『二つの理想』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 だれもが理想を持っています。持っていないと思っている人でも無意識にはそういったものがある。それは幼少期に出来て大人になっても変わらず持っているものもあれば、段々と変化するものもある。その理想は自分が置かれた状況を相対化し、前進の原動力にもなる。
 一般に理想をもつことは良い事だと思われています。しかし理想には負の側面もある。よく不幸の条件として「不可能なものを追い求める」というテーゼがあります。これは「得ることができないものを得る」という論理矛盾です。しかし人は時に現実が嫌になり、現実と真逆に位置する場所に理想をつくり、そこへ逃避しようとします。それは不可能な場所であり行き着くことのできない理想です。だからこそ現実に対する逃避場所ともなりえる。
 実現不可能な理想を追い求めることは、その人を論理矛盾の世界へ落とし込みます。一旦その世界へ入るとなかなか出られなくなる。なぜなら実現不可能性を求め続けるからです。それに対して現実的な理想というものもあります。それは自分自身が努力すれば到達できる、いま目の前にはない未来です。現実的な理想は、現実逃避の理想郷ではなく、その人が積極的に世界と関わる時に見える道筋にあるものです。その指標に従えば、論理矛盾は起こらず発展していける。
 理想には「現実的な理想」と「非現実的な理想」がある。前者は前進や発展、進化に作用し、後者は逃避と論理矛盾へ誘う。「現実的な理想」は健全なイメージであり、自分の個性や置かれた状況などが客観的に把握されていくことで自然と発生するものです。それに対して「非現実的な理想」は、自分の個性や状況といった現実を受け入れられない時にその支えとして発生するものです。
 理想とはまだ目の前になく、未来で実現可能なものです。よって可能性の判断が重要となります。自分の力を発揮したい人は、できるだけ大きな実現可能な理想をキャッチするでしょう。努力が嫌な人は事前抑制が働き小さな理想にとどめる。さらに失敗を過度に恐れるひとは完全に理想を放棄するでしょう。挑戦しないと失敗もないというわけです。このように実現可能な理想でも、人によって質的な違いがあります。
 理想にはもう一つ、実現可能でも実現不可能でもないものがあります。それは不可能だと理解したうえでそれを理想として認定するものです。これを哲学者のイマヌエル・カントは「統制的理念」と呼びました。分かりやすい例は「平和」という概念です。「平和」を100%実現することは不可能です。しかしそれを理解しつつもできるだけ近づこうとする。そのための指標となるものです。実現不可能だからと無視していれば、いまごろ世界はカオスでしょう。これに対する実現不可能な「逃避的な理想」は、本人が実現不可能だという理解がありません。そこがこの「統制的理念」(不可能性を理解した理想)との違いです。
 自分が持っている理想が実現可能か不可能か。その判断は直感的になされます。数量化できる情報だけを頼りにする思考法では、二つの区別はつけられません。さらに「統制的理念」のような不可能性を含む概念も公式に組み込めないので排除されます。よって未来は直感によってしか判断されえません。直感は意識だけでなく、経験という膨大な情報の貯蔵庫である無意識を必要とします。自分の無意識を信頼し「全体性」(自己)を獲得していくことで、「現実的な理想」と「非現実的な理想」の区別は自然になされていくのです。

AUTOPOIESIS 108/ collage and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』
 

『サウンド・オブ・メタル』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
【ストーリー】

ドラマーのルーベンはヴォーカリストのルーとバンドを組んでいる。二人は恋人同士でありトレーラー暮らしでツアーを回っている。ある日ルーベンに聴覚障害が現れ、爆音環境であるバンド活動が障害を進行させるというパラドクスに陥る。バンド維持を切望するもルーの説得により、聴覚障害者の支援施設へ向かう。そこでルーは手話と聴覚障害者の基本的な生活スタイルを学んでいく。そしてある日、手術を受け以前の聴覚を復活させようと試みる。

