『創造的なズレ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描き終わって出来たモノが気に入らない。そういったことは良く起こります。描き始めの出発点から、目指す方向は自分で決めている。かりに無計画に描き始めても、やはりどこかで自分で決めた方向性に従っている。なのに終着点が気に入らない。なぜこのような事が起こるのでしょうか。
 描きたいもの(目標)へ描き進むも、技術的な問題で目標からズレてしまうことがあります。しかし技術によるズレは本質的なズレとまでは言えません。むしろ方向の「迷い」のほうが本質的なズレを大きくします。たとえば目的も参考にするモチーフも無く描き始めると、「迷い」の連続になってしまう。あるいは先立つ計画があっても途中で計画を根本的に変えたくなる。これも「迷い」です。
 もし写真や実物をそっくりに描くだけなら出発点と終着点のズレは起こりません。もちろん迷いもない。ただ技術的なズレが発生するだけです。しかし、自分の絵を描こうとすれば、それは「創造の領域」に関わることなので、ズレの可能性も大きくなる。いや、そのズレの可能性の中にこそ「自分にとっての新しい何か」がある。
 既成のものをコピーするだけなら、そこにズレや「迷い」の心配はありません。出来たものが気に入らないという心配もない。しかし何か「自分にとっての新しいもの」を作りたいと思えば、ズレの可能性を受け入れる必要があります。つまり「自分の思い通りにいかない世界」を許容しなければならない。そして毎回生まれるズレに注目して修正を続けることで、理想の状態へ近づいていく。
 当然ながらズレが発生するという前提があってはじめて修正の概念も出来てきます。出発点と終着点のズレを許容できなければ、修正とうい概念も受け入れられなくなり、新しいことに挑戦できなくなってしまいます。ただ既成のコピーを繰り返し、既にあるものに従うだけです。
 気に入らないものができる。それは自分が「新しいことに挑戦している」証拠です。創造は一日にしてならず。常に挑戦を続けズレを分析し、あるいは直感し、次の作品に活かしながら理想へと無限に近づいていく。結果よりもその行為自体が、創造の本質です。創造的な「人間」とは本来そのようなものです。「創造的なズレ」を前提とすれば、必ず部分的に気に入った所も浮かび上がります。どれだけ小さくとも、それさえあれば創造としてはまずまず成功だと言えるのです。

AUTOPOIESIS 115/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『本能を超えて』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「自分らしく」という言葉がいろいろな所で使われています。これは社会がつくりだす「閉塞感」への抵抗を人々が感じでいるからだと考えられます。この「閉塞感」は、社会の画一化や一般化、あるいは平均化が作り出すものです。もし人間に個性というものがあれば、そのようなもに対する抵抗感は、当然おこる健全な反応でしょう。
 例えばアリや蝶は個性を主張しません。全ては種の保存のプログラムに従っていて、同じ環境下で画一化した行動を繰り返します。これは機械のように正確です。もしアリが個々に「自分らしさ」を追求し個性を発揮すれば、アリの行列は乱れそれぞれが一人旅に出はじめる。あるいは種の保存とは関係のない飛び方をする独創的な蝶が現れるかもしれません。
 人間はアリや蝶のように行動が本能によって、完全に決められいるわけではありません。ある程度の自由が許されています。これは種の保存だけを目的とする本能優位の生物からすると「不完全な存在」です。ある意味で本能が不完全である。だから画一化や一般化、平均化に対しては、安心感とは裏腹に抵抗を感じるという矛盾をもつ。
 画一化への安心感は、アリや蝶と同じレベルでの生物の本能が働いているときです。これは人間にもあります。しかし画一化への抵抗は他の動物が持っていない、本能から自由な「精神」が感じるものです。人間には動物的な本能のレベルと、より高次の精神のレベルの二つが積み重なって存在しています。そして本能が優位な時は保守的になり、精神が優位なときは革新的になります。
 画一化へ感じる閉塞感は、本能の上にある精神レベルの反応です。自分らしくありたいという「個性への欲求」は、アリが行列を離れ「自分の目的」を持って歩き、蝶が「自分のために」飛ぶことを意味します。本能に従うアリや蝶たちは、脱線したアリや蝶をみて無意味な行動だと思うでしょう。だからこそ本能(保守)から出られない。常に一つ上のレベルは、今現在と逆の価値体系になっているのです。
 アリが自分の道を歩む。そして蝶が自分らしく飛ぶ。しかしそのことで自分が危機に瀕するのなら本末転倒です。なので本能のレベルも無視できない。本能レベルと精神レベルが上手く統合する地点こそが高次のレベル、つまり人間のレベルです。本能からの支配、あるいは画一化からの反動ではなく、真にそういったものから「解放」されるならば、自由意思で行列に「自分らしく」参加するこも可能です。そして蝶は「自分らしい飛び方」で、本能レベルをも満たし、新しい世界を生きることができるのです。

