『個性とはなにか』③

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 全体主義の対局にある個性。それは比較によって現れる「差異」であり「違い」です。この「違い」はそれぞれが「別もの」であることを示しています。「別もの」であるということは、そこは「比較できないもの」だということです。同じものは比較できるが「別物」は比較できないのです。
 たとえばキリン同士は比較できる。しかしキリンとカバは「別もの」なので本質的には比較できない。比較するとすれば、重さやサイズなどを数へと還元するしかない。しかしそれはキリンやカバの「存在のあり方」を破壊してしまいます。本質的に違うもの同士は比較できないのです。
 比較によってあらわれる差異。そこに現れた「違い」は比較できない。キリンとカバはどちらも四本で歩き、心臓を持っている。しかし違う部分がある。そこがそれぞれの個性であり、比較できない部分です。キリンがカバと同じでありたいなら、無理に首を縮めて水の中で暮らさなければならない。
 そもそも比較というものは、同じレイヤー上にあるものでないと出来ません。たとえば数学の点数どうしは比較できますが、国語と算数とを比較することはできません。もちろん数字上の比較はできますが意味がありません。数字による比較は便利であるとともに、一線を超えると意味をなさなくなるのです。
 すべてを数にすれば比較できないものも比較できるようになる。しかしそのことで固有性は剝ぎ取られる。全体主義もその内部は数でしかありません。このように全てを数や部分へと分解するものの見方を「還元主義」と言います。「還元主義」は個性を解体する。「個性」とはその対極にある総合的なもの、全体的なものです。“分解すると失われてしまうもの”。いわば人体における魂にあたるものが「個性」だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0095/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『個性とはなにか』②

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  個性とは比較による差異、違いにあらわれます。たとえばアリなどの同質の集団には、個々の差異や違いは見られません。アリの群れのどこを取り出してもおなじ個体です。もしその中に違いが発生すると、その集団から「違い」は排除されてしまいます。
 同質の群れから排除されるものは、異質だと全体が判断したものです。この意味で「全体主義」は個性を含むと成立できないということが分かります。「全体主義」を目的とする集団は、個を排除し続けることではじめて維持される。つまり同質の仲間(違いを許さない仲間)で群れた場所には、個々に違った花は咲かないということです。
 しかし自然界にはたくさんの個性的な花が咲き乱れています。それぞれは排除し合っていません。このことから「全体主義的な個性の排除」は、反自然的であることが分かります。つまり“不自然”であるということです。言い換えると、目的が不自然に「固定」されることで「全体主義的な個性の排除」が起こるのです。
 「個性」とは比較による差異であり、お互いの「違い」としてあらわれる。その違いを認めず、個を排除するシステムが「全体主義」です。この「全体主義」は、「不自然な目的」が操作的に固定されることで発生します。この力が広がれば、個性は片っ端から排除されていきます。この流れが歴史的に繰り返されていることは、いまや誰もが知っています。 
 歴史的に繰り返されるということは、放っておくと人間は必ずそうなってしまうということです。そして、そうならないために「個性」という状態や概念がある。「個性」は「全体主義」にとっては排除すべきものであり、むしろ全体を維持するために燃やす“蒔”のように扱われます。山火事は木々を燃やすことで広がる。しかし、焼け跡からやがては緑が芽吹き、個々の花が咲き乱れるようになる。自然という目的は、必ず「個性」を優先させるものなのです。

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『個性とはなにか』①

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 「個性」という言葉を日常でよく目にします。しかし「個性」というものをはっきりと理解して認識している人はそう多くはないはずです。そもそも「個」はその反対にある「全」という概念に支えられています。たとえば全体主義といえばその中に固有の性質は許されない。個性のない同質の全体とは、つまり「無個性な集団」ということです。そして個性とはそのような「無個性」から際立つ何かを持つ性質のことです。
 一般に個性的と言われる人でも、他人と同じ部分、同じ共通する性質を持っています。その部分はゼロとして相殺し、残った部分がその人の特徴であり個性として他人へと伝わります。よって、もし他人と違うところを自己否定すれば、その人は「無個性」になっていきます。
 「無個性」な全体主義のなかに溶け込めば、安心だと考える人もいるかもしれません。しかしそれは、他とはちがう“確実に自分自身だ”という「自己の存在証明」が消えてしまうことを意味します。この「無個性」な全体主義への埋没は自己逃避であり、その意味では「個性の身投げ」ということも出来ます。安心と引き換えに個性という「自己の存在証明」を放棄するわけですから。
 「無個性」の全体主義は、古来、神話や文学が「虚無」や「暗黒」というイメージを使ってメタファー化してきました。人間は「個」を守り、そこへエネルギーを注ぎ続けなければ「虚無」(或いはエントロピー)へ傾いてしまう。「個性」とは「全体」との“違い”であるとともに、「虚無的な負の安定」と「自己」とを“区別する力”を示すものです。無個性への流れを食い止めるためには、「個性」を守り、磨き続ける必要があります。そしてその活動自体が「個性」の性質そのものなのです。

