『安定と不安定』

安定とは停止ではない。安定とは船が絶妙な舵取りで、不安定さを打ち消すことで維持された状態。それに対して停止は、舵取りを放棄して、不安定さに飲み込まれた状態。前者は努力を続けることによって、得られるものであり、後者はすべてを諦めた結末です。
 安定とはそもそも不安定の対立概念です。つまり不安定がないと安定もない。それに対して停止は、安定や不安定といった「揺れ動き」自体が止まってしまった状態です。動きが一切なく、生物でいえば死んだ状態です。
 海で魚が泳ぐ。安定して泳ぐには流れの方向に、もう一つ「別の方向」へ力を加えることで、自分が行きたい方向へ進む。海の流れは変わるので、そのつど加える力を変えながら泳ぐ。そうすることで安定が得られる。安定のために変化を続ける。ここには「安定の逆説」があります。

古賀ヤスノリ イラスト

 もし、変化を放棄すれば、流れにさらわれる。もしかするとその魚は、ラクで何の抵抗もない「安定」状態だと錯覚するかもしれません。しかしそれは狭い主観であり、外からみると死んだ物体のように、ただ流されているだけです。この「停止を安定と錯覚する」のは、諦めの境地という苦痛を覆い隠すための「痛み止め」のようなものです。
 安定とは「変化が維持できている」ということ。諦めて変化への努力を停止すると、不安定さの流れに飲まれてしまう。その事実が辛いので、停止を安定だと思うことで難を逃れる。このように自分を欺くことを「自己欺瞞」と言います。停止(諦め)を選ぶと「自己欺瞞」が必要になる。この「自己欺瞞」がさらに停止を強固にする。この出口のない迷宮から脱出するには、「変化を許容した安定」すなわち「安定の逆説」を作り出すことです。
 「安定の逆説」を利用したシステム。自己が変わることで安定した舵取りを続けること。時には失望もある。しかし生物が動きを止めた時点で死に至るように、人間の心もその動きを止めた瞬間から死に至る。停止を正当化すれば、すぐに自己欺瞞の迷路が出来る。精神はそのなかで健全に生きることができません。「変化による安定」という逆説。その逆噴射によってのみ、複雑化した迷路は、平面的な地図として消え去るでしょう。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『無限の進化』

 変化とはなにか。それは以前の状態から別の状態へ移行すること。言い換えれば、前と今との間に「区切り」があること。さらには前には戻れないこと。つまり「戻れる領域内」は「無変化な領域」と言い換えてもいい。変化とはそういった「戻れる領域」から「戻れない領域」へと引っ越すことです。
 たとえば魚が進化して陸へと上がり哺乳類になる。哺乳類は魚へ戻れない。しかし前の状態を棄てることによって、そのデメリットをはるかに超えるメリットを得ることができる。変化できない魚は、いつまでも海のなかで過ごすことになります。
 魚にとってのデメリットは、水中で呼吸するために発達させた「エラ呼吸」の機能を失うことです。それは今まで自分の命を守ってくれた「絶対不可欠なもの」を棄てること。いわば自死を意味します。そこに変化することの「究極の怖さ」がある。それを超えたものだけが陸へと進化します。進化のメリットは、現在の魚と人間との違いにまで広がります。
 変化とはこれまでの状態を棄てること。その瞬間から「新しい形式」を採用すること。この変化は徐々にではなく、一瞬で変わります。同じ形式が長くつづき、ある瞬間からパッと変化する。捨てる時は一瞬で、徐々に捨てていくのではない。その意味で「待っていても何も起こらない」ということです。

無限の進化

 ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説には、自分を長らく守っていた卵の殻を、自ら破って鳥が顔を出すというイメージが語られます。これは「死と再生」の象徴です。これまでの自分を自ら殺すことで、新しく生まれ変わる。このような「死と再生」のイメージは世界中の神話のモチーフでもあり、あらゆる進化、発展にとって普遍的なプロセスだと考えられます。
 このことから、過剰に現状維持に固執すれば、進化や発展を阻害することになります。実は現状維持を目的としたシステムは、必ず破堤するという逆説がある。新陳代謝できない人体はすぐに死に至る。考え方も硬直化し、すべてを拒めばすぐに精神的な病となります。現状維持への固執は、新しいものを取り入れて、古いものを棄てる、という変化のプロセスを阻害してしまうからです。
 人が現状維持に固執する時、そこにはいきいきとした変化への「諦め」があります。その「諦め」は失望の連続によってもたらされた「絶望感」です。それを哲学者のキルケゴールは「死に至る病」と呼びました。その「諦め」の原因は、自分を守ってきた「卵の殻への過剰依存」にあります。自分を助けてきたものが、ある時点から、自分の成長を妨げ苦しめるものになる。しかしそこから出られない。殻を自ら破り捨てる勇気が、絶望の世界に光を当て、「無限の進化」への可能性をもたらすのです。

