『やる気がでないとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 やる気が出ない。そんな時は何をやっても手につかない。心も弾まないのでつまらない。つまらないからさらにやる気がでない。このような状態になるとなかなか出口がみえない。そもそもやる気とは何なのか。やる気とは未来に関わることであり、今現在のことだけで構成されているものではない。未来ゆえに不確定な要素がまじっていて、そこが前向きに感じられることで初めてやる気もわいてくる。
 未来の不確定性を前向きに感ずることができるかどうか。ことばにすればややこしい。しかし映画をみたり、推理小説をよんだりするときは、先が知りたい、分からないから興味がわく、どんどんのめり込む。それは未来に対する期待が、知りたいという前向きな気持ちに繋がっている。つまり「未来への興味」が不確定性を前向きに感じる基盤だといえる。
 「未来への興味」がまだ分からない事を、前向きに感じさせる。もし未来にたいして興味がもてなかったら、むしろ恐れが先行して身構えてしまうことにもなる。本来の意味での未来とは、今現在とは全く違う世界を意味している。もし本当に現在の延長が未来であるならば、それは現在でしかない。未来とは現在と常に断絶して繋がっていない場所のことを言う。だからこそ興味もわくのである。未来を現在化すれば興味はわかない。
 これは時間の問題でもある。やる気の話しが時間と関わるなんて面倒だ。しかし関わっているのだから仕方がない。私たちは科学を前提とした決定論で物事を考える。ああすればこうなる。原因と結果をつなげて、結果のために原因を作り出そうとする。それは未来を現在化することである。すべては想定内の世界になる。つまりそこには「どうなるか分からない」という未来がない。そういった不確定なものは困る。把握できないものは怖い。
 物事を原因と結果で考えると、未来は現在化され興味がわかなくなる。不確定性を前向きに感じることがなくなる。すべては自分が考える因果の内側になる。安心だがやる気は出ない。このような因果の中からすると、やる気は「どうなるか分からない」という不確定な「恐れの領域」にしかないことになる。つまりやる気が出ないのではなく、やる気が出る場所を避けているのである。
 よくわからない所へ出るのは怖い。そこでなにかをするのは心配である。しかしそんな時に誰かが観ていてくれたら安心する。一緒にやってくれる人がいればそれも良い。「どうなるかわからない」というものは誰しも怖い側面がある。もちろん「先が知りたい」という興味はそんな怖さに裏打ちされたアンビバレントな興味でもある。ちょっとした矛盾のなかに楽しさや面白さがある。怖いという自分を見ていてあげる、もう一人の自分があらわれたら、未来は興味深いものになってくる。相反する自分が助け合うことで、矛盾を統合した未来の楽しさが見えてくる。やる気はそういった場所に芽生えるのである。

AUTOPOIESIS 103/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『損得が逆になるとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 私たちが何気に前提としている価値観。合理主義であったり成果主義であったりといったもの。それらは資本主義という大きなパラダイムが作り出すルールのようなものである。そのルールを守るうちは、非合理的なことはできない。よって非合理的なことを通過しなければ解決しないときに問題が起こる。
 では非合理的なときとは如何なるときか。たとえば自分が損をすることで相手が得をするようなとき。具体的に言えば、相手に自分のものを与えることで相手が助かるとき。これは合理主義から言えば受け入れられない。成果主義からいってもただの損になってしまう。いやそれは別ですよ、というかもしれない。しかし暗黙に資本主義を採用していると、自分でも気づかないうちに、他人の得は自分の損だと考えるようになる。
 損と得を相関させることで現れる世界がある。資本主義がそうである。しかし損と得が相関しない世界もある。人を助けることが物質的には損かもしれない。しかし相手にとって、あるいは自分にとっても心という視点で見れば得ではないか。そう考えると、人の心の世界は、むしろ物質とは逆の損得原理があるのかもしれない。
 成果主義にとらわれると、結果と原因の二つを相関させて考えるようになる。そして結果のためには「こうすべきだ」(原因)を相手の性質を無視して押し付けるようになる。この意味において、資本主義を基盤とした多様性の成立には限界があるともいえる。多様性とはお互いが尊重し合うことでしか成立しないからである。つまりお互いの損得が相関ない世界である。
 本来は相関しないはずのモノが相関し合う。その間に貨幣というものが入るとそうなる。貨幣は全く種類の違うもの同士を結びつけるマジックである。本当はただの紙や金属、あるいはただの数字である。これを幻想という人もいる。資本主義というルールは、貨幣によって全てを相関できると決めた限りでしか成立しないものである。その中では優しさといった非合理的なものが阻害されやすくなるのは当然であろう。
 私たちは学校などで道徳という概念を教わる。しかし社会にでると資本主義である。ここに大きな矛盾があり、心の病の問題とも関係が深い。資本主義というルールによる弊害が世界的に出てきている。どのようなシステムであれ、生命が関わる場合では必ず形骸化の問題が起こる。どこかで新しくするしかない
 刷新は歴史が自然に行ってくれる。人為的にパッと作れるものではない。変化の方向としては今までとは逆へ向かうのが常である。資本主義にとって非合理的だと思われていたものが、合理的になる。そうなるしかないからそうなる。これは誰にもとめられない。その原理が苦しい人は抵抗するかもしれない。しかし歴史と戦って勝てたものは誰もいないのである。

