『繭のなかの擬似現実』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人はそれぞれに価値観を持っている。その価値観は共有されることもあり、また共有されないこともある。個々の主観的な世界観は、人々に共通の客観的な世界とは違うからである。
 もし自分の価値観だけを肯定し、それに当てはまらない価値観をすべて否定してしまえばどうか。客観的には自分とまったく考えの違う人がたくさん存在している。にもかかわらず、自分の世界では否定され消し去られてしまう。これは怖いことではないか。
 お互いの価値観や世界観は独立している。ゆえに客観的な世界を認識することによって、初めてお互いの世界観が共有できるようになる。物を投げれば落下する。太陽は沈んでまた昇る。共有化できる客観世界(現実)は無数にあり、自分と違う価値観を持った人が存在することもまた客観的な事実である。
 もし自分の価値観だけを肯定し、それ以外をすべて否定して存在を認めないとすればどうか。それは主観の世界に入り込み、客観的な事実としての世界を見失っていることになる。「繭の中の擬似現実」では、自己だけが肯定され都合の悪いものは消し去られる。しかし、客観的な現実は動かし難く存在し、また個人の主観世界を包み込んでもいる。もし「繭の中の擬似現実」が、客観的な現実とあまりにもかけ離れていれば、必ず危機が訪れる。船が現実の客観的な地図を無視すればいつかは必ず座礁するだろう。
 現実の否定と繭の関係は、現実と想像力の関係に似ている。目の前にないものを見出すのが想像力。これはある意味で現実を否定したところに生まれる。しかし現実との対応関係を失った想像は「妄想」という病理学的な名で呼ばれる。繭の内側は「妄想のスクリーン」が張り巡らされている。そこに映るのは自分だけである。
 外部環境から遮断され、自己をあたため守る環境は、子供が成長する過程で必要なものである。ある意味では「繭の中の擬似現実」がなければ成長できない。このような子どもに必要な擬似現実を、臨床心理学の世界ではファンタジーと呼ぶ人もいる。しかし成長過程で繭の殻は捨てられる。ずっといると危険だからである。
 もし繭から出るタイミングを失うと、人は「繭の中の擬似現実」を客観的な現実と取り違えてしまう。都合のよいものしか見えなくなり、違う価値観は全て消し去られる。そして現実の世界を自分の世界へ強引に捻じ曲げるようにすらなる。ここが危険な世界への分岐点だと言える。そういった妄想への傾斜をくいとめ、自己を正しく補正してくれるのが客観的な事実認識なのである。

AUTOPOIESIS 100/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『自由と個人主義』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

  自由とは一般に、他に拘束されず自主的に選択したり行動したりすることを指す。「私は自由よ」ということですべて自分の思い通りに振る舞う。しかし、もしその人がなにかの感情に支配されて暴力を振るうとするとどうか。外から見るととても自由な振る舞いには見えない。
 自分以外からの拘束や操作を受けなくても、自分自身がある意味で「自分に支配されている」状態なら、やはりそれは自由とは呼べない。つまり自分をコントロールできて初めて自由と呼べる状態になる。それまでは不自由な状態であることを認めるしかない。
 現代は「個人主義」の時代である。なんでも個人が優先される。しかしこの「個人主義」も自由と同じく自分自身に支配されてしまうと、ただの「利己主義」に堕していく。人々が利己的になり我儘の限りを尽くせば、社会もおなじく堕落してしまう。結局それでは弱肉強食の世界ではないか。
 「個人主義」を成立させる社会を維持していくには、他者の「個人主義」も阻害してはならない。そうなると好き勝手できない領域が発生する。そこは抑制しなければならない。しかし我慢や抑制を「抑圧」と受け取れば反動が起こる。精神分析学の創始者フロイトは、このような「抑圧」が無意識を作るという。だから意識に反して人は無意識的に「やってしまう」のだ。
 好き勝手主義である「利己主義」を社会的に修正したところに「個人主義」が成立する。それは簡単に言えば他者を尊重するということだ。しかしこれは自分が我慢しなければならないので不利益ではないか。そう感じる人が「嫌な我慢」という「抑圧」への抵抗を示す。放っておくと大きくなり反社会的なものへと発展する。
 フロイトは「抑制こそが文化である」と言う。そしてその反動が起こるとも。なぜなら文化を獲得するまでは、人間は「動物的」だからである。動物の利益に反する抑制を受け入れる。これは動物的な矛盾であろう。しかしその矛盾を超えた所に「個人主義」も文化もある。
 自由とは自分のみならず他人の自由を阻害しない状態で成立する。誰もいない宇宙で好き勝手に振舞っても、自由もなにもないではないか。やはり水を受け入れて初めて自由に泳げるように、他者を阻害せず受け入れることで自由が成立する。
 何でもありは自由に非ず。真に自由に振る舞うための抑制を備えてこそ、無意識の暴走に支配されない「文化的な自由」=「個人主義」も成立する。現代人は自己との戦いを避けるために抑制(我慢)すべきところを誤ってはいないか。だからこそ無意識の暴走に見舞われるのではないか。自分のためにこそ自分を抑える。この矛盾を超えたエネルギーは「勇気」によって生まれるのではないだろうか。