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『平均と個有性』

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 「平均」とは合計を頭数で割ると出てくる値。たとえば5人が川から水を汲んできたとします。それを一端大きな容器にまとめて一つにする。そのあと5等分する。5人の水を平均化するためには一端は一つに融合しなければならない。この時点で個々の水の在り方や歴史は一度破壊されてしまう。さらにそれを等分するので、水を汲んできた人の個性も平坦化される。
 実際に水を等分するのは至難の業ですが、数量化すればあとは数字で等分するだけです。よって平均と数量化は切っても切れない関係にある。この数量化自体が、物事の個性をはく奪することであらわれる抽象概念です。リンゴが5個といってもそこに色や形、香りや味の違いは剥奪されてしまっている。つまり平均化は、数量化、融合、等分という三つの「固有性の剥奪」によって成立するものの見方です。
 この「固有性の剥奪」によって成立する平均概念は、目安としてとても便利です。平均を基準とすれば、平均値に合わせるよう加減するという舵取りが出来ます。しかしこの平均が物事の固有性を剥奪する限りにおいて見える概念であることを忘れて、平均を至上命令のごとく無批判に基準とすると問題が発生してしまいます。
 たとえば5人が平均して20リットルの水を川から汲んできたとします。しかしその内訳は個々人で18リットルだったり22リットルだったりする。人間には個性や条件、タイミングなどがあるので機械的にはいかない。しかし同じくらいの身体的な特徴や体力の5人であれば、日々の数値がちがっても、時間軸を伸ばしていけばだいたい同じ量の水を汲むことになっていきます。しかし、平均を至上命令とすれば、必ず毎回20リットルを汲むという掟が生まれます。この掟は現実を無視した非合理的なものです。
 全員が長期的には平均20リットルを汲むことが出来る。しかし毎日必ず20リットルを個々に課すと無理が生じ、疲れて能率が下がる人もでる。最後にはその作業を放棄する人もでる。欠員を新たに補充しても根本的なシステムが変わらない限り、同じ非能率の問題が起きる。平均的な基準によって個々の個性を無視することのデメリットが、計り知れない機会費用を発生させます。
 この非能率的な平均基準は数量化できるものだけに限りません。たとえば「世間」や「常識」といった集団心理の概念も平均値であり、それらが個々人に対して課せられることによって大きなデメリットを発生させます。昨今の心の病の問題は、これらの平均概念による非能率な基準が個々人を圧政していることが原因の一つだと考えられます。このように「固有性の剥奪」によって成立する平均基準が形骸化したのが現代の社会です。平均化されたものを「個」へと再還元する大きな力が、これからの社会には必ず必要となるはずです。

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『うかがいしれない世界』

古賀ヤスノリ イラスト

 デヴィッド・リンチ監督の映画はどれも「うかがいしれない世界」が描かれている。社会現象となった『ツインピークス』にしても『ロストハイウェイ』や『マルホランドドライブ』にしても、すべて日常では考えられないような「理解不能な世界」に足を踏み入れ、奇怪な現状に取りつかれていく有様が描かれています。
 この「うかがい知れない世界」は、まだ知らない世界であり、日常に対する非日常であり、その意味ではいまだ見ぬ可能性でもあります。「どうなるか分からない」という現代人がもっとも苦手とする世界。よって「うかがい知れない世界」を事前に把握して出かけることなど出来ないのです。
 未来の可能性を二つに分けて、一方を「良性の未来」、もう一方を「悪性の未来」と分類してみます。リンチが描く世界は明らかに「悪性の未来」、悪性の「うかがい知れない世界」です。リンチ映画の登場人物たちはそれをどこかで直観しつつも、その世界の魔力に惹かれて足を踏み入れていく。これは人間の無意識に潜む側面を描いているともいえます。
 ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1903年)という小説では、船乗りの主人公がジャングルという「うかがい知れない世界」を恐れつつも、段々と惹かれていく心理が、不気味な表現で描かれています。彼の旅の最終目的は、闇の奥で「うかがいしれない世界」と完全に同化した人物と出会うことなのです。「悪性の未来」の引力は時に、抗えない力で人間に大きな作用を及ぼすのです。
 さらに300年以上も前に書かれた、同じ船乗りが主人公の『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー)でも「うかがい知れない世界」の引力によって、安定した生活を投げ捨て冒険にでる様が描かれています。彼はそのおかげで何度も遭難し、無人島で暮らす羽目になる。しかし、そこで得た経験はかけがえのないものであり、「悪性の未来」とはい言い難い「逆説的な何か」が表現されています。
 先にあげた三人の芸術家は、それぞれのやり方で「うかがいしれない世界」の引力を描いています。このような引力に私は引かれない、そうみんな思っている。しかし全てが把握された決定論で進む現代人にとって、把握できないがゆえに「うかがいしれない世界」への耐性は弱いともいえます。私たちは隠された構造や、個人の力を超えた大きな力に対して「根本的な諦め」に陥ってはいないでしょうか。「正しくあろうとしても無駄」だと流されるままになってはいないでしょうか。それこそが「悪性の未来」に引かれている証拠であり、リンチやコンラッドが描いた奇怪で不気味な結末の入り口なのです。
 300年前にロビンソン・クルーソーが孤独な無人島で発見した真理があります。それはどんな状況下でも「決して諦めてはならない」ということなのです。

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