AUTOPOIESIS 102/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『矛盾の統合』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 他人からまったく影響を受けずに、何かをゼロから作りだすことは出来ない。オリジナルなものを作る時でさえ、その要素や着想は必ず「すでにあるもの」である。それは自然のものや人工物、あるいは他人が作ったものである。
 それではオリジナルではないではないか。そういう人もあるかもしれない。しかしそうとも言えない。創作の世界で言われるオリジナルとは、発想やアイデアであり、それは物質的な見た目ではなく精神的なもの、思想的なものを指している。よって表面的には似ているが、それぞれがオリジナルであるという場合も発生する。また逆に表面的には違うが、着想やアイデアがほぼ同じということもある。
 人がただ生きるだけではなく、何か自分のものを作ろうとすれば、必ず「すでにあるもの」から素材やアイデアを集めることになる。そして集めたものを自分の感性で再構成していく。そこに自分の経験や考え方などを上手く反映できればオリジナルな作品になっていく。ここには「自分以外のもので自分のものを作る」という矛盾がある。その矛盾を統合するプロセスが創造である。
 自分以外のもので自分のものを作る。これは矛盾である。この矛盾から起こる葛藤との戦いが芸術である。その闘い方に個性がでる。もし他の影響を恐れ、出来るだけ自分の内側にあるものだけで作ろうとすればどうか。ラクで想定内のものが出来はするが、そこには矛盾も葛藤との戦いもない。綺麗であるが芸術ではない、という作品はそういったものである場合が多い。
 戦いや葛藤といったエネルギーなど微塵も表に見えない芸術もある。まさに凪のような静けさをたたえた名画である。しかしそれらも強力な「抑制という葛藤」のもとに作られている。オリジナリティは表面ではなく内面にある「矛盾の統合」とその闘い方によって発揮される。
 葛藤は内的矛盾から生まれる。これはある意味でストレスを伴う。ゆえに戦いである。創作にはこのような葛藤との戦いが必要な時が必ず来る。安定したスタイルでノーストレスで作品を量産する。それは充実した時期である。しかし必ず飽和に達する時がくる。その飽和の壁を破るには、矛盾となる「次の要素」を受け入れ「新しい統合」を目指すしかない。
 同じことの繰り返しは必ず飽和に達する。部屋もパソコンも放っておくと必ず散らかる。それは人間の心や生き方も同じことである。その散らかりを一挙に相殺するのが「矛盾の統合」である。自分自身がオリジナルであるためには、他者(あるいは異物)を他者として受け入れ、内的葛藤を統合しなければならない。つまり自分自身をしっかりと維持する手立ては、「矛盾の統合」という芸術的な創造以外にはないのである。