AUTOPOIESIS 114/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『心の中につくる』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 外的なところに何かをつくりだす。たとえば仕事や生活によって作り出されるもの。これらは日常の物理的な行為によって出来上がるものです。この外的な生産が重要なことは誰だって分かっています。これに対して内的な生産というものがあります。内的な生産とは「心の中に作り出す」ということです。それは物質ではないので「数」ではなく「質」の生産と言えるものです。
 内的な生産は心の中で作り出される「質」的なものであり数量化できません。よって数が増えるだけでは質的な変化がなく、停滞していることになります。心の中が同じものの繰り返しでは、何かを生産したことにはならない。これは同じ映像(絵)が繰り返し連続する状態と同じです。内的な心の生産は「繰り返しのない連続性」によって作り出されるものです。
 内的な心の生産は、物質的な生産の原理とはまったく違う原理で動いています。それは数量化できず、また繰り返しはカウントされず停滞を意味します。心の生産は「質的な変化」の連続によって初めて成立する。そのような非物質的な心の世界に「生産」できるものは、イメージだけです。この心の中のイメージは寝ているときの夢にも現れるし、現実の行動にも影響を与えます。
 夢の中では荒唐無稽でありえないことが良く起こります。物理的な日常を超越している。それはイメージの次元だからこそ可能なものです。しかし現実における閃きや発想(まだないものを見る力)も、この心的なレベルにおけるイメージの生産力と大きな関係があります。内的イメージの生産力と現実の発想力との関係に比べれば、言語による発想への関与は二次的なものです。
 現実の世界でも行為の繰り返しが続けば、どんどん機械的になりルーティン化していきます。物質生産ならそれが一番効率的です。しかし心はそれに耐えられない。なぜなら心の機能そのものが「変化の連続性」を原理としているからです。よって物質生産の効率性に心を合わせ過ぎると、心の機能は停止することになります。つまり内的な心の生産も止まる。そうなるとルーティンから脱出する発想が浮かばなくなり、さらにそこから出られなくなります。
 外的な生産と内的な生産は、片方だけが優位になるともう片方を阻害してしまう。なのでバランスをとる必要があります。物理的なものは生活に繋がるので、誰もが十分に生産できています。しかしそれがルーティン化すると心的な生産を阻害してしまう。心の生産を効率よく行うには、視覚的な芸術が最も適しています。さらに現実の生産という模写(模倣)ではない、心のイメージを活かした現実的表現が効果的です。外的な生産が飽和に達した現代においては、心の中にこそ内的な生産が必要なのです。

