『コーヒー&シガレッツ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 初期から現在に至るまで、良質な作品を撮り続けるジム・ジャームッシュ監督の11篇オムニバス映画。1話10分程度で全篇モノクローム。話の繋がりはないが、タイトルが示すとおり、コーヒーとタバコが一つのテーマとなっている。それ以外でほぼ共通するのはテーブルに見られるチェス版のような白黒の格子模様。しかしそれらの共通項がストーリーの独立性を阻害することはない。
 どのストーリーも対話(チェス)が基軸となり、会話の内容は取るに足らないものばかり。しかしこの無内容さ自体を対象化したスタイルは、ジャームッシュお得意のシュールな“間”の秘密でもある。無意味さが無色(モノクローム)で統一されることで、全篇をとうして情緒を排したナンセンスな構造が維持されている。つまり一般的な対話(物語)の「情緒的な完結」が巧みにかわされているのだ。
 完結を巧みにかわす。未完成なありかたは、11話すべてにみられる対話の「すれ違い」に凝縮してあらわれる。この「すれ違い」は文化的、趣味的、人種的、思わく的な前提の違いからおこる。取りとめのない会話と「すれ違い」の間、そしてその「すれ違い」こそがチェスのように新たな対話を生むキッカケであることに気づく。それらすべてをカフェ的な軽さで描いた、ジャームッシュのデッサン的な秀作。

050「コーヒー&シガレッツ」 2003年 アメリカ 監督:ジム・ジャームッシュ

AUTOPOIESIS 125/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『悪について』 

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
(創造できないひとは破壊することを望む)エーリッヒ・フロム

 エーリッヒ・フロムには世界中で読まれている『愛するということ』という、人間の愛する能力について書かれた名著があります。その『愛するということ』と対をなすとフロム自身が述べているのがこの『悪について』です。つまり愛する能力は善的な能力であり、それは「悪を理解したものの力」であるということです。この本では人間が「悪に向かう原理」と「善に向かう原理」が分析されています。実際によむと『愛するということ』を補完する内容になっていて、むしろこの『悪について』を読むことで『愛するということ』の本質がさらに理解できます。
 フロムは悪が発生する条件を、死への愛(ネクロフィリア)、悪性のナルシシズム、そして近親相姦的共生として、それら三つが組み合わさることで「衰退のシンドローム」が形成されると述べています。この逆にあるのが、生への愛(バイオフィリア)、良性のナルシシズム(ナルシシズムの克服)、そして独立心です。これらが組み合わさると「成長のシンドローム」を形成する。この相反する方向性は相関していて、どちらかへ向かうしかないということです。
 死への愛(ネクロフィリア)の特徴は、未来よりも過去、自由より規則、生物よりも無生物(動かないもの)に執着する。支配や権力(あるいは権力への服従)を好み、所有することでしか世界と繋がれない。機械的、組織的、数量的、操作的、消費的である。悪性のナルシシズムは、自己肥大化により自分しかみておらず、自分に関わることだけを過大評価し、それ以外を過小評価する。そして一切の正当な批判を受け付けない。集団化して「集団的ナルシシズム」を形成し、外に敵をみだし憎むようになる。近親相姦的共生は、母親への精神的な固着であり、独立心や自主性が弱体化した状態。それは母親への愛と保護の切望である反面、恐れの表現でもあるとフロムはいいます。これら三つが組み合わさると「衰退のシンドローム」が形成され、人を破壊のために破壊、憎悪のための憎悪にかりたてる。これがまさに悪です。
 このような「衰退のシンドローム」に陥らない方法が、生への愛(バイオフィリア)、ナルシシズムの克服(良性のナルシシズム)、そして独立心を発達させ、「成長のシンドローム」を形成することです。日々、バイオフィリア的な人や環境と関わり、創造や挑戦を続け、一体化(或いは群れ化)ではなく、自立した自己生産によって人間の証しである不安を克服していく。集団的ナルシシズムは知性的、芸術的なものの生産を目的とすれば、その現実的な創造プロセスによって抑制されるとフロムは述べています。
 悪の条件は特別なものではなく、人間がもつ性質の一側面であり、それが肥大化したものです。その傾向を抑え続ける努力をおこたると、誰もが「衰退のシンドローム」を形成する。それが集団化すればそこから出られなくなる。私たちは生きたものに触れ、それを愛し“独立した個人”同士が社会を形成し、全体として知性や芸術の枝葉を伸ば続けていかなければならない。エーリッヒ・フロムの『悪について』は「善と悪の原理」を宗教とは別次元にある精神分析学によって解き明かした、今こそ読まれるべき名著なのです。

