『キツネと葡萄①』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 たたわわに実った葡萄。それを発見したキツネは葡萄を取ろうとする。しかし木が高すぎてどうしても届かない。そして最後にキツネはこう考える。「あの葡萄はすっぱくて食べられない」と。そしてその場から立ち去ってしまう。これはイソップの有名な話しですが、自分の力の無さを正当化する話として一般化しています。つまりキツネは現実を受け入れられず、自尊心を守るために自分が作り出した幻想(物語)に逃げ込んだのです。
 キツネは葡萄が欲しかった。しかしどうしても葡萄をとる力が無かった。その事実を受け入れることは自分が負けた(あるいは損をした)ことを認めることになる。自分の力不足で自分が負けたことを認めたくない。そこで葡萄の価値を低める。相手を低く見ることで、相対的に自分を高めて防衛する。このような自己防衛の手段は、何かに対して乗り越える自信がないときにもなされます。あんなものに価値はないと。
 イソップのキツネに見られる「価値の転倒」は、哲学者ニーチェが指摘した「ルサンチマン」という概念とおなじものです。葡萄に対するキツネのように、ローマ人に対するユダヤ人の「価値の転倒」が、キリスト教を作り出したとニーチェは言います。ならばイソップのキツネが作り出した幻想(価値の転倒)は、ある意味では宗教的なものかもしれません。葡萄をとることが出来ないと分かった瞬間、キツネは救済を必要とする存在になってしまった。当然、幻想に救済を求めている間は、葡萄を獲得する知恵を磨き、自己を鍛えなおすことはありません。ではいったい、どのように考えればキツネは葡萄を手にすることが出来るのでしょうか。

AUTOPOIESIS 128/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『確率論のパラドクス』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 赤と黒のルーレットで、赤が5回続けて出る確率はしばしばある。でも100回続くことは生きているうちにはなさそうです。1000回続く確率はほとんど無いと言えるほどに低いでしょう。しかし、もし仮に999回赤が続いて、次にも赤がでる確率といえば、やはり50%ということになる。1000回続く確率がほぼないに等しいのに、次に赤が出る確率は50%。ここに確率論のパラドクスがあります。
 人は知らぬ間に確率でものを考えるようになっています。そうして先を予測しながら生活している。ある程度あたる確率を採用(あるいは低い確率を無視)している。いや、採用した確率が「あたるように生きている」と言ってもいいかもしれません。赤だけ10回は続きにくい。100回はほぼありえない。確かに。しかし目の前のチャンスである「次の一回」だけに絞れば、100回の確率に支配されない次元が広がっています。思った以上に確率は高い。個別的な事例を大きな確率論から切り離すことで、チャンスは自分のものになる。
 ちょっとややこしい言い方だったかもしれません。とにかく一般的に出来上がっている「確率的な常識」は、個人の確率にはあてはまならないということです。この一般的な確率論から自分を切り離すことで、それまでありそうもなかった「成功の確率」が格段に上がるのことになります。
 確率論そのものは強力で、まとまった情報をたよりにすれば“まとまった結果”が予測できます。でも、個別事例に対してはあまり役に立たない。その意味では個人の自由とは「一般化した確率論」(常識)に支配されないということなのかもしれません。個々人のチャンスは、諦める理由が見つからないほどに可能性に満ちているのです。

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『カントの想像力』

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 人間は動物である。しかしほかの動物とはちがい随分と進化してきました。最初は単細胞生物(たとえばアメーバー)のような、外部に反応するしかない存在だった。そこから原始的な動物に進化して、脳が大きくなるとともに道具の発明や計画的な思考ができるようになった。そこからさらに長い時間をかけて、現在のような高度な文明を築きあげる存在へと進化しました。
 動物の世界は弱肉強食の世界。それは「食うか食われるか」の二択の世界であり「食うでも食われるでもない」という中間の状態がありません。つまり野放しの「自然状態」には基本的に中間の状態(中間の維持)がなく、つねにどちらかに向かうしかありません。「自然状態は常に二極化する」ということです。
 高度に発達した人間でも、考えることや社会を安定させるという目標を忘れると、すぐに「自然状態」となり中間を維持することができなくなります。つまり弱肉強食の世界に堕ちてしまう。そもそも人間は動物であり、動物は生きるための生存本能としての「攻撃の欲求」を備えています。高度な社会においてもそういった「攻撃の欲求」がいろいろな所で抑えきれずに噴出する。武力というものはその象徴であるし、戦争は人間が「自然状態」に堕した印です。
 戦争抑止の指標が「平和」です。完全な平和はありえないけど限りなくそこへ近づく努力が戦争を抑止する。この「平和」とは「食うでも食われるでもない」中間を維持する状態です。そしてこれは「自然状態」(ある意味で現実)にはなく「想像力」によってしか作りえないものです。現在の国連の理念を作った哲学者のイマヌエル・カントは、お互いの武力をより「高次の組織」に譲渡していくことで永久的な平和状態を作ると考えました。この「高次の組織」も二極化の「自然状態」にはなく、想像力によって維持される中間項です。その平和理念に反する行為が、人間にしか備わっていない「想像力」を失った「原始性に堕した状態」であることは言うまでもありません。「想像力」による「原始性の打破」こそが平和維持と人間進化のプロセスそのものなのです。

