『情報の流れを泳ぐ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 現代は情報化社会。ウェブで何でも検索できる。つまり自分で考えなくても誰かが整理して教えてくれる。さらにツイッターなど目的以外の情報がどんどん差し込まれてくる。よって知らぬ間に大量の情報を目から入力していることにもなる。あまりに情報が多くなると、選択することが難しくなる。自分の中にある基準も曖昧になる。
 自分という基準が薄れると選択が難しくなる。逆にいえば、選択が難しい状況が続くと自分というものが見失われやすい。現代のような情報の氾濫状態では、情報の濁流にのまれやすく自分を見失いやすい。
 自分で選択して決定する。それは情報の洪水にのまれ、流されるのではなく、その中を目的をもって泳ぐということである。そのためには泳ぎ方を訓練する必要もあるし、またそもそもの目的を見出す感性が大事になってくる。
 情報の濁流に流されずに、その上を目的に向かって泳ぐ。目的は泳いで向かう目的地であり前提である。こればかりは、自分の心を出発点として発見しなければならない。だから感性が必要である。これに対して泳ぎ方とは理性にあたるものである。情報の流れをかき分けて取捨選択する。つまりどれを取りどれを捨てるかという分析である。
 捨てるものと拾うものを間違えると、目的地にはたどり着かない。そもそも目的地を持つことは、重い腰を上げての挑戦である。もしここで失敗を恐れると、挑戦を恐れて、それに繋がる情報の取捨選択も放棄するようになる。つまり流されるままになる。そうして自分を見出せなくなる。
 情報の氾濫は、選択の放棄を招きやすい。そこに挑戦や好奇心を良しとされてこなかった人が、つまり結果を恐れる人が接すると、完全に流されてしまう。これは情報を完全に鵜呑みにするような教育の在り方にも原因があるかもしれない。情報の洪水をいかに泳ぐか。これは感性と理性の問題である。両方が上手く連動して初めて、上手く泳げるようになるのではないだろうか。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『破壊と再生のシステム』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 再生とは破壊の後にやってくる。何かが創造されるときはいつだって混沌から秩序へというプロセスがある。最初から何かが出来上がっているということはない。宇宙の起源も爆発から長い時間をかけて物質化のプロセスが続いている。神話の世界でも混沌から天と地が分かれて秩序が形成される。
 そもそも生物が生きるということが、このプロセスを体現している。生命には死がある。しかし生命は生き続けている。むしろこの矛盾のシステムを上手く利用することで、全体的な崩壊を回避しているのだといえる。物理学で言えばエントロピーの回避。思想的な言葉でいえば輪廻転生。
 より身近な物事でも、飽和状態というものがある。これ以上なにをやっても変化がない状態。コーヒーに砂糖を入れ続けても最後は溶けなくなる。このように飽和に達した状態は混沌と同じことである。そうなればすべてを破壊するしか再秩序化の道はない。
 ヘルマン・ヘッセは『デミアン』で、卵の殻を割って中から鳥が出てくる比喩を描いている。それまで自分を守っていた殻の内部は飽和に達し、外へ出なければ生きられなくなる。つまりこれまでの世界を破壊することで、新しい生を獲得して生きる。これは「破壊と再生のシステム」である。
 破壊と再生は「パラドクスのシステム」である。破壊とは一見すべての終わりを意味する。しかし破壊が新しい世界の暗示となっている。物事を表面的にしか理解しないのなら、破壊から新しい世界は見えてこない。よって「破壊と再生のシステム」は、科学的な思考を超えた詩的な領域にある。芸術的なシステムといってもいい。
 破壊と再生の間は連続していない。断絶である。よってそこには飛翔がある。連続したものの考え方をしているかぎり、飽和状態を切り抜けることはできない。つまり生まれ変わることはできない。根本的な崩壊を回避し、飽和という避けがたい原理を乗り越えるためには「破壊と再生のシステム」を許容しなければならない。世界の終わりこそが始まりであり、それを繰り返すことが健全なシステムなのである。

