『人はなぜ創るのか』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人は何かを創らざるを得ない存在である。たとえばアリは巣を作る。あるいはビーバーはダムを作る。これは遺伝子に組み込まれたコード(本能)に従う関係から、一種の機械的な行為と見ることもできます。それほど動物は本能に忠実に行動する。
 人間も原始時代から道具や住居など、動物と同じく生活に必要なものを作っています。しかしいつ頃からか生きることに必要ない非実用的なものを作るようになる。考古学の出土品には動物をかたどった彫刻などがあります。これは生きることだけを考えれば不必要です。アリもビーバーもそんなものは作りません。しかし人間は「それ」を作らざるを得なくて作っている。
 人間には、他の動物と違う精神という機能を持っています。これは他の動物が持っていない脳の余剰から生まれるものです。つまり本能による生存だけを目的とした「すべてをコード化された動物」とは次元の違う存在であるということです。本能からある程度の自由があるからこそ、精神が機能して非実用的なものを自由に作り出すことができる。
 考古学的な彫刻は、生きることよりも精神の安定のために作られたと考えられます。もちろん人間が集団で社会生活を始めたことと大いに関係がある。原始的な状態に対する文化とは、ある種の「反生存」(反本能)を許容することによって作り出されるのです。
 人間は精神を持っているがゆえに、他の動物のようにただ本能に従っているだけでは安定しない生き物です。よって、生存とは関係のない「精神と関係あるもの」を作らなければならない。それは非実用的なもの、つまり芸術です。いくら物質的に豊かでも、生存が保障されていても、何かを創り出すことなしに精神の安定はありえないのです。
 その意味では、人類のなかで取り残されずに進化するのは、本能に支配されず非実用に価値を見だせるタイプ。芸術を創り出すタイプだと考えられます。ただ生きているだけでは納得に行き着かない。あるいは何かを作り出したいという人は、潜在的にそのタイプであることを示しています。ただ生きる(本能)だけで満足できないという郷愁の対価として、未来の可能性を手にしているのです。

AUTOPOIESIS 111/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『芸術的な直感』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 たとえばイルカを描くとします。モチーフにしたイルカの写真をそのままそっくりに描く。すると誰が見てもイルカであることが分かります。情報としてはイルカという存在を伝えている。このように「対象が何であるか」を示すものは、非常口のマークなどと同じ情報です。しかしイルカをその人にしか描けないタッチや色使いなどで描くとどうでしょうか。そこには標識やマークといった「対象が何であるか」という情報以上のものが付加されています。表面的にはイルカですが、イルカの背後にさらなるレベルの情報が存在する。
 ゴッホの「ひまわり」はただ「ひまわり」を示しているだけではありません。ゴッホが見た「ひまわり」であり、ゴッホが感じた「ひまわり」です。ゴッホは「ひまわり」を借りて自分を表現したということもできます。この「ひまわり」プラスαの部分が世界中の人を引き付ける。その人の感じ方や表現の仕方によって「対象が何であるか」というレベルを超えて、人々に共感を呼ぶ情報が伝えられる。
 ただ見たままを正確に描く。これも一つの技術を要する表現です。しかしそれは「対象が何であるか」を伝えるというレベルを超えられない。その役割は今や写真が担っています。よって「写真のような技術」を誇るということ以上の目的は見出せません。つまり写真の登場によって「写真のような技術」は表現ではなくなったということです。表現とは人間と対象との関わりから生まれるもので、それは「対象が何であるか」を超えた表現なのです。
 目に見えるものの表面だけを重要視すれば、自然に表現は表面の模倣に終わります。しかし人間には想像力という、他の動物にはない能力を備えています。これは今目の前にないものを見る力です。その想像力を発揮しながら描けば、絵は表面の模倣を超えたものになります。つまり描き手の視点、感じ方などが絵に加わっていく。それは写真とそっくりではない。しかしそうであるがゆえに「対象が何であるか」という写真の役割以上の情報が付加される。それが芸術というものです。
 見たものの表面ではなく存在の裏にあるものを感じる。外側から見えないものを直感することは大切なことです。なぜなら世界には、表面的に解釈するだけでは騙されてしまうような、嘘の(偽の)情報が溢れているからです。騙されやすい人は表面的にしか情報を解釈せず、裏にある目的やその言葉の文脈を感じることが出来ません。そういった人が絵を描くと写実に固執する傾向があります。情報には表面上の意味と裏にある意味が一致している場合と一致していない場合の二つがある。表面上の意味しか受け取らない場合は偽の情報に騙されやすく、また写実以外の個性的な表現を理解することが難しくなります。
 表現には「対象が何であるか」で終わるものと、それ以上の情報が裏に隠されたものがある。芸術とは後者の表現であり、それは表面的なレベルから解放されることによって直感が可能となる。そういった情報の受信や表現は技術よりも直感で、意識よりも無意識でなされます。必然的にそのような能力を発達させれば、偽の情報などにも騙されにくくなる。これが芸術的な直感です。「対象が何であるか」という表を認識しつつも、そこから離れてより大きな「関係」や「文脈」といった裏を直感する。芸術的な感性は表に支配されずに裏を感じとる力なのです。

