『心の中につくる』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 外的なところに何かをつくりだす。たとえば仕事や生活によって作り出されるもの。これらは日常の物理的な行為によって出来上がるものです。この外的な生産が重要なことは誰だって分かっています。これに対して内的な生産というものがあります。内的な生産とは「心の中に作り出す」ということです。それは物質ではないので「数」ではなく「質」の生産と言えるものです。
 内的な生産は心の中で作り出される「質」的なものであり数量化できません。よって数が増えるだけでは質的な変化がなく、停滞していることになります。心の中が同じものの繰り返しでは、何かを生産したことにはならない。これは同じ映像(絵)が繰り返し連続する状態と同じです。内的な心の生産は「繰り返しのない連続性」によって作り出されるものです。
 内的な心の生産は、物質的な生産の原理とはまったく違う原理で動いています。それは数量化できず、また繰り返しはカウントされず停滞を意味します。心の生産は「質的な変化」の連続によって初めて成立する。そのような非物質的な心の世界に「生産」できるものは、イメージだけです。この心の中のイメージは寝ているときの夢にも現れるし、現実の行動にも影響を与えます。
 夢の中では荒唐無稽でありえないことが良く起こります。物理的な日常を超越している。それはイメージの次元だからこそ可能なものです。しかし現実における閃きや発想(まだないものを見る力)も、この心的なレベルにおけるイメージの生産力と大きな関係があります。内的イメージの生産力と現実の発想力との関係に比べれば、言語による発想への関与は二次的なものです。
 現実の世界でも行為の繰り返しが続けば、どんどん機械的になりルーティン化していきます。物質生産ならそれが一番効率的です。しかし心はそれに耐えられない。なぜなら心の機能そのものが「変化の連続性」を原理としているからです。よって物質生産の効率性に心を合わせ過ぎると、心の機能は停止することになります。つまり内的な心の生産も止まる。そうなるとルーティンから脱出する発想が浮かばなくなり、さらにそこから出られなくなります。
 外的な生産と内的な生産は、片方だけが優位になるともう片方を阻害してしまう。なのでバランスをとる必要があります。物理的なものは生活に繋がるので、誰もが十分に生産できています。しかしそれがルーティン化すると心的な生産を阻害してしまう。心の生産を効率よく行うには、視覚的な芸術が最も適しています。さらに現実の生産という模写(模倣)ではない、心のイメージを活かした現実的表現が効果的です。外的な生産が飽和に達した現代においては、心の中にこそ内的な生産が必要なのです。

AUTOPOIESIS 113/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『技術と心』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 技術とは物理的な操作のこと。もっと言えば「原因と結果」を直線的に繋げることで現れるものです。ああすれば必ずこうなる。パターンなので機械にもインプットできます。よって技術それ自体は人間の心とは切り離されて存在します。もし心と繋がっていたら、機械が真似ることはできないでしょう。
 しかしそのような技術も、最初は人間の心と繋がった形で出来てきます。ああしてみたい、こうしたいという気持ちが、実験と模索を繰り返していく。そして行為が段々と洗練さて効率的になる。そして一つの技術が完成していく。この一連のプロセスと心は密接に関係しています。しかし一旦パターン化して技術が出来上がり、それに従うようになると心との関係は切れてしまう。
 技術は「行為の法則」であり、パターンであるが故に誰がまねても同じ結果が現れます。個人の心と関係が切れているからこそ、それが可能である。つまり技術それ自体は無個性です。「原因と結果」という科学的な因果法則の間に心が入る余地はありません。操作的な行為はつねに心との関係が切れてしまう。
 これらのことから、技術だけで絵を描けば(ものを作れば)無個性なものができることは明らかです。技術を使いつつ自分の心を関係させるには、技術に対して従属的になってはいけない。行為が常に「新しい技術の生産」でなけれらならないのです。つまり同じことの繰り返しではなく、一回性の体験(行為)であることが重要なのです。
 同じことの繰り返しではない、一回性の体験。それは「後戻り」も「次の機会」もないという「正常な時の流れ」に従う、ということでもあります。デジタルの世界は「後戻り」も「次の機会」もある。しかし現実の世界は、厳密な意味において同じことは二度と起こりません。そして心という機能はこの一回性の時間の流れと深い関係がある。
 時が止まれば心も止まる。心が止まればもちろん技術(行為)と心は関係できない。そうなれば結果も心と関係しないものとなります。これは空虚です。機械的な反復は大量生産を可能にする反面「無個性」という代償がある。ここにはパターン化した技術(或いは知識)だけを習得する代償としての「心の喪失」という問題があります。生きた技術の復活こそが、喪失した心の復活にも繋がるのです。