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『やる気がでないとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 やる気が出ない。そんな時は何をやっても手につかない。心も弾まないのでつまらない。つまらないからさらにやる気がでない。このような状態になるとなかなか出口がみえない。そもそもやる気とは何なのか。やる気とは未来に関わることであり、今現在のことだけで構成されているものではない。未来ゆえに不確定な要素がまじっていて、そこが前向きに感じられることで初めてやる気もわいてくる。
 未来の不確定性を前向きに感ずることができるかどうか。ことばにすればややこしい。しかし映画をみたり、推理小説をよんだりするときは、先が知りたい、分からないから興味がわく、どんどんのめり込む。それは未来に対する期待が、知りたいという前向きな気持ちに繋がっている。つまり「未来への興味」が不確定性を前向きに感じる基盤だといえる。
 「未来への興味」がまだ分からない事を、前向きに感じさせる。もし未来にたいして興味がもてなかったら、むしろ恐れが先行して身構えてしまうことにもなる。本来の意味での未来とは、今現在とは全く違う世界を意味している。もし本当に現在の延長が未来であるならば、それは現在でしかない。未来とは現在と常に断絶して繋がっていない場所のことを言う。だからこそ興味もわくのである。未来を現在化すれば興味はわかない。
 これは時間の問題でもある。やる気の話しが時間と関わるなんて面倒だ。しかし関わっているのだから仕方がない。私たちは科学を前提とした決定論で物事を考える。ああすればこうなる。原因と結果をつなげて、結果のために原因を作り出そうとする。それは未来を現在化することである。すべては想定内の世界になる。つまりそこには「どうなるか分からない」という未来がない。そういった不確定なものは困る。把握できないものは怖い。
 物事を原因と結果で考えると、未来は現在化され興味がわかなくなる。不確定性を前向きに感じることがなくなる。すべては自分が考える因果の内側になる。安心だがやる気は出ない。このような因果の中からすると、やる気は「どうなるか分からない」という不確定な「恐れの領域」にしかないことになる。つまりやる気が出ないのではなく、やる気が出る場所を避けているのである。
 よくわからない所へ出るのは怖い。そこでなにかをするのは心配である。しかしそんな時に誰かが観ていてくれたら安心する。一緒にやってくれる人がいればそれも良い。「どうなるかわからない」というものは誰しも怖い側面がある。もちろん「先が知りたい」という興味はそんな怖さに裏打ちされたアンビバレントな興味でもある。ちょっとした矛盾のなかに楽しさや面白さがある。怖いという自分を見ていてあげる、もう一人の自分があらわれたら、未来は興味深いものになってくる。相反する自分が助け合うことで、矛盾を統合した未来の楽しさが見えてくる。やる気はそういった場所に芽生えるのである。

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『損得が逆になるとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 私たちが何気に前提としている価値観。合理主義であったり成果主義であったりといったもの。それらは資本主義という大きなパラダイムが作り出すルールのようなものである。そのルールを守るうちは、非合理的なことはできない。よって非合理的なことを通過しなければ解決しないときに問題が起こる。
 では非合理的なときとは如何なるときか。たとえば自分が損をすることで相手が得をするようなとき。具体的に言えば、相手に自分のものを与えることで相手が助かるとき。これは合理主義から言えば受け入れられない。成果主義からいってもただの損になってしまう。いやそれは別ですよ、というかもしれない。しかし暗黙に資本主義を採用していると、自分でも気づかないうちに、他人の得は自分の損だと考えるようになる。
 損と得を相関させることで現れる世界がある。資本主義がそうである。しかし損と得が相関しない世界もある。人を助けることが物質的には損かもしれない。しかし相手にとって、あるいは自分にとっても心という視点で見れば得ではないか。そう考えると、人の心の世界は、むしろ物質とは逆の損得原理があるのかもしれない。
 成果主義にとらわれると、結果と原因の二つを相関させて考えるようになる。そして結果のためには「こうすべきだ」(原因)を相手の性質を無視して押し付けるようになる。この意味において、資本主義を基盤とした多様性の成立には限界があるともいえる。多様性とはお互いが尊重し合うことでしか成立しないからである。つまりお互いの損得が相関ない世界である。
