『日常のこと』

イラスト こがやすのり

 自ら「絵描き」と名乗っているくらいなので日々絵を描きます。絵具を使わない日はコピー用紙に1,2枚ほど線画や落書きを描く。この絵を描くこととは別に習慣になっているものがあります。一つは「ものを考える」ために書いて考えるということです。これもコピー用紙に文字を連ねていく。途中でイメージが湧いたらラフや図を入れたりもします。そしてもう一つは本を読むことです。このインプットがないとなかなか考えは発展していかない。また自分の考えが独善的かどうかの比較もできなので本を読むことは大事です。
 読む本のジャンルは考えを助けてくれる哲学書や学術書が中心です。しかし息抜きに小説を読んだりもします。ヘルマン・ヘッセやカフカ、ドストエフスキーといった有名どころからSFやミステリーも好きで読む。この息抜きに読む本が、かえって哲学的なヒントをくれることもあります。たとえば、最近読んだSF小説で、人類の最も人類らしい所は、誰かが死にかけていたら、大勢の手を借り出してでも助けようとする所で、一人に対して大勢という非対称な行為もいとわない。これが他の動物と違う所だという内容のことが書かれていました。これを読んでなるどなと思い、逆に他人を押しのけ、他人を利用して自分だけが利益を得ようとする行為は、先の行為の真逆であり、それは「まだ人間ではない」のだなという考えに至ったのでした。
 このように「考えるための本」ではないものに考えさせられる、といったことが良く起こります。逆に哲学書に文学的な面白みを感じることもあるし、人生を生き抜くためのハウツー本のように読めることもあります。こう考えるとカテゴリーを越えてキャッチできる情報こそが、名著である証なのかもしれません。これはつまり、他のジャンルへ応用できる考え方(あるいは方法論)であればあるほど、それは普遍性の高い考え方だということです。そしてこの普遍性は多様なジャンルを重ねた時に、特に重なりの大きいところに潜んでいる。その凝縮した領域を発見していくことが、大げさにいえば「人類の使命」なのかもしれないと、コピー用紙にこの文章を書きながら思ったのでした。

AUTOPOIESIS 227/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『クラスチェンジの方法論』

イラスト こがやすのり

 クラスチェンジとはゲームなどであるキャラクターが成長し切って別のキャラクターへ変化(昇華)することをいう。たとえは戦士として戦って実績(レベル)をあげていき、あるレベルまできたときに魔法使いに変化する。ゲームによっては転職といったりもします。ここで特筆すべきはクラスチェンジが行われると、それまで上げたレベルは始めの1へ戻るということです。それまでの実績や肩書きが全て消えてしまう。
 クラスチェンジとともに全てを失ってしまう。しかしそれと引き換えに今までとは比べ物にならないハイレベルな存在となることができます。まさにこれは芋虫が蝶になるかのごとくです。クラスチェンジ前のレベルでは必ず飽和状態に達します。鉢植えの植物が最後には根詰まりを起こすように、内容の成長に見合った器(クラス)に替える必要がある。もしかたくなにこれまで世界観に(所有したものや地位、あるいは自分自身)にしがみついているとクラスチェンジは見込めません。
 人生においてもクラスチェンジはある。そのタイミングは個々の個性によって大きく違いがあります。ゲームとはちがうので教則本などはありません。しかし適切なタイミングが必ずある。それらは操作できないので偶然のきっかけが大きく影響してきます。ダーウィンの進化論が「突然変異」を軸に論じられることと同じです。そのキッカケをキャッチするために必用なものは、常にレベルを上げ続けるために「前進する」(戦う)ことと、新たな流れへの「柔軟な精神」を用意しておくことです。「天使は準備しておいた者の元へ舞い降りる」というわけなのです。

