている。しかしそれらのランダムな動きも「自然」という超法則的な原理によって動いています。そして自然の一部である人間もその原理の一部であり、であるがゆえに「ゆらぎ」にたいする根本的な親和性がある。美的感受性もそこに発動する。私たちは揺らぎを受け入れることで、初めて調和が保たれる存在なのです。

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『比較優位性について』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 ビジネス書などを開くと「比較優位性」という言葉がよくでてきます。読んで字の如く、他との比較において優位性を保つことです。この発想の根底にはあきらかに競争があります。ゆえに、この比較優位性への固執を放置すると、強烈な競争志向、他を押し退けて自分だけが優位に立つことを常とする殺伐とした生き方にも繋がってきます。心理学者のアドラーが優位性への固執が病理であることを示したように、この比較優位性という基準は、資本主義経済が生み出した負の遺産と考えることもできます。
 そもそも比較することには何ら問題はなく、比較なくして多様性の社会は成立しません。問題は比較したあとに優劣をつけようとすることです。つまり物事を上下でしか考えられない状態です。例えばインスタグラムなどで他人の充実ぶりと、自分を比較してコンプレックスを抱く。上手く行っている人との比較で自己否定する。こう言ったことは比較の後に優劣の判断を加えている。しかしそもそも前提も環境も違う事柄同士を単純に比較できるかと言えば出来ないのです。国語と算数の点数を比較できないのと同じレベルで、実際は他人と自分の生活状況は比較できない。
 比較できないものを比較してしまえるのは、そこに同じ基準を設けているからです。例えばノートと花は本来は比較できませんが、そこに値段という基準を設けることで比較できてしまう。他人の生活と自分の生活という本来比較できないものを比較する基準はなんでしようか。それは世間体という基準でしょう。この世間体への固執が強いと全てが比較対象になり優劣もついてしまう。ここにアドラー的な心の病を生んでしまう原理があります。心の健康を保つためには、世間体という基準を知りつつも支配されない「距離感」と、比較優位性など意に介さないという「独立した個人」を意識することが最大の処方箋になるのです。

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