『なぜ生きているのか』②

古賀ヤスノリ イラスト

 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、答えのない問である。よって問いに従って答えを探そうとすると、答えは見つからない。よって答えではなく「問い」をより良いものへ洗練させることで、そこに答えを見出す。これが前回見えてきたものの見方です。では一体どのようにして問いを洗練させればよいのか。
 そもそも洗練とは何か。洗練とは不必要な部分を削り取り、より完結で明確なものへ仕上げていくこと。それは部屋を綺麗に掃除するようなものです。埃やゴミなどの不必要な要素を捨てて、物質を用途に合わせて整理する。これに習い、問い中から不必要なものを排除して、機能に合わせて整理整頓すればよいわけです。
 まず「なんのために生きているのか」という問いに不必要なものはあるか。それを発見するためには、この問いのそもそもの意味を把握する必要があります。「生きている」とはいかなることか。この「生きている」には複数のレベルの意味が混在しています。生物的な意味、社会的な意味、そして個人的な意味などです。そして「なんのために」にもおなじ複数の意味が重複混在している。生物的、社会的、個人的な目的です。
 そこでまず、「なんのために」の前に「社会的」という言葉をつけてみます。「私は、“社会的な”何のために、生きているのだろうか?」。一見して前より複雑で分かりにくくなりましたが、掃除が完了する前は一度散らかるものです。先の問いを別の言い方で言うと、「私はいかなる社会的目的のために生きているのかしら?」となります。「社会的」を「個人的」に変えると、「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」となる。「なんのために生きているのか」という問いは、一見して明確なようで実は、このような複数の問いが重なっている。これは「なぜ生きているのか」という問いも同じです。よって問いの洗練に必要不可欠な作業は、「意味のレベル」を確定するということなのです。

AUTOPOIESIS 0072/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『なぜ生きているのか』①

古賀ヤスノリ イラスト

 なんのために生きているのか。自分に生きている意味はあるのか。このような問いを自分自身に投げかける時がある。早い人では小さいころにそれを考え始める。あるいは思春期に、あるいは大人になって目的を達成したあとに。「なぜ生きているか」といった根本的な問いは、一般に「答えの出ない問い」だと言われています。しかし問えるのであれば、やはり答えがあるのではないか。
 答えのない問いは「問い」なのか。いや、答えがあるからこそ問いがある。ただしその答えが一つでない場合もある。「なぜ生きているのか」という問いの答えは、直感的にいって一つではなさそうである。ハイデガーという哲学者が「問いの中には既に答えがある」という事を言っています。つまり答えが無意識にでも分かっているから「問い」を作ることが出来る。
 「問いは答え」だとすると、「なぜ生きているのか」という問いの中に答えがある。もしよくわからない場合は、問いの立て方に問題があるのかもしれない。評論家の小林秀雄は「上手い問いを作ればそこに答えがある」と言っています。やはり問いと答えは表裏一体であり「綺麗な問いは答えである」と言えそうです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「どのように生きるべきか」。このような根本的な問いの答えは、答えを発見しようとすると出てこない。「答え」ではなく「問い」の方を洗練させていく。つまり答えとなりうる「綺麗な問い」を探す。ちょっと分かりにくくなってきましたが、とにかく「問い」に従って答えを探すのではなく、前提となる「問い」を、より良いものにしていく。問いに支配されずに自分が問を「創る」。どうやら根本問題の答えは、クリエイティブな作業によってのみ、見出されるようです。