「幸運は用意された心のみに宿る」 
        ルイ・パスツール

AUTOPOIESIS 226/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『健全な人間関係』

イラスト こがやすのり

 家族や友人は良きもの。しかし時にそうでない場合もがあるらしい。精神科医であるフロイトは臨床において、患者の治療の邪魔をする家族や友人がいると苦言を呈しています。そういった人たちと付き合っている(依存している)人を治すことはできないとも述べています。つまり治療可能な重度の患者よりも、悪い影響を与える家族や友人に依存している人のほうが、正常化の見込みがないということです。この視点はまだ一般化しておらず、心の病などは本人にだけ問題があるという考えが一般的です。しかし周辺の人々にも原因がある。もちろん問題のある人間関係に依存している本人の問題でもあります。
 フロイトが匙を投げる「悪性の人間関係」は、依存関係であり一人に病理を押し付けた構造(最小は二人の関係)でもあります。よく家族の中に一人だけ問題児がいるという構造を耳にします。しかし精神科医の中井久夫さんによれば、家族のなかの一番まともだと思われている人物が、家族の中の問題児を作る原因である場合が多いと書かれています。つまり家族の病理が一人に背負わされており、その主導者が家族の中にいるというこです。これは原因と結果が目に見える形で繋がっていないので厄介です。
 家族の中の問題児(病理)の原因が、最もまともだと思われている人である。つまりこれはバレないための偽装とも考えられます。家族だけに限らず、相手に悪性の影響を与える者は、社会的にまともであるという肩書(あるいは振る舞い)で偽装しており、一見めんどう見も良い。そのことにより患者は依存度が高くなり、フロイトが警戒するような「悪性の人間関係」が出来上がる。本来「健全な人間関係」とは、社会的な地位や立場による優劣などなく、本質的に公平かつ平等なはずです。相手がどんなに酷い状況に置かれていたとしても、コミュニケーションは平行になされる。人がどんな状況からでも復活可能であるためには、普段から「健全な人間関係」を築いておく必要があります。そのためには依存関係や支配関係のような上下の関係(優劣の関係)ではなく、公平かつ平等な「お互いが自立した関係」を保つことが大切なのです。

AUTOPOIESIS 225/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『日本の美と混沌』

イラスト こがやすのり

 何事も正確さが求められる社会では、曖昧で不正確なものは排除される。たとえば曖昧さが入り込むとロケットは月へ到達しない。機械的な結果が求められる社会では、不規則なものはすべて迷惑なものになります。しかし、人間は機械ではないので、あまりに曖昧さや不正確さを排除しすぎると心の病へと傾きます。いまや人間の無意識が未整理で混沌とした状態であることは誰もが知ることです。そして西洋の合理主義が一つの限界にきているのはそのためだとも言われています。
 高度経済成長と共に、西洋を模倣し追い越そうとしてきた日本も、合理主義による「曖昧さの排除」が社会を覆っています。しかし日本は古来より曖昧さを重視してきました。「情緒」や「もののあわれ」といった感覚は西洋の明確な美とは異なる曖昧さを含んだものです。音楽でも意図的に偶然や雑音を取り入れ、合理性とは別次元の豊かさや深みを出してきました。これらの美意識の根底にあるのは「複雑な自然の美」です。
 たとえば地面を覆う落葉の美しさは、整理された美とは対極にある混沌とした美です。日本人は自然を数理的、デザイン的に把握する(無駄の排除)よりも、全体(混沌)を直感的に捉えることを好んだ。つまり観察と整理により曖昧さを排除するのではなく、瞬間的に全体と一体化することに長けていた。この曖昧さを排除しない直感的な一体化が、日本人が古来より大事にしてきた認識方法の一つです。不正確でもいい、ノイズがはいってもいい。それらを含めたより大きな美と調和を目指す。日本人独自の心の安定も、不規則で曖昧なものを排除せずに享受し、たのしむことによって得られます。曖昧さやノイズが排除されたデジタル時代だからこそ、逆説的に曖昧さを含んだ「全体の美」を受け入れることが大切なのです。

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『欲求の階段』

イラスト こがやすのり

 人間には欲求がある。食欲や性欲といった低次の欲求から、それらを抑えて他者を助けたり、自己実現のために芸術やその他の活動をやりたいという高次の欲求もあります。このような欲求を段階に分けたマズローの五段階欲求という分かりやすい分類もあります。とにかく低次の欲求は食欲や性欲といった「生存欲求」で、原始的で損得が優先される世界観です。そこから高次へ行くほど低次の欲求を抑えこみ、より他律的で精神的な充実を求めるようになる。
 一般的には低次の欲求が満たされないと高次の欲求へ向かえないと言われています。しかし低次の欲求が満たされても、さらに満たすよう強いられると高次へ上がれなくなります。資本主義が形骸化した現代は、経済優位社会であり、産業と広告(マスメディア)が人々を永遠の消費(パラドクス)に閉じ込めています。次々に低次の欲求を刺激され、それを無批判に受け入れた人たちは、高次の欲求へ向かうことが困難になります。
 低次欲求への「過剰な刺激」と呼べるマスメディアの宣伝広告を、主体的に退けるには「安定した自我」が必要です。その「安定した自我」は、まずは「親からの愛情」により基盤が作られます。しかし、もしその親がすでに宣伝広告による過剰な刺激に侵されていたらどうでしょう。子供の個性(適正)よりも損得を優先し、結果的に低次の損得世界(成果や世間体)を追求させるでしょう。そうなると安定した自我は育ちにくくなります。このような理屈(構造)を把握することで、負の流れを断ち切ることが出来るようになる。フロイトは低次の欲求に固着させる情報を除去して、自我がスムーズに高次欲求へと成熟していくプロセスを、精神的な回復もしくは「文化」と読んでいるのです。

AUTOPOIESIS 223/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

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