AUTOPOIESIS 110/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『絵の技法について』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 技法だけで絵を描くと個性を喪失する。これはなぜなでしょうか。この命題を少し考えてみることにします。絵には大きく分けて二つの表現要素があります。一つは技法です。たとえば機械に技法のパターンをインプットすれば絵ができます。AIの研究が進む現代では、かなりの技法で絵を作り出すことが可能です。もう一つは感性です。それは技術とは別種の、人の個性や心とのつながりから生まれる表現です。子供の絵などは技術を超越した感性で描かれます。
 絵の技術は一般的に技法と呼ばれます。法則なので、そのやり方に従えばだれでも同じ絵ができる。だからこそ機械が代行可能です。これに対して感性を使った絵は、技法として技術を一般化する前の、その人の個性や感性と直結した表現です。より感覚的なレベルであり、それは「言葉に出来ない表現」ということもできます。
 技法は描き方のパターンを一般化したものであり、感性の表現は、一般化できないその人の個性と関わるものです。よって最初にあげた命題「技法だけで絵を描くと個性を喪失する」ということになります。誰でも同じ絵になるということは、そこに個性はないということです。たとえば一人の画家の「技法だけ」を抽出すると、その技法は画家とは切れてしまい、関係のないものになります。ゆえに他人の「技法だけ」を採用しても、自分の個性との繋がりを持ちえません(技法を個性と融合させる方法はまた別のところで)。
 感性の表現は、その人の個性から必然的に生まれた、他と並ぶもののない表現です。もちろん絵は技術によって描かれます。しかしその技術は、画家との有機的な「心とのつながり」によって生まれるものです。感性の表現は、まだ一般化されず、描く人の心のリズムとして、つねに内面に存在しています。
 人の心は機械のように単調で一律ではありません。複雑かつ生きたリズムであり、そこには多様なイメージが蓄積されています。そこから生まれる表現は「自然の表現」といっても良いものです。この複雑な心の表現が、描く人によって徐々に、直感のレベルではあるが意識化されていく。そして「自分らしい表現」として自由に操ることができるようになる。それこそが、機械的な技法とは別次元にある、自分の個性を表現できる技術です。技法は心との繋がりを持つことで、初めて自分の表現となりえるのです。

