『個性とはなにか』①

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「個性」という言葉を日常でよく目にします。しかし「個性」というものをはっきりと理解して認識している人はそう多くはないはずです。そもそも「個」はその反対にある「全」という概念に支えられています。たとえば全体主義といえばその中に固有の性質は許されない。個性のない同質の全体とは、つまり「無個性な集団」ということです。そして個性とはそのような「無個性」から際立つ何かを持つ性質のことです。
 一般に個性的と言われる人でも、他人と同じ部分、同じ共通する性質を持っています。その部分はゼロとして相殺し、残った部分がその人の特徴であり個性として他人へと伝わります。よって、もし他人と違うところを自己否定すれば、その人は「無個性」になっていきます。
 「無個性」な全体主義のなかに溶け込めば、安心だと考える人もいるかもしれません。しかしそれは、他とはちがう“確実に自分自身だ”という「自己の存在証明」が消えてしまうことを意味します。この「無個性」な全体主義への埋没は自己逃避であり、その意味では「個性の身投げ」ということも出来ます。安心と引き換えに個性という「自己の存在証明」を放棄するわけですから。
 「無個性」の全体主義は、古来、神話や文学が「虚無」や「暗黒」というイメージを使ってメタファー化してきました。人間は「個」を守り、そこへエネルギーを注ぎ続けなければ「虚無」(或いはエントロピー)へ傾いてしまう。「個性」とは「全体」との“違い”であるとともに、「虚無的な負の安定」と「自己」とを“区別する力”を示すものです。無個性への流れを食い止めるためには、「個性」を守り、磨き続ける必要があります。そしてその活動自体が「個性」の性質そのものなのです。

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『平均と個有性』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「平均」とは合計を頭数で割ると出てくる値。たとえば5人が川から水を汲んできたとします。それを一端大きな容器にまとめて一つにする。そのあと5等分する。5人の水を平均化するためには一端は一つに融合しなければならない。この時点で個々の水の在り方や歴史は一度破壊されてしまう。さらにそれを等分するので、水を汲んできた人の個性も平坦化される。
 実際に水を等分するのは至難の業ですが、数量化すればあとは数字で等分するだけです。よって平均と数量化は切っても切れない関係にある。この数量化自体が、物事の個性をはく奪することであらわれる抽象概念です。リンゴが5個といってもそこに色や形、香りや味の違いは剥奪されてしまっている。つまり平均化は、数量化、融合、等分という三つの「固有性の剥奪」によって成立するものの見方です。
 この「固有性の剥奪」によって成立する平均概念は、目安としてとても便利です。平均を基準とすれば、平均値に合わせるよう加減するという舵取りが出来ます。しかしこの平均が物事の固有性を剥奪する限りにおいて見える概念であることを忘れて、平均を至上命令のごとく無批判に基準とすると問題が発生してしまいます。
 たとえば5人が平均して20リットルの水を川から汲んできたとします。しかしその内訳は個々人で18リットルだったり22リットルだったりする。人間には個性や条件、タイミングなどがあるので機械的にはいかない。しかし同じくらいの身体的な特徴や体力の5人であれば、日々の数値がちがっても、時間軸を伸ばしていけばだいたい同じ量の水を汲むことになっていきます。しかし、平均を至上命令とすれば、必ず毎回20リットルを汲むという掟が生まれます。この掟は現実を無視した非合理的なものです。
 全員が長期的には平均20リットルを汲むことが出来る。しかし毎日必ず20リットルを個々に課すと無理が生じ、疲れて能率が下がる人もでる。最後にはその作業を放棄する人もでる。欠員を新たに補充しても根本的なシステムが変わらない限り、同じ非能率の問題が起きる。平均的な基準によって個々の個性を無視することのデメリットが、計り知れない機会費用を発生させます。
 この非能率的な平均基準は数量化できるものだけに限りません。たとえば「世間」や「常識」といった集団心理の概念も平均値であり、それらが個々人に対して課せられることによって大きなデメリットを発生させます。昨今の心の病の問題は、これらの平均概念による非能率な基準が個々人を圧政していることが原因の一つだと考えられます。このように「固有性の剥奪」によって成立する平均基準が形骸化したのが現代の社会です。平均化されたものを「個」へと再還元する大きな力が、これからの社会には必ず必要となるはずです。

