『意味のない比較』

イラスト こがやすのり

 物事は比較によって立ち現れる。たとえばグリーンという色はグリーンだけでは認識できず、他の色との比較で立ち現れます。つまり「関係」によってはじめて認識されるということです。色だけではなく、すべての物事はこのような比較による「関係」によってしか認識することができません。しかしただ単純に比較するだけでは正しい認識に至らないものもあります。
 例えば道行く人を比較してみる。みんな「歩く」という行為は同じです。しかし見たままの単純比較から、個々の「意味的な比較」に切り替えると全く違った結果が得られます。ある人は事故で歩けなくなり、リハビリの末に歩けるようになったかもしれない。するとその人は歩けるだけで幸福感を味わっている。しかし別の人からすれば当たり前の行動にすぎない、というになります。
 物事の意味は文脈によって決まります。よってある部分だけを切り取って単純に比較することはできない。別の言い方をすると「数量化できないもの」は単純比較ができないということです。よって個々の生き方にはそれぞれの物語があり、部分的な単純比較で何かを結論づけることは、はまさに「意味がない」(意味が消え去る)のです。逆にいえば「単純比較」という物質主義の視点を退けることで、個々人の物語(自分にとっての意味)は復活するのです。

AUTOPOIESIS 201/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『無秩序から秩序へ』

イラスト こがやすのり

 宇宙はビックバンより始まった、ということになっています。これは一般的にもよく知らた物理学の話です。この爆発は連続して何度も起こり、ついでインフレーションが起こる。その後は最初の元素である水素やヘリウムが10万年かけて作り出される。次いで100億年後には惑星ができ、そのあと50億年すると生命が誕生する。つまりビックバンというカオスから宇宙が始まり、段々と秩序が形成され地球や生命も誕生した。
 宇宙も地球も生命もみな無秩序から生まれた。そして無秩序から秩序を作り出すプロセスが生命現象だということです。つまり最初から秩序や型があるわけではなく、無秩序から苦労して作り出された。生命とはその意味で「無秩序から秩序を作り出す力」を持つものと定義できます。
 この生命の定義を創作活動に当てはめてみると、無秩序から秩序をつくり出せる作り手を「生きた作り手」と言うことができます。たとえば無意識から新しアイデアを意識化したり、抽象状態から新しいイメージを直感したりする能力が、少なからずあるということです。これは形式や型を出発点にしなければ作り出せないこととは根本的に違います。この「生きた制作」を別の言葉に還元すると「創造」ということになります。カオスに翻弄されることなく「無秩序から秩序を作り出す力」こそが、物理的、あるいは精神的(芸術的)な生命活動にかかせない能力なのです。

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『無意識と意識』

イラスト こがやすのり

 人には意識と無意識がある。これは今や当然の概念となっています。そして意識を中心として日々生活をしている。何かを制御するときには必ず意識する必要があります。しかし歩行にしろ泳ぎにしろ、とくに身体で覚えたことは意識することをやめ無意識にまかせるようになる。逆にいえば無意識に任せないと、いちいち意識していたら動きがもつれてスムーズに行えない。こう考えると、無意識に任せたほうが、より早く正確に行える場合も多いということです。
 無意識とは意識できない領域を指すことばです。意識できないけれどその領域があって、そこにいろんなことを任せている。さらに無意識には趣向があり、意識に反した好みや希望が隠されたまま見えない形で存在していることもあります。よって意識ではブルーが好きだと思っているけれど、気付いたらグリーンばかり選んでいる、ということも往々にしてあります。フロイトによると無意識とは意識のある部分を抑圧することで出来る。つまり何らかの理由で、隠して見えなくしているということです。その抑圧の原因は嫌なことであったりとマイナスの感情と結びついている。
 抑圧された無意識の領域に、本当にやりたいことが隠されている場合、意識的にやりたい事との間に矛盾が発生します。そうなると行動が非生産的になり、同じ失敗を何度も繰り返してしまう。とくに「私には無意識などない」と高を括っていると、意識と無意識の間にねじれが起こりやすい。私の意識はこう思っているけれど「自分の無意識はどうだろうか」と考える余裕があるほうが、意識と無意識のねじれは少なくなります。そして自分なりの方法で「無意識の自分」を知っていく。この作業は通俗的な意味での「大人になる」というプロセスに欠かせないものです。そして「汝自らを知れ」という普遍的な格言に対する最も有効な手段でもあるのです。

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『不完全な美』

イラスト こがやすのり

 古来、日本人は不完全なものへの美意識を大切にしてきました。誰もが知る吉田兼好の徒然草に「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」とあるように、満開の花や満月を見るだけが花や月をみることではなく、欠けた月や満開でない花にも美しさがあるということです。この不完全なものに対する美意識は、完全性や対称性を美の基準とする西欧的な意識とは違ったものです。
 そもそも西欧の「完全な美」とは物質的なことを意味しています。それに対する「不完全な美」とは物質ではなく感じる側の心にある。なので「不完全な美」は人それぞれに違ったかたちで存在しています。個々の想像力がそこに加わることによって、多様な美しさが生まれてくる。
 夜空の満月や満開の花は、ある意味では見たままの美しさです。それに対する欠けた月や満開でない花は、見る人の想像力を刺激し、美と一体化することが出来る。このような美意識は、不完全な日常(無常)に美を見出す「善」や「茶の湯」の精神によって、日本人へ溶け込んでいきました。この「不完全な美」は私たち日本人にとって普遍的な価値観の一つなのです。

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『セルフカウンセリング』

イラスト こがやすのり

 自分のことは自分が一番わかっている。これは誰しもが暗黙に思っていることでしょう。しかし「本当の自分」とは何かという問いに対しては、自信をもってこうだと答える人はそう多くはないはずです。なぜなら人は、世間体や願望、あるいは自己否定などによって「別の自分」を生きていることも多いからです。そうしていつしか「本当の自分」を忘れてしまう。しかしあまりにも「本当の自分」を無視し続け、別の目的に支配されると、あとあと問題が起きてきます。
 「本当の自分」を無視して別人になろうとした結果、心の不安定をまねいてしまう。そうしてカウンセリングに通うようになるといったことは、現代ではよく耳にする話です。カウンセリングを通して、見失った「本当の自分」を再発見する。そして心も正常化していく。もし自分自身で「本当の自分」をしっかりと把握していれば、当然そのような問題は起きにくくなります。
 社会生活を送るかぎり、ある程度は自分以外のシステムに従わざるを得ません。つまりただ生活し従っているだけだと「本当の自分」は見失われやすい。そこで「本当の自分」が目に見える形で映し出され、自分でも確認できるものが役に立ちます。カウンセリングでは、その人の「本当の自分」を再発見する手立てとして箱庭をつることがあります。この箱庭は個人のいわば創作物です。よって自分らしい「絵」を描くことでも、「本当の自分」を視覚的に再発見する手立てとなります。「自分の心とのつながりのある絵」を描くことが出来れば、それは現代におけるカウンセリングの効果を自分自身でもつことになるのです。

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