AUTOPOIESIS 113/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『技術と心』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 技術とは物理的な操作のこと。もっと言えば「原因と結果」を直線的に繋げることで現れるものです。ああすれば必ずこうなる。パターンなので機械にもインプットできます。よって技術それ自体は人間の心とは切り離されて存在します。もし心と繋がっていたら、機械が真似ることはできないでしょう。
 しかしそのような技術も、最初は人間の心と繋がった形で出来てきます。ああしてみたい、こうしたいという気持ちが、実験と模索を繰り返していく。そして行為が段々と洗練さて効率的になる。そして一つの技術が完成していく。この一連のプロセスと心は密接に関係しています。しかし一旦パターン化して技術が出来上がり、それに従うようになると心との関係は切れてしまう。
 技術は「行為の法則」であり、パターンであるが故に誰がまねても同じ結果が現れます。個人の心と関係が切れているからこそ、それが可能である。つまり技術それ自体は無個性です。「原因と結果」という科学的な因果法則の間に心が入る余地はありません。操作的な行為はつねに心との関係が切れてしまう。
 これらのことから、技術だけで絵を描けば(ものを作れば)無個性なものができることは明らかです。技術を使いつつ自分の心を関係させるには、技術に対して従属的になってはいけない。行為が常に「新しい技術の生産」でなけれらならないのです。つまり同じことの繰り返しではなく、一回性の体験(行為)であることが重要なのです。
 同じことの繰り返しではない、一回性の体験。それは「後戻り」も「次の機会」もないという「正常な時の流れ」に従う、ということでもあります。デジタルの世界は「後戻り」も「次の機会」もある。しかし現実の世界は、厳密な意味において同じことは二度と起こりません。そして心という機能はこの一回性の時間の流れと深い関係がある。
 時が止まれば心も止まる。心が止まればもちろん技術(行為)と心は関係できない。そうなれば結果も心と関係しないものとなります。これは空虚です。機械的な反復は大量生産を可能にする反面「無個性」という代償がある。ここにはパターン化した技術(或いは知識)だけを習得する代償としての「心の喪失」という問題があります。生きた技術の復活こそが、喪失した心の復活にも繋がるのです。

AUTOPOIESIS 112/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『人はなぜ創るのか』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人は何かを創らざるを得ない存在である。たとえばアリは巣を作る。あるいはビーバーはダムを作る。これは遺伝子に組み込まれたコード(本能)に従う関係から、一種の機械的な行為と見ることもできます。それほど動物は本能に忠実に行動する。
 人間も原始時代から道具や住居など、動物と同じく生活に必要なものを作っています。しかしいつ頃からか生きることに必要ない非実用的なものを作るようになる。考古学の出土品には動物をかたどった彫刻などがあります。これは生きることだけを考えれば不必要です。アリもビーバーもそんなものは作りません。しかし人間は「それ」を作らざるを得なくて作っている。
 人間には、他の動物と違う精神という機能を持っています。これは他の動物が持っていない脳の余剰から生まれるものです。つまり本能による生存だけを目的とした「すべてをコード化された動物」とは次元の違う存在であるということです。本能からある程度の自由があるからこそ、精神が機能して非実用的なものを自由に作り出すことができる。
 考古学的な彫刻は、生きることよりも精神の安定のために作られたと考えられます。もちろん人間が集団で社会生活を始めたことと大いに関係がある。原始的な状態に対する文化とは、ある種の「反生存」(反本能)を許容することによって作り出されるのです。
 人間は精神を持っているがゆえに、他の動物のようにただ本能に従っているだけでは安定しない生き物です。よって、生存とは関係のない「精神と関係あるもの」を作らなければならない。それは非実用的なもの、つまり芸術です。いくら物質的に豊かでも、生存が保障されていても、何かを創り出すことなしに精神の安定はありえないのです。
 その意味では、人類のなかで取り残されずに進化するのは、本能に支配されず非実用に価値を見だせるタイプ。芸術を創り出すタイプだと考えられます。ただ生きているだけでは納得に行き着かない。あるいは何かを作り出したいという人は、潜在的にそのタイプであることを示しています。ただ生きる(本能)だけで満足できないという郷愁の対価として、未来の可能性を手にしているのです。

AUTOPOIESIS 111/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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