 本来は相関しないはずのモノが相関し合う。その間に貨幣というものが入るとそうなる。貨幣は全く種類の違うもの同士を結びつけるマジックである。本当はただの紙や金属、あるいはただの数字である。これを幻想という人もいる。資本主義というルールは、貨幣によって全てを相関できると決めた限りでしか成立しないものである。その中では優しさといった非合理的なものが阻害されやすくなるのは当然であろう。
 私たちは学校などで道徳という概念を教わる。しかし社会にでると資本主義である。ここに大きな矛盾があり、心の病の問題とも関係が深い。資本主義というルールによる弊害が世界的に出てきている。どのようなシステムであれ、生命が関わる場合では必ず形骸化の問題が起こる。どこかで新しくするしかない
 刷新は歴史が自然に行ってくれる。人為的にパッと作れるものではない。変化の方向としては今までとは逆へ向かうのが常である。資本主義にとって非合理的だと思われていたものが、合理的になる。そうなるしかないからそうなる。これは誰にもとめられない。その原理が苦しい人は抵抗するかもしれない。しかし歴史と戦って勝てたものは誰もいないのである。

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『矛盾の統合』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 他人からまったく影響を受けずに、何かをゼロから作りだすことは出来ない。オリジナルなものを作る時でさえ、その要素や着想は必ず「すでにあるもの」である。それは自然のものや人工物、あるいは他人が作ったものである。
 それではオリジナルではないではないか。そういう人もあるかもしれない。しかしそうとも言えない。創作の世界で言われるオリジナルとは、発想やアイデアであり、それは物質的な見た目ではなく精神的なもの、思想的なものを指している。よって表面的には似ているが、それぞれがオリジナルであるという場合も発生する。また逆に表面的には違うが、着想やアイデアがほぼ同じということもある。
 人がただ生きるだけではなく、何か自分のものを作ろうとすれば、必ず「すでにあるもの」から素材やアイデアを集めることになる。そして集めたものを自分の感性で再構成していく。そこに自分の経験や考え方などを上手く反映できればオリジナルな作品になっていく。ここには「自分以外のもので自分のものを作る」という矛盾がある。その矛盾を統合するプロセスが創造である。
 自分以外のもので自分のものを作る。これは矛盾である。この矛盾から起こる葛藤との戦いが芸術である。その闘い方に個性がでる。もし他の影響を恐れ、出来るだけ自分の内側にあるものだけで作ろうとすればどうか。ラクで想定内のものが出来はするが、そこには矛盾も葛藤との戦いもない。綺麗であるが芸術ではない、という作品はそういったものである場合が多い。
 戦いや葛藤といったエネルギーなど微塵も表に見えない芸術もある。まさに凪のような静けさをたたえた名画である。しかしそれらも強力な「抑制という葛藤」のもとに作られている。オリジナリティは表面ではなく内面にある「矛盾の統合」とその闘い方によって発揮される。
 葛藤は内的矛盾から生まれる。これはある意味でストレスを伴う。ゆえに戦いである。創作にはこのような葛藤との戦いが必要な時が必ず来る。安定したスタイルでノーストレスで作品を量産する。それは充実した時期である。しかし必ず飽和に達する時がくる。その飽和の壁を破るには、矛盾となる「次の要素」を受け入れ「新しい統合」を目指すしかない。
 同じことの繰り返しは必ず飽和に達する。部屋もパソコンも放っておくと必ず散らかる。それは人間の心や生き方も同じことである。その散らかりを一挙に相殺するのが「矛盾の統合」である。自分自身がオリジナルであるためには、他者(あるいは異物)を他者として受け入れ、内的葛藤を統合しなければならない。つまり自分自身をしっかりと維持する手立ては、「矛盾の統合」という芸術的な創造以外にはないのである。

AUTOPOIESIS 101/ illustration and text by : Yasunori Koga
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