029『悪について』エーリッヒ・フロム : Originally published in 1964

AUTOPOIESIS 124/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『ナルキッソス②』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 水面に映る自分にみとれて湖に沈んだナルキッソス。彼は世界が自分だけで満たされてしまい現実を見失ったのでした。それは理性や客観性が損なわれた状態、ゆえに主観的には絶対的な高揚感に満たされていた。自分に関わることはすべて過大評価され、それ以外のものはすべて過小評価される。当然ながら自分を批判する意見は、それが正当であったとしても受け入れられない。それらは全て自分への攻撃と感じられ腹を立ててしまう。
 ナルシシズムに支配された人が正当な批判にたいして、過剰に反発するのはなぜか。それは自己肥大化が「恐れから逃れる方法」であり、肥大化した自己に対する批判はその方法を脅かすものだからです。つまり正当な意見や自分の失敗を受け入れることが、最も自分が恐れるものへ繋がっている。ゆえに誤った舵取りを修正することができない。このパラドクスの構造は危機的です。
 自分自身だけを強く見続けようとすることは、恐れから逃れるための最終手段です。恐れを抱けば抱くほど自分を肥大化させ続けることになる。そしてそういった行為に対する意見は全てはねのける。すると恐れから(一時的に)逃れられる。しかしその代償として現実との接点を失ってしまう。現実的に自分自身をチェックする状態が損なわれると、あとは行き着くところまで行ってしまいます。
 ナルシシズムには良性と悪性とがある。この二つを分類したエーリッヒ・フロムは、ナルシスティックではあるが創造的な人間がいることを指摘し、その条件として「自己チェック」が可能であることを挙げています。現実において「自分が創り出したもの」に関心を持つこと。このセルフチェックによって良性のナルシシズムが発動する。悪性のナルシシズムの場合は自分に見とれるだけで、作り出すものにまったく関心がなく、セルフチェックもないのです。
 もし水面に映る自分に見とれていたナルキッソスが、水面の自分から目をそらし、現実の世界で何かを作ってみたとすれば、あるいは自分自身にはっと気づくことが出来たのかもしれないのです。

AUTOPOIESIS 123/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『ナルキッソス①』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 数あるギリシャ神話のなかでもナルキッソスの話しは特に有名です。結末としては水面に映る自分の姿に見とれて溺れ死ぬというもの。この物語をもとにしてフロイトが名づけた「ナルシシズム」という言葉は、今では「ナルシスト」として一般化しています。フロイトが発見した心の病の根源でもある「自己愛」という状態に「ナルシシズム」という言葉をあてたことろはさすがとしか言いようがなく、その構造と結末を見事に表しています。
 フロイトが言うナルシシズムの状態は、幼児期の状態であり、それは絶対的な自己満足の状態です。その究極の状態が、子宮のなかの胎児であり、そこでは絶対的ナルシシズムの状態にある。人間はそこから一歩踏み出し、変化する外的な世界を許容するとともに、ナルシシズムの状態はうち破られていく。そして自己に向いていた心的エネルギーを「外部の興味」へと向ける。これが健全な発達過程とナルシシズムの減退です。
 しかし不安や恐れなどの原因によって、外部へと向けられるはずの心的エネルギーが自分自身へ向かえば、そのエネルギーは外へ出て行かずに自己肥大化を起こす。胎児的な絶対的ナルシシズムの状態は、外部がない状態であり、だからこそ外の不安や恐れから身を守るために自己を肥大化させる。世界が自分なら不安も恐れもないわけです。しかしナルキッソスは最後には溺れてしまう。なぜなら現実が見えなくなっていたからです。
 不安や恐れのために自己を肥大化させ、自分を現実の替わりにする。そういった自分だけの世界では、自分に関わることだけが過大に評価され、それ以外のものはすべて劣等となります。さらに自分の失敗や外部からの正当な批判を受け入れることができなくなる。そのことが自己修正を不可能なものにしています。このような構造が出来上がってしまった後に、状況を改善することは可能なのか。我に見とれて沈みゆくナルキッソスを救う方法はあるのでしょうか。

AUTOPOIESIS 122/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『バイオフィリア』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 生きものに対する興味、あるいは草花に対する愛情。そういった「生を愛する傾向性」を、社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「バイオフィリア」と呼びました。「バイオフィリア」は生命を守り死とたたかう性質であり、この方向性にあるものは、物理的にも精神的にも生き生きとして豊かなものになっていく。
 「バイオフィリア」に対して、その逆にある傾向性を「ネクロフィリア」と呼び、フロムは「死を愛する傾向性」と定義しています。これは生きたものを停止させ、支配(所有)する。そして全てを枯れたものへ変えてしまう。「バイオフィリア」とは完全に逆ですが、本人はその傾向に気づいていない場合が多いといいます。
 この「バイオフィリア」と「ネクロフィリア」の二つの傾向は、誰もがもっているもので、人格としてどちらかが優位にある。とうぜん「バイオフィリア」を優位に保つ必要があります。「バイオフィリア」は生きたものへの関心だけでなく、現状維持よりも冒険を、部分だけでなく全体を、概要だけでなく構造を見る。そして自らの創造により、周囲に影響を与えていく。これが「バイオフィリア」の特徴です。
 この「バイオフィリア」の特徴を読んで気づいたことがあります。それは私が絵の教室でポイントにしている事とすべて一致しているということです。絵の教室なので絵が上手くなることが目的ですが、描くことでその人の人生が豊かになっていかないと勿体ない。そう思い考えた「描き方の原則」とフロムの「バイオフィリア」の定義が一致していたので、深く共感しました。
 「バイオフィリア」という生を愛する傾向は、生きているものにとって必要不可欠な要素で本来特別なことではありません。しかしフロムが指摘するところでは、社会が数量化と機械化、そして官僚化することで、人々が「ネクロフィリア」へと傾斜していく。昨今の異常な事件や人々の社会(あるいは他者)への無関心などはその一端です。つまり死の傾向性が多数を覆ってきている。よって相対的に「バイオフィリア」が育ちにくい環境になりつつありるのです。
 フロムは「バイオフィリア」の発生をうながす条件を、創造する自由、挑戦する自由、そしてそれらの自由のために責任をもつこと、としています。それらの要素は成果主義や官僚主義的な社会では許容されていません。しかし個人の芸術活動ならそれが可能です。自由な創造行為によって成長を続けることが、「ネクロフィリア」をおさえ、生を愛する「バイオフィリア」を優位に保つ最善の方法なのです。

AUTOPOIESIS 121/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

Scroll to top