AUTOPOIESIS 0064/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『比較できない価値』

 カボチャが二つあるとします。どちらが重いか。それは量りにのせれば比較できます。どちらが大きいか。これも物差しで測ればいい。数字にすれば比較可能です。ならばどちらが美味しいか。これは個人の主観に頼らざるをえないので、明確な基準はありません。世界には比較できるものと、出来ないものがあります。
 例えばケーキなら美味しいほうが売れる。どちらが美味しいかは主観で変わる。しかし評判で間接的に測ることが出来る。でも評判が外れることもある。これは自分の主観が評判とずれているときです。世間とずれていても美味しくないものは美味しくない。それが主観です。
 ケーキの味を主観で比較することは可能です。ではカボチャとケーキの味の比較はどうか。そもそも種類が違うものを比較できるのかどうか。別種のものを比較するには共通の物差しが必要です。しかしなにもかも量化して数字にできるわけではありません。そこで値段をつけることで、比較できなものを比較してしまうことになる。

古賀ヤスノリ イラスト
 値段がついているものは、種類が違っていても比較が可能となっています。つまり高いほうが高価である、ということです。しかし、実際の内容と値段が正確に伴っていることは、そう多くはありません。適当に値段をつけられているものだってあります。確かなことは、値段によって金額が決まっているということだけです。
 ものの値段が本質的な価値を表していないとするならば、その価値を知るには「自分で判断する」しかありません。これまでの経験や知識、さらには感性や直観なども総合して、本質的な価値を判断します。そうすることで値段ほどのものではない、と見切ることもできる。もしそのような「自分の判断」がなければ、値段に従うしかありません。
 自分で判断する力がなければ、必然的にお金による判断に頼るしかありません。あるいは世間の評判に頼るしかない。値段、ブランド、モード、世間の評判、これらに従うのは、自分で判断する力がないからでしょう。つまり「比較できない価値」を認識できない。なぜなら、「自分」(自我)という「比較できない価値」を見失っているからです。「自分」が他人と比較できない存在であることを、実感していれば、自分の感性は発動し、「比較できない価値」を自分で判断できるようになるのです。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『ソラリス』

古賀ヤスノリ イラスト
「人は自分の潜在意識に対して責任を持てるのだろうか?」
(スタニスワフ・レム)

 ソラリスという惑星は、二つの太陽を周っている。ゆえに二つの引力の影響を受け、惑星内部の重力は不安定である。しかしソラリスに唯一存在する「海」が重力の安定化をはかっている。「海」は意志をもち、主人公たちの「抑圧されたイメージ」を物質的に具現化させる。心的抑圧による病理と、不安定なソラリスの重力は、共に「海」という安定装置によって補正される。しかし「海」という「超越的な存在」が意図することを、人類がはたして理解できるのか。数少ない登場人物にサイバネティックス学者を選んだところに、すでにこの小説のテーマが現れている。SF文学の頂点に位置する作品。

027『ソラリス』スタニスワフ・レム: Originally published in 1961
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『isonomia』

『自我という機能』

 「人間は生物である」。その意味では、アメーバーなどの単細胞生物と変わりません。「人間は動物である」。その意味では、犬や猫と変わらない。「人間は高度な知能をもった動物である」。程度差はあれど、その意味で人間は、サルやチンパンジーと変わらない存在です。「人間は自我を持った存在である」。これは今もって並ぶものがありません。
 人は自我を持つがゆえに、他の動物との違いが明確になる。この自我とは何か。簡単に言えば「自分が『自分』と思っているもの」でしょう。言い換えると、「他と自分を“区別”している機能」、とでも言えばよいでしょうか。よって「みんなと一緒」になろうとすると、自我は喪失へと向かいます。
 もし「みんなと一緒」へ向かうことが、自我喪失の原因だとすると、それは「自我をもたない動物へ降格する」ことではないか。こう言うと、「人は社会的な動物なので“みんなと一緒”でなければ人間ではない」という人もいるかもしれません。しかし群れになる動物は「みんなと一緒」ですが、自我は持ち合わせていません。かれらは「本能」によって群れを成しているだけです。
 人間が集まって、「みんなと一緒」という気持ちになった時、自我はなくなります。硬い言い方をすると「責任」がなくなる。だから集まりたいと無意識で思っている人もいるでしょう。つまりここに「集団になると自我は消滅する」という定理が現れます。多数への帰属意識は、自我からの逃走である、というわけです。

古賀ヤスノリ イラスト

 集団になることで自我を失う。それが「群れ化した動物たち」であるとするならば、多数への帰属意識に支配された集団は「羊の群れ」なのかもしれません。そして多数決の原理である「民主主義」の社会も、「羊の群れ」の社会であるかもしれない。「民主主義」を推し進めることで、人々は自我を喪失し「羊の群れ」となる。これが「民主主義」の矛盾であり限界にある問題です。
 もし人々に「集団になれない状態」が発生すれば、個々の自我は守られます。つまり「羊の群れ」にはなれない。言い換えると責任は自分で背負うしかない。これまで「羊の群れ」で安心してきた人々にとっては、幾分か辛い状況かもしれません。しかし「自我喪失の病」と「集団への帰属」の関係を考えたとき、その「安心」こそが病理の入り口であることを、理解する必要があります。
 私たちが良かれと思い進めてきた「民主主義」が、逆に人々を「羊の群れ」に退化させてしまう。どのようなシステムであれ、時と共に形骸化していきます。自我という高度な機能を持った人間が、その機能を退化させるような「多数への帰属意識」をどう回避していくのか。これから必要となる社会の形態は、「民主主義」と「集団心理」を揚棄した場所に構築されるのです。

AUTOPOIESIS 0062/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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