『無意識と意識』

イラスト こがやすのり

 人には意識と無意識がある。これは今や当然の概念となっています。そして意識を中心として日々生活をしている。何かを制御するときには必ず意識する必要があります。しかし歩行にしろ泳ぎにしろ、とくに身体で覚えたことは意識することをやめ無意識にまかせるようになる。逆にいえば無意識に任せないと、いちいち意識していたら動きがもつれてスムーズに行えない。こう考えると、無意識に任せたほうが、より早く正確に行える場合も多いということです。
 無意識とは意識できない領域を指すことばです。意識できないけれどその領域があって、そこにいろんなことを任せている。さらに無意識には趣向があり、意識に反した好みや希望が隠されたまま見えない形で存在していることもあります。よって意識ではブルーが好きだと思っているけれど、気付いたらグリーンばかり選んでいる、ということも往々にしてあります。フロイトによると無意識とは意識のある部分を抑圧することで出来る。つまり何らかの理由で、隠して見えなくしているということです。その抑圧の原因は嫌なことであったりとマイナスの感情と結びついている。
 抑圧された無意識の領域に、本当にやりたいことが隠されている場合、意識的にやりたい事との間に矛盾が発生します。そうなると行動が非生産的になり、同じ失敗を何度も繰り返してしまう。とくに「私には無意識などない」と高を括っていると、意識と無意識の間にねじれが起こりやすい。私の意識はこう思っているけれど「自分の無意識はどうだろうか」と考える余裕があるほうが、意識と無意識のねじれは少なくなります。そして自分なりの方法で「無意識の自分」を知っていく。この作業は通俗的な意味での「大人になる」というプロセスに欠かせないものです。そして「汝自らを知れ」という普遍的な格言に対する最も有効な手段でもあるのです。

AUTOPOIESIS 199/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『不完全な美』

イラスト こがやすのり

 古来、日本人は不完全なものへの美意識を大切にしてきました。誰もが知る吉田兼好の徒然草に「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」とあるように、満開の花や満月を見るだけが花や月をみることではなく、欠けた月や満開でない花にも美しさがあるということです。この不完全なものに対する美意識は、完全性や対称性を美の基準とする西欧的な意識とは違ったものです。
 そもそも西欧の「完全な美」とは物質的なことを意味しています。それに対する「不完全な美」とは物質ではなく感じる側の心にある。なので「不完全な美」は人それぞれに違ったかたちで存在しています。個々の想像力がそこに加わることによって、多様な美しさが生まれてくる。
 夜空の満月や満開の花は、ある意味では見たままの美しさです。それに対する欠けた月や満開でない花は、見る人の想像力を刺激し、美と一体化することが出来る。このような美意識は、不完全な日常(無常)に美を見出す「善」や「茶の湯」の精神によって、日本人へ溶け込んでいきました。この「不完全な美」は私たち日本人にとって普遍的な価値観の一つなのです。

AUTOPOIESIS 198/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『セルフカウンセリング』

イラスト こがやすのり

 自分のことは自分が一番わかっている。これは誰しもが暗黙に思っていることでしょう。しかし「本当の自分」とは何かという問いに対しては、自信をもってこうだと答える人はそう多くはないはずです。なぜなら人は、世間体や願望、あるいは自己否定などによって「別の自分」を生きていることも多いからです。そうしていつしか「本当の自分」を忘れてしまう。しかしあまりにも「本当の自分」を無視し続け、別の目的に支配されると、あとあと問題が起きてきます。
 「本当の自分」を無視して別人になろうとした結果、心の不安定をまねいてしまう。そうしてカウンセリングに通うようになるといったことは、現代ではよく耳にする話です。カウンセリングを通して、見失った「本当の自分」を再発見する。そして心も正常化していく。もし自分自身で「本当の自分」をしっかりと把握していれば、当然そのような問題は起きにくくなります。
 社会生活を送るかぎり、ある程度は自分以外のシステムに従わざるを得ません。つまりただ生活し従っているだけだと「本当の自分」は見失われやすい。そこで「本当の自分」が目に見える形で映し出され、自分でも確認できるものが役に立ちます。カウンセリングでは、その人の「本当の自分」を再発見する手立てとして箱庭をつることがあります。この箱庭は個人のいわば創作物です。よって自分らしい「絵」を描くことでも、「本当の自分」を視覚的に再発見する手立てとなります。「自分の心とのつながりのある絵」を描くことが出来れば、それは現代におけるカウンセリングの効果を自分自身でもつことになるのです。