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『個性とは何か』⑥

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 個性とは無形にして永遠普遍の本質である。この無形なる普遍的な本質を、もう一人の古代ギリシャの哲学者、プラトンは「イデア」とよびました。プラトンはキリンならキリンの、カバならカバの「イデア」があると言います。それぞれにイデアがあるからこそ、一目見てキリンやカバと分かる。つまりこれが個性の認識にあたるものです。
 群集の中にある友人の顔を一瞬で見分ける力。あるいは作品を見てだれのものかが瞬時に分かる力。これらは対象となる個性を把握しているからこそ生まれるものです。表面的なものではなく、無形の普遍的な「本質」を直観的に理解しているからこそ可能な認識なのです。
 個性とは誰の中にもあるものです。たとえ表面的には一般化していても、それ以上分割できないアトムのように、何者にも破壊できないものとして、無形のイデアのように必ず存在しているのです。
 社会は還元主義を採用して動いています。すべてを数値管理し、科学は分類と体系化によって成立している。よって人間もそのように扱われてしまいます。そうすると個性は見えなくなってしまう。しかし、個性は無形の普遍的な本質であり、究極的には破壊できないのです。
 「私には個性がない」という人もいます。しかし本当にそうでしょうか。還元主義的な一般化によって見えなくなっているだけではないでしょうか。個性は、いつものその人の動きの中に、発するものの中に、生み出すものの中に、常に存在しています。無形にして永遠普遍なる個性を消滅させることは、決して出来ないのです。

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『個性とは何か』⑤

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 個性とは比較できないものである。それは部分へと分解する還元主義の対局にあるもの。そのようなあり方を全体論(ホーリズム)と言います。部分を総合して出来るものではなく、それそのものが全体であるようなものです。
 同じ全体でも全体主義は個性が消滅してしまい、集団が一つの全体となってしまいます。一方ホーリズムは部分であることを否定します。その状態でないと個性は存在できないのです。部分へと分解できないということは、つまり「それ以上小さくできない」(最小単位)ということです。
 個性とは「それ以上小さくできないもの」です。古代ギリシャの哲学者、デモクリトスは「これ以上分割でいないもの」をアトモスと名づけました。これは現代でいう原子(アトム)の元型です。この分割できない万物の基礎となるアトムのようなものが個性だと考えられます。
 現代物理学では、原子より小さなものが想定されています。しかし分割できない、永遠普遍のものとして「アトム」という概念は、いまでも生き続けています。個性はこの「アトム」が象徴するような、永遠で普遍なものです。
 個性とは何ものとも比較できない、永遠普遍のものである。それは本質的であり、破壊不能なものです。分解したり破壊したりできないもの。つまり物質的なものではないということです。個性とは物質とは別のことろに存在する「無形」にして永遠普遍なものなのです。

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『個性とはなにか』④

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「個性」とは本質的なもの。それ自体で一つの全体をなすものです。たとえば全体主義の中にあるものは、全体に対する部分でしかありません。それ自体で一つの全体とはならない。さらに還元主義的に、数量化したり各要素へ分解したりすることも、全体(個性)を破壊することになります。
 本質はそれ自体で完結した完全体であり、他とは比較できないものです。そして「個性」とはその本質そのものです。別の言い方でいえば「一般化」できないものです。よって一般的な基準にそれぞれが従うと「個性」は消滅してしまいます。「個性」が消滅するということは、存在自体がなくなるということです。
 「個性」の性質上、独立的であることが「個性」の条件となります。複雑な要素の集合体ではない。だからこそ、分解もできない。これはつまり内部に矛盾がないということです。内部に矛盾のないところにしか「個性」は維持されない。キリンはキリン、カバはカバとして矛盾のない存在です。
 たとえば「見た目と中身が違う」(形式と内容の乖離)といった矛盾がよくあります。パッケージと中身の乖離、あるいは「本音」と「建て前」など。このような状態は二重構造(ダブルバインド)であり本質として完全ではありません。キリンが実はカバであるといったこはありえない。このように二つに分解できるものは「個性」としてはまだ不完全です。
 「本音」を隠して「建て前」で一般化に従う。そうして全体主義の中へ入り、そこからの保護をうけ安心を得る。しかしその代償として「個性」を失う。個性とはその人がこの世に存在しているという「存在証明」のようなものです。よってそれを失うことは「生きているようで生きていない状態」を生きる、ということにもなります。吹雪の中、ホワイトアウトに飲み込まれないためには、どうしても「個」を保つ必要があるのです。

AUTOPOIESIS 0096/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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