AUTOPOIESIS 101/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『繭のなかの擬似現実』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人はそれぞれに価値観を持っている。その価値観は共有されることもあり、また共有されないこともある。個々の主観的な世界観は、人々に共通の客観的な世界とは違うからである。
 もし自分の価値観だけを肯定し、それに当てはまらない価値観をすべて否定してしまえばどうか。客観的には自分とまったく考えの違う人がたくさん存在している。にもかかわらず、自分の世界では否定され消し去られてしまう。これは怖いことではないか。
 お互いの価値観や世界観は独立している。ゆえに客観的な世界を認識することによって、初めてお互いの世界観が共有できるようになる。物を投げれば落下する。太陽は沈んでまた昇る。共有化できる客観世界(現実)は無数にあり、自分と違う価値観を持った人が存在することもまた客観的な事実である。
 もし自分の価値観だけを肯定し、それ以外をすべて否定して存在を認めないとすればどうか。それは主観の世界に入り込み、客観的な事実としての世界を見失っていることになる。「繭の中の擬似現実」では、自己だけが肯定され都合の悪いものは消し去られる。しかし、客観的な現実は動かし難く存在し、また個人の主観世界を包み込んでもいる。もし「繭の中の擬似現実」が、客観的な現実とあまりにもかけ離れていれば、必ず危機が訪れる。船が現実の客観的な地図を無視すればいつかは必ず座礁するだろう。
 現実の否定と繭の関係は、現実と想像力の関係に似ている。目の前にないものを見出すのが想像力。これはある意味で現実を否定したところに生まれる。しかし現実との対応関係を失った想像は「妄想」という病理学的な名で呼ばれる。繭の内側は「妄想のスクリーン」が張り巡らされている。そこに映るのは自分だけである。
 外部環境から遮断され、自己をあたため守る環境は、子供が成長する過程で必要なものである。ある意味では「繭の中の擬似現実」がなければ成長できない。このような子どもに必要な擬似現実を、臨床心理学の世界ではファンタジーと呼ぶ人もいる。しかし成長過程で繭の殻は捨てられる。ずっといると危険だからである。
 もし繭から出るタイミングを失うと、人は「繭の中の擬似現実」を客観的な現実と取り違えてしまう。都合のよいものしか見えなくなり、違う価値観は全て消し去られる。そして現実の世界を自分の世界へ強引に捻じ曲げるようにすらなる。ここが危険な世界への分岐点だと言える。そういった妄想への傾斜をくいとめ、自己を正しく補正してくれるのが客観的な事実認識なのである。

AUTOPOIESIS 100/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『自由と個人主義』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

  自由とは一般に、他に拘束されず自主的に選択したり行動したりすることを指す。「私は自由よ」ということですべて自分の思い通りに振る舞う。しかし、もしその人がなにかの感情に支配されて暴力を振るうとするとどうか。外から見るととても自由な振る舞いには見えない。
 自分以外からの拘束や操作を受けなくても、自分自身がある意味で「自分に支配されている」状態なら、やはりそれは自由とは呼べない。つまり自分をコントロールできて初めて自由と呼べる状態になる。それまでは不自由な状態であることを認めるしかない。
 現代は「個人主義」の時代である。なんでも個人が優先される。しかしこの「個人主義」も自由と同じく自分自身に支配されてしまうと、ただの「利己主義」に堕していく。人々が利己的になり我儘の限りを尽くせば、社会もおなじく堕落してしまう。結局それでは弱肉強食の世界ではないか。
 「個人主義」を成立させる社会を維持していくには、他者の「個人主義」も阻害してはならない。そうなると好き勝手できない領域が発生する。そこは抑制しなければならない。しかし我慢や抑制を「抑圧」と受け取れば反動が起こる。精神分析学の創始者フロイトは、このような「抑圧」が無意識を作るという。だから意識に反して人は無意識的に「やってしまう」のだ。
 好き勝手主義である「利己主義」を社会的に修正したところに「個人主義」が成立する。それは簡単に言えば他者を尊重するということだ。しかしこれは自分が我慢しなければならないので不利益ではないか。そう感じる人が「嫌な我慢」という「抑圧」への抵抗を示す。放っておくと大きくなり反社会的なものへと発展する。
 フロイトは「抑制こそが文化である」と言う。そしてその反動が起こるとも。なぜなら文化を獲得するまでは、人間は「動物的」だからである。動物の利益に反する抑制を受け入れる。これは動物的な矛盾であろう。しかしその矛盾を超えた所に「個人主義」も文化もある。
 自由とは自分のみならず他人の自由を阻害しない状態で成立する。誰もいない宇宙で好き勝手に振舞っても、自由もなにもないではないか。やはり水を受け入れて初めて自由に泳げるように、他者を阻害せず受け入れることで自由が成立する。
 何でもありは自由に非ず。真に自由に振る舞うための抑制を備えてこそ、無意識の暴走に支配されない「文化的な自由」=「個人主義」も成立する。現代人は自己との戦いを避けるために抑制(我慢)すべきところを誤ってはいないか。だからこそ無意識の暴走に見舞われるのではないか。自分のためにこそ自分を抑える。この矛盾を超えたエネルギーは「勇気」によって生まれるのではないだろうか。

AUTOPOIESIS 0099/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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