【ノイズと静寂】

依存関係にある二人は音楽(メタル)によって自己を表現している。お互いに過去に傷があり、バンド活動によって内的葛藤のバランスを取っている。しかしルーベンの聴覚障害によりその構造が崩れてしまう。それまでノイズを生み、ノイズを浴びることが自己逃避にもなっていた彼にとって、バンド活動の停止は人生の停止に等しい。しかし世界で唯一信頼できるルーの説得により、バンドの休止を受け入れ施設へ入る。そこで手話という静寂のコミュニケーションを獲得していく。これはノイズによるコミュニケーションの真逆であり、そこに全体性の回復が暗示されている。その獲得には内的にも真逆の価値観を要求されることになる。手話と聴覚障害者の生活スタイルを徐々に受け入れていくことで、ルーベンは内面的にも変化していく。ノイズがノイズとなり静寂が静寂となる。ルーベンは覚悟を決めルーと再びバンドを再開しようと動きだす。そして本来の自分たちの姿で対面することになる。本来の自分とはなにか。自己表現と自己実現とは。そして「聞こえるということはどういうことなのか」をリアルに体感させられる稀有な作品。

AUTOPOIESIS 107/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『光と影』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描く。最初はまっ白い紙から始まります。つまり綺麗な「白の領域」を汚すことでしか、そこに新しい世界は生まれない。これはだれでも知っています。絵はつねに純度100%を破壊しながら描き進める。ある意味で矛盾そのものです。創造行為は矛盾である。いや矛盾を超えるからこそ創造である。
 まずは白い紙に線を引く。すると形が現れる。丸、三角、四角、線によって構造を描くことができる。立体だって線で表せます。透視図法で奥行のある空間も描ける。この線はとても重要で、描かれたものを見ると、だれでも三角形の構造がわかる。これは線だけの構造だからであって、もし赤いリンゴだと同じ赤を見ているかどうか分からない。オレンジに見える人もいるでしょう。
 線によって表された三角形は三つの角がある。誰もが同じ認識にいたる。これは凄いことです。そこへ今度は影を付ける。すると立体構造はさらに重みと存在感が増す。これは白い紙を汚していくことで世界が現れることと似ています。加えることで増していくものがある。
 何もないところに線や影を加えると存在感が増す。構造(線)に影を付けることで、光と影が表れる。つまり影によって光が表現される。二つは相対的な関係にある。よって影をなくしていけば光も無くなる。これは重力を排除すれば歩いている感触が乏しくなる原理と同じです。
 寒さによって暖かさが支えられている。あるいは空腹だからこそ食事に満足を覚える。すべては背反する概念に支えられたものです。逆の概念が不足すると、逆もまた不足するとう原理がある。絵に描いた影が小さければ、光も小さくしか感じない。この究極は生と死の関係かもしれません。
 絵を描く時には、だれでも無意識に反対概念のバランスをとっています。むしろ反対概念は無意識でやったほうがうまくいく。光を表現するときは、無意識で影のバランスを取っている。カラフルにしたい時はモノクロームとのバランスを取っている。もし光を表現したいからと影をどんどん排除していくと、光もなくなってしまう。悲しいことですが、逆のものでしか支えられないのです。
 光を表現するには影が必要です。影を許容できて初めて光が表現できる。これは「光」という言葉上の意味からすれば矛盾かもしれない。しかし真実は両極を統合する場所にしかありません。言葉に支配されると現実からずれていく。その点で絵は健全な世界です。
 影の部分にはなにもないのか。影の部分には存在の暗示があります。つまり影にはメタファーがある。色彩を使う絵であれば、影の部分に色面が入り、そこが鮮やかなメタファーとなる。秘すれば花。多くの物語が故郷の出発から始まるように、白い領域から物語をスタートさせる。新し構造と影、色彩を許容することによって、自分の物語が作り出される。白との別れ。その郷愁に見合う世界を、創造によって作り出していくのです。