AUTOPOIESIS 112/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『人はなぜ創るのか』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人は何かを創らざるを得ない存在である。たとえばアリは巣を作る。あるいはビーバーはダムを作る。これは遺伝子に組み込まれたコード(本能)に従う関係から、一種の機械的な行為と見ることもできます。それほど動物は本能に忠実に行動する。
 人間も原始時代から道具や住居など、動物と同じく生活に必要なものを作っています。しかしいつ頃からか生きることに必要ない非実用的なものを作るようになる。考古学の出土品には動物をかたどった彫刻などがあります。これは生きることだけを考えれば不必要です。アリもビーバーもそんなものは作りません。しかし人間は「それ」を作らざるを得なくて作っている。
 人間には、他の動物と違う精神という機能を持っています。これは他の動物が持っていない脳の余剰から生まれるものです。つまり本能による生存だけを目的とした「すべてをコード化された動物」とは次元の違う存在であるということです。本能からある程度の自由があるからこそ、精神が機能して非実用的なものを自由に作り出すことができる。
 考古学的な彫刻は、生きることよりも精神の安定のために作られたと考えられます。もちろん人間が集団で社会生活を始めたことと大いに関係がある。原始的な状態に対する文化とは、ある種の「反生存」(反本能)を許容することによって作り出されるのです。
 人間は精神を持っているがゆえに、他の動物のようにただ本能に従っているだけでは安定しない生き物です。よって、生存とは関係のない「精神と関係あるもの」を作らなければならない。それは非実用的なもの、つまり芸術です。いくら物質的に豊かでも、生存が保障されていても、何かを創り出すことなしに精神の安定はありえないのです。
 その意味では、人類のなかで取り残されずに進化するのは、本能に支配されず非実用に価値を見だせるタイプ。芸術を創り出すタイプだと考えられます。ただ生きているだけでは納得に行き着かない。あるいは何かを作り出したいという人は、潜在的にそのタイプであることを示しています。ただ生きる(本能)だけで満足できないという郷愁の対価として、未来の可能性を手にしているのです。