AUTOPOIESIS 0071/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『植え替えの時期』

古賀ヤスノリ イラスト  
 鉢植えの植物を育てる。陽の光と十分な水を与えることで、植物は葉を広げどんどん成長していきます。それとともに根っこも伸びていき、水や土から栄養をたくさん吸収するようになる。しかしやがて根が充満するときが来ます。もしそのままにしておくと、その植物は調子が悪くなり、最後には枯れてしまいます。成長することが自分の存在を殺してしまうというパラドクス構造が出来たからです。
 植物が成長すればするほど枯れてしまう。このパラドクス構造を作らないようにするためには、根が充満するまえに、より大きな鉢へ植え替える必要があります。根が成長するために必要な空間(余白)を作り出すということです。鉢に根以外がない状態(自分で充満した状態)では栄養を吸収することはおろか、自分によって押しつぶされてしいます。それを回避するために、外部世界を広げる必要があるということです。
 より大きな鉢へ植え替える。あるいは庭へ移し替ええる。そうすると根は自らを押しつぶすこともなく、肥沃な土壌から水と栄養をたくさん吸収し、元気に育っていく。成長することで自らを殺すということもありません。このように一つの方向への発展には必ず限界があり、発展を続けていくためには、外部世界を適切に変えていく必要があります。これは人間も同じで、揺りかごで永遠と過ごすわけにはいかないのです。
 実はこれは、物理的なことに限りません。一つのものの考え方、あるいは行動や計画は、ある時期まで有効でありながらも、ある時期からは前進が自らを圧殺する方向へと向かいます。いわゆる形骸化という言葉は、この発展の折り返し点をすぎたという意味です。考えや行為の有効性が感じられなくなった時は、植え替えのサインです。植え替えとは自己を包み込む空間を広げるということ。つまりそれは自己の世界観を押し広げるということです。
 自己の世界観を広げるということは、言い換えると、今まで取り入れてこなかった(或いは避けてきた)考え方や発想、価値観などを取り入れるということです。そうすることで、「これまで通り」の継続が自己を圧殺する、というパラドクス構造を回避できる。もちろん慣れ親しんだ状態や環境を変えるにはエネルギーや勇気が必要です。怠惰の病がそれを邪魔することもある。しかし環境をかえなければ自己が押しつぶされることは確実です。
 植え替えのサインとともに環境を変える。物理的には場所を移動してより自由で余白のある空間に身を置く。精神的には、これまで避けてきた新しい考え方や価値観を受け入れ、自分の世界観を押し広げる。それに必要なことは、重い腰をあげるエネルギーと勇気です。形骸化が進めば負の構造から出ることが難しくなる。慣れ親しんだ世界と心中するよりも、次の世界でのびのびと成長する方を選ぶ。この天秤をイメージして未来に賭ける勇気があれば、そこに見事な花が咲く可能性があるのです。

AUTOPOIESIS 0070/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『フロリクス8から来た友人』

古賀ヤスノリ イラスト 
「たぶん、ぼくは、ぼくたち自身のプロパガンダの犠牲なんだ」(フィリップ・K・ディック)

【あらすじ】

 高度な知能を有する<新人>と、テレパシー能力をもつ<異人>たちが支配階級を独占する22世紀。残る60億の<旧人>は、改ざんされた試験制度により、政治機構への参加が不可能となっている。飽和した構造を打開すべく、助けを求め宇宙へと旅立ったトース・プロヴォ―二。一方、救世主の降臨を待つ<旧人>のひとりニック・アップルトンは、黒髪の少女チャーリーに出会い、最高権力者の<異人>ウィリス・グラムと遭遇することになる。高度な文明をもつフロリクス星系人と巡り合ったプロヴォー二は、地球へと帰還する。その阻止をたくらむグラムは、<新人>の最高知能者エイモス・イルドに助けを求める。彼ら支配体制の抵抗をよそに、フロリクス星系人は、硬化した支配構造を、特殊な技術によって解体していくことになる。

外部からの解決

 飽和に達した構造は、内部からの修正が困難となる。身体が機能不全に陥り、新陳代謝が硬化すれば、あとは外部から人工呼吸器などの助けが必要になる。22世紀が舞台のこの物語も、<新人>と<異人>が交互に支配階級を占める構造が飽和に達している。これは民主主義や二大政党制の末路を暗示するもの。それらの体制が飽和に達した後は、外部からの助けなしには正常化出来ないことを示唆している。
 未来社会の政治的限界に対して、ディックが示したの解決策は「高度な文明を持つ知的生命体に助けを求める」というものである。地球では他の追随を許さぬ<新人>と、人の心を読む<異人>が、大多数の<旧人>を支配している。その構造を破壊するには、現状を超える文明と知性が必要なのである。
 大きな物語が進行する過程で、主人公ニックが日常を放棄せざるを得ない流れに巻き込まれる。彼はコンピューターがはじき出した「最も一般的な旧人」だった。つまり彼の振る舞いが<旧人>の振る舞いの代表でもある。彼は知的生命体とプロヴォ―二の「降臨」を待つだけの人生であり、ディックはそれを「信仰」に近い形で描いている。奇跡を信じて待つだけの<旧人>たち。実際にキリストと聖書を暗示する記述が随所にみられる。
 最も一般的な<旧人>である主人公。その平均的な生活を破堤へと誘う黒髪の少女チャーリー。彼女の存在によってニックの飽和した日常は破堤するとともに、動きに満ちたものへと変わる。あらゆる平均化したものが破壊しつくされた「最後に残るもの」がこの小説で描かれている。不可能を可能とするフロリクス星系人は、いったい何を暗示する存在なのか。それは一般化されることなく、個々人で直観することをディックは望んでいることだろう。

