『表現について①』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人は表現する。たとえば身振りで、あるいは言葉で。自分の感じていることや考えていることを、心や頭の中だけにとどめず、外へ出していく。中にあるだけの状態と、外へ表現することの間には大きな違いがあります。一つは他人にも理解されるということ。そしてもう一つは、あらためて自分自身のことが表現によって理解されるということです。
 身振りや言葉の表現から、より複雑な芸術表現にいたるまで、表現の効果の根本は、他人に理解され、自分にも再認識がなされるということです。そして、身振りは身振り、言葉なら言葉、あるいは絵なら絵でしか表現できない領域がある。つまり、その表現でしか伝えられないし、また再認識もできないものがあるということです。
 人は言いたいことを我慢しているとストレスがたまります。実は言葉以外の領域でも、それを表現しないとストレスになるものがある。身振りで発散できるものもあれば、絵で発散できるものもあります。そして絵が好きだとか、ダンスが好きだとか、詩が好きだとかいった感情は、内面にある「発散したいもの」と密接な関係がある。そしてそう感じること自体が、その領域の表現が必要な証拠であり、また個人の適正(才能)を示しているのです。

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古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『基準を応用する』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人はそれぞれに違った人生を送っている。これは当然で、もしまったく同じコピーのような人間であったとしても、環境がちがうだけでそれぞれ違った人生になります。経験が違えば性格も考え方も違ってくる。出発点の個性が違えばさらに結果は違ってきます。しかし、それぞれに共通の社会的なルールを守るというレベルでは、みな同じ生き方をする必要があります。
 共同で守るべき社会的なルールは、社会が円滑にゆくために、また個人がその社会で上手く生きて行くために必要なものです。そこで模範となる基準が役に立ちます。しかし細かい個人の生き方にまで標準を適用させようとすると問題が起こります。車なら時速50kmと標識がでている。しかし現実には48kmや51kmで走ることもあるし、突然ブレーキを踏むこともあります。ずっと時速50kmしかし許されていない車があれば、どこかで事故が起こるはずです。
 標準的な生き方とは、概念上の目安であり実際にはありえないものです。しかしその標準に強迫的に固執すれば、その人は社会的に問題を発生させてしまいます。さらに自分の個性や人格を標準化しようとすれば、心のレベルでも問題が発生します。なぜなら自己否定になるからです。そうならないためには、まずは「社会」と「個人」の明確な線引きが必要です。そして標準という「概念上の目安」と「現実の生きた対応」との違いを明確にする必要があります。基準に支配されることなく、個人が主体性をもって基準を「適切に応用する」ことが健全なやり方なのです。

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『失敗から学ぶ』

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 有名な『ジュラシックパーク』という恐竜を遺伝子操作で蘇らせてテーマパークを作る映画があります。そこでは今まで仮説だった恐竜の生態が、実際の行動から明らかになる。映画の中で、電流が流れる柵に恐竜が触れると、その後おなじ過ちを二度と起こさないという話が出てきます。つまり経験を学習する高度な知能があるということです。もちろんこれは話しを面白くするための大胆な仮説の導入かもしれません。とにかく高い知能を持つ動物であるかどうかは、経験に対する学習能力にかかっていることは確かです。
 よく「あの人は経験が豊富だ」という言い方をします。これは沢山の経験があるだけでなく、その経験を活かすことができる人を指しています。この経験の中には、成功だけでなく失敗も含まれている。むしろ失敗から学ぶことで人は成長します。もし自分の失敗を受け入れないならば、その失敗から学ぶことも、その経験を活かすこともできなくなる。失敗から学べないとなると、ジュラシックパークの恐竜以下の知能ということになってしまいます。
 「受け入れ難い失敗」とは、結果が耐え難く、それを受け入れると「自我の崩壊」を招く恐れがある失敗のことです。辛すぎて自分のこととして背負えない。するとその失敗は自分の経験とはならず、経験から学べなくなります。そしてまた繰り返す可能性がある。なので抵抗のあるものは、小さく崩して受け入れていく。少しずつでも最後には全てを受け入れることになります。人間には恐竜にはない自我という特別な機能があるので、自我の許容量に合った「失敗の受け入れ方」が必要なのです。

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『精神の成熟』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人間には精神と身体とがある。これを概念として区別したのは哲学者のデカルトだと言われています。現代では二つの区別は当たり前です。精神と身体は常に一体ですが、時間とともに変化の仕方に違いがある。精神は経験を受け入れて上書きしていくことで成熟していく。それに対して身体は時間とともに下り坂となる。最後は老いの問題、さらに言えば実存の問題と否応なく対峙させられることになります。
 実存とは社会的な役割を超えた、自分の本質的な在り方です。社会的な役割に忙しくしている間は、そういった自分の実存的な問いを考える暇がない。しかし人生のポイントでは自分の実存的な問いが立ち現れます。この問いを超えていくには「精神の成熟」が必要です。もし問われた問題に見合った成熟がなされてなければ、精神が負けてしまいカウンセラーや精神科医の助けが必要となります。つまり経験を上書きせずに否定(或いは逃避)して、成熟以前の自分を正当化していると、必ずやってくる実存的な問題に耐えられないということです。
 精神とは数量化できないものです。非物質であるがゆえに、現代社会では置き去りにされがちです。逆に言えば、精神的な問題からの逃避として、物質や数量化の世界に没頭すると考えることもできます。しかし必ず実存的な問題はやってくる。なぜなら身体は不死身ではなく、必ず老いと死がやってくるからです。そういった根本的な問題に表面的なハウツー技法は一切通じない。ただ自分自身の「精神の成熟」だけが頼りです。デジタル社会における「精神の成熟」の問題は、一つの危機として社会的に共有されるべき問題なのです。

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『時空のサイン』

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 自分の好きなアーティストからサインを貰えたとします。本人が直筆で描いたサインを貰えてうれしくなる。このサインはアーティストの表現であり、その人のものであるから嬉しくなる。もしこれがシャチハタ印鑑であったり、パソコンで作った印刷物であったり、本人の筆跡ではなく誰かのサインの模倣であったりすると、嬉しさは半減するでしょう。同じサインでも、なぜ本人の直筆ではないとだめなのでしょうか。
 本人がその場で書いた直筆のサインは、まぎれもなくその人の表現であり、その時、その場所にその人がいて、自分もそこにいたことを示すものです。前もって作られたものでもないし、誰かが代筆できるものでもない。世界でただ一人、その人だけが書けるサインです。だからこそ、そのアーティストを表すものとしての価値があります。存在を確かなものにする固有のサインは、その時、その場所に存在していた証しであり、それがほかの誰ともちがう「その人」であることを示している。
 規格化されたものや、人工的なもの、あるいは模倣的なものは、他の誰とも違う固有の自分を示しにくい。その大きな原因は、その時、その場所に、その人が存在したことを立証する証拠としては弱いということです。つねに他人の介入の可能性が残っている。だからこそ好きなアーティストから直筆と印刷物のどちらかを選べと言われたら、迷わず直筆を取る。そのサインは場所と時間の存在証明であり、まぎれもない「その人の表現」だからです。それは現在も拡大を続ける宇宙において、二度とないタイミングでそこに存在していたという記念碑的な表現なのです。

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