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『うかがいしれない世界』

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 デヴィッド・リンチ監督の映画はどれも「うかがいしれない世界」が描かれている。社会現象となった『ツインピークス』にしても『ロストハイウェイ』や『マルホランドドライブ』にしても、すべて日常では考えられないような「理解不能な世界」に足を踏み入れ、奇怪な現状に取りつかれていく有様が描かれています。
 この「うかがい知れない世界」は、まだ知らない世界であり、日常に対する非日常であり、その意味ではいまだ見ぬ可能性でもあります。「どうなるか分からない」という現代人がもっとも苦手とする世界。よって「うかがい知れない世界」を事前に把握して出かけることなど出来ないのです。
 未来の可能性を二つに分けて、一方を「良性の未来」、もう一方を「悪性の未来」と分類してみます。リンチが描く世界は明らかに「悪性の未来」、悪性の「うかがい知れない世界」です。リンチ映画の登場人物たちはそれをどこかで直観しつつも、その世界の魔力に惹かれて足を踏み入れていく。これは人間の無意識に潜む側面を描いているともいえます。
 ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1903年)という小説では、船乗りの主人公がジャングルという「うかがい知れない世界」を恐れつつも、段々と惹かれていく心理が、不気味な表現で描かれています。彼の旅の最終目的は、闇の奥で「うかがいしれない世界」と完全に同化した人物と出会うことなのです。「悪性の未来」の引力は時に、抗えない力で人間に大きな作用を及ぼすのです。
 さらに300年以上も前に書かれた、同じ船乗りが主人公の『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー)でも「うかがい知れない世界」の引力によって、安定した生活を投げ捨て冒険にでる様が描かれています。彼はそのおかげで何度も遭難し、無人島で暮らす羽目になる。しかし、そこで得た経験はかけがえのないものであり、「悪性の未来」とはい言い難い「逆説的な何か」が表現されています。
 先にあげた三人の芸術家は、それぞれのやり方で「うかがいしれない世界」の引力を描いています。このような引力に私は引かれない、そうみんな思っている。しかし全てが把握された決定論で進む現代人にとって、把握できないがゆえに「うかがいしれない世界」への耐性は弱いともいえます。私たちは隠された構造や、個人の力を超えた大きな力に対して「根本的な諦め」に陥ってはいないでしょうか。「正しくあろうとしても無駄」だと流されるままになってはいないでしょうか。それこそが「悪性の未来」に引かれている証拠であり、リンチやコンラッドが描いた奇怪で不気味な結末の入り口なのです。
 300年前にロビンソン・クルーソーが孤独な無人島で発見した真理があります。それはどんな状況下でも「決して諦めてはならない」ということなのです。