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『芸術的な直感』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 たとえばイルカを描くとします。モチーフにしたイルカの写真をそのままそっくりに描く。すると誰が見てもイルカであることが分かります。情報としてはイルカという存在を伝えている。このように「対象が何であるか」を示すものは、非常口のマークなどと同じ情報です。しかしイルカをその人にしか描けないタッチや色使いなどで描くとどうでしょうか。そこには標識やマークといった「対象が何であるか」という情報以上のものが付加されています。表面的にはイルカですが、イルカの背後にさらなるレベルの情報が存在する。
 ゴッホの「ひまわり」はただ「ひまわり」を示しているだけではありません。ゴッホが見た「ひまわり」であり、ゴッホが感じた「ひまわり」です。ゴッホは「ひまわり」を借りて自分を表現したということもできます。この「ひまわり」プラスαの部分が世界中の人を引き付ける。その人の感じ方や表現の仕方によって「対象が何であるか」というレベルを超えて、人々に共感を呼ぶ情報が伝えられる。
 ただ見たままを正確に描く。これも一つの技術を要する表現です。しかしそれは「対象が何であるか」を伝えるというレベルを超えられない。その役割は今や写真が担っています。よって「写真のような技術」を誇るということ以上の目的は見出せません。つまり写真の登場によって「写真のような技術」は表現ではなくなったということです。表現とは人間と対象との関わりから生まれるもので、それは「対象が何であるか」を超えた表現なのです。
 目に見えるものの表面だけを重要視すれば、自然に表現は表面の模倣に終わります。しかし人間には想像力という、他の動物にはない能力を備えています。これは今目の前にないものを見る力です。その想像力を発揮しながら描けば、絵は表面の模倣を超えたものになります。つまり描き手の視点、感じ方などが絵に加わっていく。それは写真とそっくりではない。しかしそうであるがゆえに「対象が何であるか」という写真の役割以上の情報が付加される。それが芸術というものです。
 見たものの表面ではなく存在の裏にあるものを感じる。外側から見えないものを直感することは大切なことです。なぜなら世界には、表面的に解釈するだけでは騙されてしまうような、嘘の(偽の)情報が溢れているからです。騙されやすい人は表面的にしか情報を解釈せず、裏にある目的やその言葉の文脈を感じることが出来ません。そういった人が絵を描くと写実に固執する傾向があります。情報には表面上の意味と裏にある意味が一致している場合と一致していない場合の二つがある。表面上の意味しか受け取らない場合は偽の情報に騙されやすく、また写実以外の個性的な表現を理解することが難しくなります。
 表現には「対象が何であるか」で終わるものと、それ以上の情報が裏に隠されたものがある。芸術とは後者の表現であり、それは表面的なレベルから解放されることによって直感が可能となる。そういった情報の受信や表現は技術よりも直感で、意識よりも無意識でなされます。必然的にそのような能力を発達させれば、偽の情報などにも騙されにくくなる。これが芸術的な直感です。「対象が何であるか」という表を認識しつつも、そこから離れてより大きな「関係」や「文脈」といった裏を直感する。芸術的な感性は表に支配されずに裏を感じとる力なのです。

AUTOPOIESIS 110/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『絵の技法について』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 技法だけで絵を描くと個性を喪失する。これはなぜなでしょうか。この命題を少し考えてみることにします。絵には大きく分けて二つの表現要素があります。一つは技法です。たとえば機械に技法のパターンをインプットすれば絵ができます。AIの研究が進む現代では、かなりの技法で絵を作り出すことが可能です。もう一つは感性です。それは技術とは別種の、人の個性や心とのつながりから生まれる表現です。子供の絵などは技術を超越した感性で描かれます。
 絵の技術は一般的に技法と呼ばれます。法則なので、そのやり方に従えばだれでも同じ絵ができる。だからこそ機械が代行可能です。これに対して感性を使った絵は、技法として技術を一般化する前の、その人の個性や感性と直結した表現です。より感覚的なレベルであり、それは「言葉に出来ない表現」ということもできます。
 技法は描き方のパターンを一般化したものであり、感性の表現は、一般化できないその人の個性と関わるものです。よって最初にあげた命題「技法だけで絵を描くと個性を喪失する」ということになります。誰でも同じ絵になるということは、そこに個性はないということです。たとえば一人の画家の「技法だけ」を抽出すると、その技法は画家とは切れてしまい、関係のないものになります。ゆえに他人の「技法だけ」を採用しても、自分の個性との繋がりを持ちえません(技法を個性と融合させる方法はまた別のところで)。
 感性の表現は、その人の個性から必然的に生まれた、他と並ぶもののない表現です。もちろん絵は技術によって描かれます。しかしその技術は、画家との有機的な「心とのつながり」によって生まれるものです。感性の表現は、まだ一般化されず、描く人の心のリズムとして、つねに内面に存在しています。
 人の心は機械のように単調で一律ではありません。複雑かつ生きたリズムであり、そこには多様なイメージが蓄積されています。そこから生まれる表現は「自然の表現」といっても良いものです。この複雑な心の表現が、描く人によって徐々に、直感のレベルではあるが意識化されていく。そして「自分らしい表現」として自由に操ることができるようになる。それこそが、機械的な技法とは別次元にある、自分の個性を表現できる技術です。技法は心との繋がりを持つことで、初めて自分の表現となりえるのです。

AUTOPOIESIS 109/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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