028『フロリクス8から来た友人』フィリップ・K・ディック: Originally published in 1970
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『isonomia』

『二つの理解』

古賀ヤスノリ 水彩 イラスト
 物事の理解の仕方には二つあります。一つは「受動的な理解」です。たとえば、子供が親から「赤信号は渡ってはいけないよ」と言われ、それを理解するというもの。もう一つは、「能動的な理解」です。子供が赤信号を渡ろうとして人とぶつかり、だから「赤信号は渡ってはいけないのだな」と理解するというもの。前者は親が一般化して言葉という情報に変換したものを、ただ鵜呑みにする理解です。後者は事実から一般法則を自分で導き出し、頭の中で言葉へ変換して得られた理解です。二つの理解は同じ「赤信号は渡ってはいけない」へ行き着きますが、それまでのプロセスや経験が全く違います。
 一般化されたものや情報化されたものを鵜呑みにするのが「受動的な理解」。自分自身で物事の一般法則を感じ取り、情報化しながら理解するのが「能動的な理解」です。前者は機械的な理解であるという意味で、ロボットにも可能です。後者はより複雑な理解なので、AIが超えるべき指標であり、その意味では人間らしい理解の仕方だと言えます。
 二つを「情報の鵜呑み」と「経験的な理解」と言い換えるならば、前者の理解方法は、情報の前提を問うことがないので、騙されやすい人間を作り出します。後者は経験を吟味するプロセスがあるので、騙されにくい。理解の仕方は学習方法の根幹ですが、ただの暗記や詰め込み式の学習法は「情報の鵜呑み」型であり「受動的な理解」のみを発達させる教育だと言えます。「経験的な理解」を育てる学習法は、鵜呑み型よりも複雑で手間がかかる教育システムが必要です。さらに管理する側からすれば、「鵜呑み型の人間」が多数であるほうが具合がいいはずです。
 人間が真の意味で、人間らしい能力を発揮するには「能動的な理解」を発達させる必要がある。これは明らかなことです。「経験的な理解」の蓄積によって、予想外の事態にも対応できる思考が形成されます。しかしこのような「能動的な理解」を発達させる環境が、日々失われてきているのが現状です。現代の理解はネットによる検索で済まされることが多くなっています。つまり誰かが一般化して文字情報にしたものを鵜呑みにする理解が多数を占めている。これらの理解が全体として社会を動かしている。社会は全体として一般化し、社会自体が新しい局面を乗り切る力を失いつつある。
 「情報の鵜呑み」に対する「経験的な理解」には「主体」が必要です。物事に対して「主体的に関わる」ことで、その経験が自分のものとなる。主体的な関わりがないものはすべて「受動的な理解」に留まります。この主体を育てなければ、結局はなにをやっても物事との積極的な関わりが生まれない。その「主体」とは「一般」や「標準」、「平均」といった概念の逆数にあたる観念です。「主体」とは一つであり、それ以外「他」ではないものです。学習や教育は「一般化した情報」や「共有すべき情報」を理解させるという目的があります。しかしその理解の根幹が「一般化できない主体」(個性)によってしか能動的になされないという逆説がある。その逆説をもう一度問い直し、新たに教育や学習の現場に組み込む時期に来ています。情報化社会の負の側面と共に、個性に即した学習や教育の在り方が、いま問われているのです。

AUTOPOIESIS 0069/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

Scroll to top