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『争いのないレベル』

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 ある国とある国が争っている。領地をめぐってか、或いは食料や物資をめぐってか。とにかく相手から取った分が増えて、取られた分が減るという相関性のレベルにある。これは目的とするものの量や面積が有限だから起こることです。もし領土も物資も全て無限にあるなら奪い合いなど起こらない。奪い合いは同じレイヤーにいるからこそ起こる。
 ならば別レイヤーであれば奪い合いは起こらない。たとえば生物の棲み分け。同じ地域に生息していても、食料とする獲物の種類が違ったり、活動時間が昼と夜だったりすることで、棲み分けが成立している。こうなれば、同じ場所にいても争い合うことはない。これは食料や夜行性であるとかいった物理的なことに関する区別があるということです。この物理的な区別があれば衝突したり引っ張り合ったりしない。または出来ない。
 ならば精神的な区別がハッキリつけば、理念や考え方による争いが回避できるかもしれない。精神的な区別とは自他のハッキリした区別です。例えば「人間はみな同じだ」という大事な道徳律があります。しかし別の視点からみれば、この前提が精神的な相関性を作り出す原因となります。動物の棲み分けのごとく、人間も個々それぞれに違う存在であり、衝突しえないほどに「離れた存在」であるという前提が、お互いに相関出来ないレベルを作り出します。「人間はみな同じ」でありまた「同じではありえない」という矛盾を受け入れた境地です。
 この二つの矛盾は統合できるか。生物の棲み分けは矛盾とはみなされない。イソギンチャクとクマノミの共生関係などもそうですが、そこには破堤を回避する抑制が働いています。夜行性の動物は昼間の動物と争わない。破堤を回避する抑制が自然の原理として選択されている。これと同じく精神も破堤を回避するための抑制をもてば、それぞれのレイヤーは分かれていく。原理主義的な意地の張り合いは同じレイヤーの争いであり、どちらにしろ同じレベルです。その相関性を解除するためには抑制が必要です。
 破堤の回避に必要な抑制を「負け」だと考えるうちは、争いのない高次のレイヤーを獲得することができません。抑制とはこれまで固執していたものから手を放すということでもあります。有限なものを目的とすれば争うことになる。そもそも思想や理念を奪い合うことなど出来ないはずです。それが出来ると考えるのは、物理的なものと繋がっているからでしょう。このように物理的な争いで維持される資本主義が現代社会を動かしています。この資本主義を止揚し、より人類的な主義を作り出すためには、自然の大いなる知恵に学ぶ必要があるのではないでしょうか。

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『井上さんのこと』

古賀ヤスノリ イラスト

 遠いむかし、私はあるデザイン会社に勤めていた。そこで井上さんという弁護士を目指しながら働いている、年上の先輩と仕事をしていた。井上さんはアウトドア好きで、社内でも有名であった。山で暮らしているとか、家の中にテントを張っているとか、スプーンをグーで握って使うとかいった逸話が沢山ある人だった。アウトドア派ではあるが弁護士を目指してもいたので、弁も立ち正しい事に敏感だった。いや、それを通り越して少々頑固すぎる所があった。
 ある日のこと、井上さんが提出した仕事の修正が戻ってきた。それは井上さんの上司である岸さんがクライアントからの修正として、井上さんへ持ってきたものである。岸さんは寡黙で温厚、仕事に対する責任感もあり頼れる良い人であった。井上さんは岸さんが持ってきた仕事の修正をみて、「これは修正する必要なんてないですよ。これで合ってます。向こうが悪いんです。」と自己正当化の弁を述べた。それを聞いた岸さんは一瞬無言になり、井上さんの顔を凝視した。そしていきなり近くにあったブリキのゴミ箱を思いっきり蹴り飛ばしたのである。ガン!という大きな音がフロアー内に広がり、皆が驚いて注目した。部署を統括する部長も凝視している。一番驚いたのは井上さんである。普段怒ることのない岸さんが鬼のような形相でごみ箱を蹴り飛ばし自分を凝視しているのである。井上さんは驚きと焦りで硬直して言葉が出てこない。緊張感がフロアー全体を包み込み、見ていた私も押しつぶされるような気持ちになった。硬直状態が続いたあと、岸さんが「ふざねんじゃねえよ! お前なにいってんだよ。舐めるんじゃねえよ!」と爆発した。井上さんは驚いて岸さんを凝視していたが、耐えられなくなり下を向いた。この一件を見ていた部長は、あきれ顔で首を左右に振りながら仕事に目を戻した。爆発した岸さんは、すぐにその場を去ったのでフロアー内は静寂を取り戻した。井上さんの足元には極端に変形したブリキの塊が転がっていた。
 井上さんは自身の身の潔白を証明すべく自己弁護した。それが彼の基本姿勢であり、目指すべき職業であり人生の境地であった。しかし会社という小さな世界において、普遍的な正義は通用しなかった。強力な軋轢がブリキを変形させるほどのエネルギーを発生させた。私はその後会社を辞めてしまったので、井上さんが弁護士を諦めたのか、それとも無事に試験に合格したのか分からない。今でも山でテントを張り、スプーンをグーで握る井上さんの姿だけが思い浮かばれるのである。

AUTOPOIESIS 0089/ illustration and text by : Yasunori Koga
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