AUTOPOIESIS 109/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『二つの理想』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 だれもが理想を持っています。持っていないと思っている人でも無意識にはそういったものがある。それは幼少期に出来て大人になっても変わらず持っているものもあれば、段々と変化するものもある。その理想は自分が置かれた状況を相対化し、前進の原動力にもなる。
 一般に理想をもつことは良い事だと思われています。しかし理想には負の側面もある。よく不幸の条件として「不可能なものを追い求める」というテーゼがあります。これは「得ることができないものを得る」という論理矛盾です。しかし人は時に現実が嫌になり、現実と真逆に位置する場所に理想をつくり、そこへ逃避しようとします。それは不可能な場所であり行き着くことのできない理想です。だからこそ現実に対する逃避場所ともなりえる。
 実現不可能な理想を追い求めることは、その人を論理矛盾の世界へ落とし込みます。一旦その世界へ入るとなかなか出られなくなる。なぜなら実現不可能性を求め続けるからです。それに対して現実的な理想というものもあります。それは自分自身が努力すれば到達できる、いま目の前にはない未来です。現実的な理想は、現実逃避の理想郷ではなく、その人が積極的に世界と関わる時に見える道筋にあるものです。その指標に従えば、論理矛盾は起こらず発展していける。
 理想には「現実的な理想」と「非現実的な理想」がある。前者は前進や発展、進化に作用し、後者は逃避と論理矛盾へ誘う。「現実的な理想」は健全なイメージであり、自分の個性や置かれた状況などが客観的に把握されていくことで自然と発生するものです。それに対して「非現実的な理想」は、自分の個性や状況といった現実を受け入れられない時にその支えとして発生するものです。
 理想とはまだ目の前になく、未来で実現可能なものです。よって可能性の判断が重要となります。自分の力を発揮したい人は、できるだけ大きな実現可能な理想をキャッチするでしょう。努力が嫌な人は事前抑制が働き小さな理想にとどめる。さらに失敗を過度に恐れるひとは完全に理想を放棄するでしょう。挑戦しないと失敗もないというわけです。このように実現可能な理想でも、人によって質的な違いがあります。
 理想にはもう一つ、実現可能でも実現不可能でもないものがあります。それは不可能だと理解したうえでそれを理想として認定するものです。これを哲学者のイマヌエル・カントは「統制的理念」と呼びました。分かりやすい例は「平和」という概念です。「平和」を100%実現することは不可能です。しかしそれを理解しつつもできるだけ近づこうとする。そのための指標となるものです。実現不可能だからと無視していれば、いまごろ世界はカオスでしょう。これに対する実現不可能な「逃避的な理想」は、本人が実現不可能だという理解がありません。そこがこの「統制的理念」(不可能性を理解した理想)との違いです。
 自分が持っている理想が実現可能か不可能か。その判断は直感的になされます。数量化できる情報だけを頼りにする思考法では、二つの区別はつけられません。さらに「統制的理念」のような不可能性を含む概念も公式に組み込めないので排除されます。よって未来は直感によってしか判断されえません。直感は意識だけでなく、経験という膨大な情報の貯蔵庫である無意識を必要とします。自分の無意識を信頼し「全体性」(自己)を獲得していくことで、「現実的な理想」と「非現実的な理想」の区別は自然になされていくのです。

AUTOPOIESIS 108/ collage and text by : Yasunori Koga
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『サウンド・オブ・メタル』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
【ストーリー】

ドラマーのルーベンはヴォーカリストのルーとバンドを組んでいる。二人は恋人同士でありトレーラー暮らしでツアーを回っている。ある日ルーベンに聴覚障害が現れ、爆音環境であるバンド活動が障害を進行させるというパラドクスに陥る。バンド維持を切望するもルーの説得により、聴覚障害者の支援施設へ向かう。そこでルーは手話と聴覚障害者の基本的な生活スタイルを学んでいく。そしてある日、手術を受け以前の聴覚を復活させようと試みる。

【ノイズと静寂】

依存関係にある二人は音楽(メタル)によって自己を表現している。お互いに過去に傷があり、バンド活動によって内的葛藤のバランスを取っている。しかしルーベンの聴覚障害によりその構造が崩れてしまう。それまでノイズを生み、ノイズを浴びることが自己逃避にもなっていた彼にとって、バンド活動の停止は人生の停止に等しい。しかし世界で唯一信頼できるルーの説得により、バンドの休止を受け入れ施設へ入る。そこで手話という静寂のコミュニケーションを獲得していく。これはノイズによるコミュニケーションの真逆であり、そこに全体性の回復が暗示されている。その獲得には内的にも真逆の価値観を要求されることになる。手話と聴覚障害者の生活スタイルを徐々に受け入れていくことで、ルーベンは内面的にも変化していく。ノイズがノイズとなり静寂が静寂となる。ルーベンは覚悟を決めルーと再びバンドを再開しようと動きだす。そして本来の自分たちの姿で対面することになる。本来の自分とはなにか。自己表現と自己実現とは。そして「聞こえるということはどういうことなのか」をリアルに体感させられる稀有な作品。

AUTOPOIESIS 107/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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