AUTOPOIESIS 106/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『情報の流れを泳ぐ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 現代は情報化社会。ウェブで何でも検索できる。つまり自分で考えなくても誰かが整理して教えてくれる。さらにツイッターなど目的以外の情報がどんどん差し込まれてくる。よって知らぬ間に大量の情報を目から入力していることにもなる。あまりに情報が多くなると、選択することが難しくなる。自分の中にある基準も曖昧になる。
 自分という基準が薄れると選択が難しくなる。逆にいえば、選択が難しい状況が続くと自分というものが見失われやすい。現代のような情報の氾濫状態では、情報の濁流にのまれやすく自分を見失いやすい。
 自分で選択して決定する。それは情報の洪水にのまれ、流されるのではなく、その中を目的をもって泳ぐということである。そのためには泳ぎ方を訓練する必要もあるし、またそもそもの目的を見出す感性が大事になってくる。
 情報の濁流に流されずに、その上を目的に向かって泳ぐ。目的は泳いで向かう目的地であり前提である。こればかりは、自分の心を出発点として発見しなければならない。だから感性が必要である。これに対して泳ぎ方とは理性にあたるものである。情報の流れをかき分けて取捨選択する。つまりどれを取りどれを捨てるかという分析である。
 捨てるものと拾うものを間違えると、目的地にはたどり着かない。そもそも目的地を持つことは、重い腰を上げての挑戦である。もしここで失敗を恐れると、挑戦を恐れて、それに繋がる情報の取捨選択も放棄するようになる。つまり流されるままになる。そうして自分を見出せなくなる。
 情報の氾濫は、選択の放棄を招きやすい。そこに挑戦や好奇心を良しとされてこなかった人が、つまり結果を恐れる人が接すると、完全に流されてしまう。これは情報を完全に鵜呑みにするような教育の在り方にも原因があるかもしれない。情報の洪水をいかに泳ぐか。これは感性と理性の問題である。両方が上手く連動して初めて、上手く泳げるようになるのではないだろうか。

AUTOPOIESIS 105/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『破壊と再生のシステム』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 再生とは破壊の後にやってくる。何かが創造されるときはいつだって混沌から秩序へというプロセスがある。最初から何かが出来上がっているということはない。宇宙の起源も爆発から長い時間をかけて物質化のプロセスが続いている。神話の世界でも混沌から天と地が分かれて秩序が形成される。
 そもそも生物が生きるということが、このプロセスを体現している。生命には死がある。しかし生命は生き続けている。むしろこの矛盾のシステムを上手く利用することで、全体的な崩壊を回避しているのだといえる。物理学で言えばエントロピーの回避。思想的な言葉でいえば輪廻転生。
 より身近な物事でも、飽和状態というものがある。これ以上なにをやっても変化がない状態。コーヒーに砂糖を入れ続けても最後は溶けなくなる。このように飽和に達した状態は混沌と同じことである。そうなればすべてを破壊するしか再秩序化の道はない。
 ヘルマン・ヘッセは『デミアン』で、卵の殻を割って中から鳥が出てくる比喩を描いている。それまで自分を守っていた殻の内部は飽和に達し、外へ出なければ生きられなくなる。つまりこれまでの世界を破壊することで、新しい生を獲得して生きる。これは「破壊と再生のシステム」である。
 破壊と再生は「パラドクスのシステム」である。破壊とは一見すべての終わりを意味する。しかし破壊が新しい世界の暗示となっている。物事を表面的にしか理解しないのなら、破壊から新しい世界は見えてこない。よって「破壊と再生のシステム」は、科学的な思考を超えた詩的な領域にある。芸術的なシステムといってもいい。
 破壊と再生の間は連続していない。断絶である。よってそこには飛翔がある。連続したものの考え方をしているかぎり、飽和状態を切り抜けることはできない。つまり生まれ変わることはできない。根本的な崩壊を回避し、飽和という避けがたい原理を乗り越えるためには「破壊と再生のシステム」を許容しなければならない。世界の終わりこそが始まりであり、それを繰り返すことが健全なシステムなのである。

AUTOPOIESIS 104/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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