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『コーヒー&シガレッツ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 初期から現在に至るまで、良質な作品を撮り続けるジム・ジャームッシュ監督の11篇オムニバス映画。1話10分程度で全篇モノクローム。話の繋がりはないが、タイトルが示すとおり、コーヒーとタバコが一つのテーマとなっている。それ以外でほぼ共通するのはテーブルに見られるチェス版のような白黒の格子模様。しかしそれらの共通項がストーリーの独立性を阻害することはない。
 どのストーリーも対話(チェス)が基軸となり、会話の内容は取るに足らないものばかり。しかしこの無内容さ自体を対象化したスタイルは、ジャームッシュお得意のシュールな“間”の秘密でもある。無意味さが無色(モノクローム)で統一されることで、全篇をとうして情緒を排したナンセンスな構造が維持されている。つまり一般的な対話(物語)の「情緒的な完結」が巧みにかわされているのだ。
 完結を巧みにかわす。未完成なありかたは、11話すべてにみられる対話の「すれ違い」に凝縮してあらわれる。この「すれ違い」は文化的、趣味的、人種的、思わく的な前提の違いからおこる。取りとめのない会話と「すれ違い」の間、そしてその「すれ違い」こそがチェスのように新たな対話を生むキッカケであることに気づく。それらすべてをカフェ的な軽さで描いた、ジャームッシュのデッサン的な秀作。

050「コーヒー&シガレッツ」 2003年 アメリカ 監督:ジム・ジャームッシュ

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『悪について』 

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
(創造できないひとは破壊することを望む)エーリッヒ・フロム

 エーリッヒ・フロムには世界中で読まれている『愛するということ』という、人間の愛する能力について書かれた名著があります。その『愛するということ』と対をなすとフロム自身が述べているのがこの『悪について』です。つまり愛する能力は善的な能力であり、それは「悪を理解したものの力」であるということです。この本では人間が「悪に向かう原理」と「善に向かう原理」が分析されています。実際によむと『愛するということ』を補完する内容になっていて、むしろこの『悪について』を読むことで『愛するということ』の本質がさらに理解できます。
 フロムは悪が発生する条件を、死への愛(ネクロフィリア)、悪性のナルシシズム、そして近親相姦的共生として、それら三つが組み合わさることで「衰退のシンドローム」が形成されると述べています。この逆にあるのが、生への愛(バイオフィリア)、良性のナルシシズム(ナルシシズムの克服)、そして独立心です。これらが組み合わさると「成長のシンドローム」を形成する。この相反する方向性は相関していて、どちらかへ向かうしかないということです。
 死への愛(ネクロフィリア)の特徴は、未来よりも過去、自由より規則、生物よりも無生物(動かないもの)に執着する。支配や権力(あるいは権力への服従)を好み、所有することでしか世界と繋がれない。機械的、組織的、数量的、操作的、消費的である。悪性のナルシシズムは、自己肥大化により自分しかみておらず、自分に関わることだけを過大評価し、それ以外を過小評価する。そして一切の正当な批判を受け付けない。集団化して「集団的ナルシシズム」を形成し、外に敵をみだし憎むようになる。近親相姦的共生は、母親への精神的な固着であり、独立心や自主性が弱体化した状態。それは母親への愛と保護の切望である反面、恐れの表現でもあるとフロムはいいます。これら三つが組み合わさると「衰退のシンドローム」が形成され、人を破壊のために破壊、憎悪のための憎悪にかりたてる。これがまさに悪です。
 このような「衰退のシンドローム」に陥らない方法が、生への愛(バイオフィリア)、ナルシシズムの克服(良性のナルシシズム)、そして独立心を発達させ、「成長のシンドローム」を形成することです。日々、バイオフィリア的な人や環境と関わり、創造や挑戦を続け、一体化(或いは群れ化)ではなく、自立した自己生産によって人間の証しである不安を克服していく。集団的ナルシシズムは知性的、芸術的なものの生産を目的とすれば、その現実的な創造プロセスによって抑制されるとフロムは述べています。
 悪の条件は特別なものではなく、人間がもつ性質の一側面であり、それが肥大化したものです。その傾向を抑え続ける努力をおこたると、誰もが「衰退のシンドローム」を形成する。それが集団化すればそこから出られなくなる。私たちは生きたものに触れ、それを愛し“独立した個人”同士が社会を形成し、全体として知性や芸術の枝葉を伸ば続けていかなければならない。エーリッヒ・フロムの『悪について』は「善と悪の原理」を宗教とは別次元にある精神分析学によって解き明かした、今こそ読まれるべき名著なのです。

029『悪について』エーリッヒ・フロム : Originally published in 1964

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