『思い入れの原理』

イラスト こがやすのり

 植物を種から育ててみる。まずは芽がでるまでに時間がかかります。もどかしい時間がすぎて芽がでたら、今度はある程度の苗になるまで予断を許さない。そうして段々と大きくなってその品種本来の姿があらわれます。いろんな苦労を経て育てた植物には思い入れがあり愛着がわく。ここにはプロセスを「自分との関係」において経験しているからこそ生まれる「思い入れの原理」があります。
 もしある程度の大きさの苗を買って来たとすれば、途中で枯れる心配はありません。もちろん手頃な苗を買うほうが一般的で、種から育てる苦労やリスクを負う必要はないでしょう。しかしリスクや苦労がある所には、対象を愛するための「思い入れの原理」が発生します。危険な所にこそ宝があるように。
 ロープウェイで山に登るよりも、自分の足で登るほうが山頂に至った時の感動は大きい。何事も自分自身で作り上げて到達するほうが、世界に対する興味や愛着がわきやす。これは料理をすることであれ、絵のスタイルを作り上げることであれ、人生それ自体であれ、そこにはすべて同じ原理が働きます。「既にあるもの」に頼らずに、「自分の力でつくるプロセス」を大事にすることで、自分自身が接している世界は圧倒的に豊になるのです。

AUTOPOIESIS 214/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『創造の心的効果』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 何かを創造する。クリエイティブによって新しいものを生み出す。それは既にあるもののコピーや模造品ではなく、これまでに存在していなかったものを作り出すということです。この意味で創造の結果として何らかの「もの」(物質)が生まれる。しかし創造の利点は物質的なものだけにとどまりません。
 創造するには、自分自身の主体的な能力を発揮する必要があります。この自らの力を行使する能力を社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「ポテンシー」と表現し、精神的な病はポテンシーのレベルが低く「生産的に生きる」ことができない状態だとしています。
 フロムが言う「生産的に生きる」とは、ポテンシーに支えられた「創造による生産的な生き方」のことです。このポテンシーと創造する能力が落ちると心は不安定になり、思考や行動が乱れてくる。彼の「創造できない人は破壊をこのむ」という表現はそれを示しています。この破壊的な方向を解決する唯一の方法が、「創造可能性とポテンシーを生産的に利用する能力」を高めることだとフロムは断言しています。創造する力を高め行使することは、物質生産よりも人々の心にこそ、最も必要な効果をもたらしてくれるのです。

AUTOPOIESIS 213/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ゆらぎについて』

ラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 機械でリズムを奏でる。正確無比で永遠に同じリズムを刻める。人間がやるとそうはいかない。たとえばドラムだといくら正確な技術の持ち主でも、ドラムマシーンと比べたら不正確な「ゆらぎ」がでてくる。しかし人間が奏でる音楽に、機械で作った音楽にはない良さがあるとすれば、そういった「ゆらぎ」にこそ秘密が隠されています。
 不正確さが禁じられた場所(たとえばある種の仕事など)では「ゆらぎ」は排除される。あるいは強迫観念的に「ねばならない」に支配された人の周囲も揺らぎは排除される。しかしそこにあるのは機械が作り上げる正確な結果と、失敗や汚れを一切受け入れないという神経症的なありだけ方です。
 そのような機械的な世界観に対し、自然な世界観は多様な「ゆらぎ」に満ちています。枯れ葉の落ち方から滝のしぶきまで、正確さとは無縁の動きに満ちている。しかしそれらのランダムな動きも「自然」という超法則的な原理によって動いています。そして自然の一部である人間もその原理の一部であり、であるがゆえに「ゆらぎ」にたいする根本的な親和性がある。美的感受性もそこに発動する。私たちは揺らぎを受け入れることで、初めて調和が保たれる存在なのです。

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『比較優位性について』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 ビジネス書などを開くと「比較優位性」という言葉がよくでてきます。読んで字の如く、他との比較において優位性を保つことです。この発想の根底にはあきらかに競争があります。ゆえに、この比較優位性への固執を放置すると、強烈な競争志向、他を押し退けて自分だけが優位に立つことを常とする殺伐とした生き方にも繋がってきます。心理学者のアドラーが優位性への固執が病理であることを示したように、この比較優位性という基準は、資本主義経済が生み出した負の遺産と考えることもできます。
 そもそも比較することには何ら問題はなく、比較なくして多様性の社会は成立しません。問題は比較したあとに優劣をつけようとすることです。つまり物事を上下でしか考えられない状態です。例えばインスタグラムなどで他人の充実ぶりと、自分を比較してコンプレックスを抱く。上手く行っている人との比較で自己否定する。こう言ったことは比較の後に優劣の判断を加えている。しかしそもそも前提も環境も違う事柄同士を単純に比較できるかと言えば出来ないのです。国語と算数の点数を比較できないのと同じレベルで、実際は他人と自分の生活状況は比較できない。
 比較できないものを比較してしまえるのは、そこに同じ基準を設けているからです。例えばノートと花は本来は比較できませんが、そこに値段という基準を設けることで比較できてしまう。他人の生活と自分の生活という本来比較できないものを比較する基準はなんでしようか。それは世間体という基準でしょう。この世間体への固執が強いと全てが比較対象になり優劣もついてしまう。ここにアドラー的な心の病を生んでしまう原理があります。心の健康を保つためには、世間体という基準を知りつつも支配されない「距離感」と、比較優位性など意に介さないという「独立した個人」を意識することが最大の処方箋になるのです。

AUTOPOIESIS 211/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ムダを許容する』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 機械に油をさすと円滑に稼働するという現象があります。たとえば自転車のチェーンに油をさすと急に進みが早くなり運転もらくになる。これは部品と部品の間の摩擦を軽減することで全体が円滑に稼働する現象です。つまり各要素の間に隙間を作るということ。この隙間を設けておかないと複数の要素からなるシステムは必ず問題が発生してくる。
 隙間とは空白であり、重要な役割を担っている格パーツからすると無意味な存在です。それ自体では価値がなく無駄なものと判断される。もちろん数値化もできず重要視することも難しい。しかしその無意味で価値がないものが存在することで、すべてが健全に機能しだす。つまり必要だと思われているものだけで構成されたシステムは、非効率な構造であり未来の破堤を示しているということです。
 これは機械に限らず、人間関係や考え方に至るまで原理は同じです。必要な要素だけで構成された系は非効率と破堤へと向かう。たとえば強固な村社会(似たもの同士)のシステムだと、異質な存在(無駄)は排除されてしまう。しかしこの同質維持の傾向が非効率と未来の破堤をつくる。思考も新しいものを取り込まないと同じことになる。つまり部品として役に立たないからこそ、空白の存在は“全体にとって”不可欠な要素となる。この無駄を許容できるシステムこそが健全なシステムなのです。

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