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『不正確さと個性』

イラスト こがやすのり

 今やあらゆる領域でAIの問題が議論されるようになりました。この問題は、これまで人間にしかやれなかったことを「AIが人間以上の正確さでやれる」という事実認識に至ったことが原因です。この事実は、たとえば人間が職を失うといった物理的なことから、コピー生成とその限界が示す「個性とは何か」あるいは「人間とは何か」という根本的な問題をも突き付けて来ています。
 たとえばデザインで使うフォント(文字デザイン)は、昔はレタリングと言って人間が手で描いていました。私はマックが普及する前にレタリングを手で描いていた最後の世代なので、レタリング専門の人が職を失うところを見てきしました。もちろんこれは一つのことだけに専門特化することの危険性も示されていますが、テクノロジーの発達によって“技術”が機械へと移行する流れは避けられないことを表しています。
 技術は機械が正確に生成する。扱う情報量も人間はかなわない。これはデジタルで制作する人は特に実感せざるを得ません。そうすると残るは正確さや情報量とは別種の価値に「人間にしかできないこと」があると分かります。機械だと同じ条件ならまったく同じものができる。しかし個性をもった存在なら、それぞれに違ったものができます。この差異は正確さや情報量とは別次元の差です。言い換えれば、不正確さ、ゆがみ、崩れなどの形で現れるものです。この「不完全さの意味と表現」を探求することが、AIとの共存時代に必要不可欠なことなのです。

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『 幻想のなかの幻想』

イラスト こがやすのり

 人は現実的な危機に直面し、それを解決できない場合は、自己の崩壊をおそれてその危機を良いものだと思い込んだりする。一見とてもへんな心理ですが、この防衛機制は精神分析家のメラニークラインという人が指摘しています。これは事実の改ざんですが、この改ざんは物事だけではなく自分自身にもなされます。つまりセルフイメージの美化という形をとることもある。とにかく現実的な危機に対して解決が難しく、心理的な耐性が弱い場合は「幻想的な解決」をやってしまうということです。
 現実的な危機を乗り越えられない場合に、幻想で穴埋めして安定させる。すると当面は進んで行けます。しかし幻想なのでいつかは危機が訪れます。そうしたときに問題を直視し解決すれば、幻想のない現実で進んでいける。しかしその危機に対しさらなる幻想をつくりだし、もう一つ深い幻想世界でバランスをとるようになれば、これはさらに現実へ戻るのが難しくなる。海の浅瀬なら戻りやすいが深海までいくと水面へ出るのが難しくなります。
 クリストファー・ノーラン監督の映画に『インセプション』という他人の夢に入り込む話があります。この映画で主人公は、夢の中で寝ている人の夢に、入れ子式に入っていくことになります。「夢のなかの夢」は時間の流れが遅くなっている。さらに下の階層の夢にいくと時間は永遠に感じられるが、脱出が難しくなる。この構造と「幻想のなかの幻想」は同じです。すべてを幻想で満たすともう現実の時間はなく、自分だけで満たされている。いやな事は一切排除された世界。これはすべてが停止していて、しかも本人はそこを現実だとおもっている。映画では主人公が現実から持参したコマを回して、永遠に回り続けるか最後に倒れるかで、夢か現実かを判断します。現実的なマイナス要因が一切ない無変化な世界は「幻想のなかの幻想」なのです。

AUTOPOIESIS 195/ illustration and text by : Yasunori Koga
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