『集団心理の壁』

 個人であれば自分一人が枠であり、集団になれば集団の枠があります。集団の中で個人のアウトラインが明瞭に意識されることはまれで、集団心理とはそれほど内部の人々の「個人的な枠」を消し去るものです。
 たとえば家族という集団、さらにその集合体である地域、街、国家など、より大きな枠へと進んでも、そこには必ず枠内を拘束する集団心理があります。集団心理はつねに、「内側」という意識に支えられていて、その意味では「外側」との関係によって成立している。国家が他の国家によって成立することは当然のことです。よって内部の結束をより強固なものにするためには、外部(あるいは敵)を作り出す必要があります。子供のいじめから国家の舵取りまで、この原理による振る舞いは、いたるところで見られるものです。
 しかしこのような外部依存型の「閉じた構造」は、すでに崩壊の始まりを表していると言えます。物理学の視点で見れば、内部のエントロピーは増大の一途をたどる。閉鎖した集団が、外に敵を見出して硬直化するというプロセスです。その先に幸福が待っていたためしは、歴史上いまだかつてありません。しかし人間は、集団の力を利用せずに文明を維持することはできない。ここに文明のパラドクスと、超えるべき指標があるように思います。
 
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『尊厳と文化』

  他人を尊重する。当然のことであるけれども、これはまず自分が自分自身を尊重できていなければできない。なぜなら人は自分にしていることしか他人に出来ないからである。その意味で自己は他者であり、他者は自己である。自分を尊重するとは、自分の欲を尊重することなどではない。その逆に自分の低レベルな欲望に支配されずに、自分の尊厳を守れるような判断をするということだろう。そのことによって自分は結果として尊重されていく。原始的な欲動からの解放が、自他の尊厳を守る方法であるのならば、フロイトが定義した「文化の獲得」と完全に一致する。つまり、他人を尊重することで自他の尊厳が守られ、そこに文化が発生する。その代償は欲望の放棄である。「経済が低レベルな欲求を刺激することで利益を得ているいう構造」、それが文化の発展を妨げている。この説は、「文化=欲望放棄」の視点で見ると的を得た指摘だと考えられる。‟消費は未開の儀式だ”とレヴィ=ストロースあたりが言っているのかもしれないが、私はそれを知らない。逆に、自他を尊重し人々の尊厳が守らる社会では、消費は下降すると考えられる。よって現代社会は尊厳を・・。さあ考え出すときりがないで、このあたりでやめにしよう。
 

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『カミュの精神』

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 なぜかクリスマス前にカミュのことを考えました。彼はまずもって哲学者でした。そして劇作家であり小説家でもありました。かれの日記を読むと、つねに深い思考で物事を「考え抜いていた」ことが分かります。さらに東洋の「禅」というよりは、日本の「武士道」を思わせるものがあった。とくに不条理に対して、負けを確信しつつもそれに挑む姿勢は、サルトルなどの実存主義とはまた違った「受け入れ方」が感じられ、それが私にはカッコよく感じられもしました。ゆえに、今年一年の‟重みと軽さ”をどう処理しようかと考えていた時に、「カミュの精神」に少しばかり頼ろうとしたのかもしれません。やはりアルベール・カミュという人は、ただの理論家ではなく実践的な人だったのだとつくづく思うのです。
 

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『認識論』

 視覚的な発想と言語的な発想の違いはどごにあるのか。視覚的な発想は、現象学的なものであり言語以前の認識と関わっている。視覚情報も言語的に把握されて始めて認識に至るという考え方もあるが、そのような「言語的視覚認識」以前にある、純粋視覚認識(=現象学的認識)が視覚的発想の材料である。それは抽象的なレベルでのトポロジカルな、あるいはゲシュタルト的な発展を誘発するシグナルである。人は今だ言語的な認識以前に、このような純粋視覚認識よる抽象的な対象化を行い、言語認識の土台としている。
 これに対し言語的な発想は、純粋視覚認識によって捉えられた抽象イメージを出発点とする。抽象的な土台の上に合致する言語を置き、その後はその言葉を抽象イメージの代わりとして代数的に利用する。言語は記号であり純粋視覚的な抽象イメージを単純化したものである。よって、言語によって代数的に発展させた対象は、再度視覚的に展開しなければ単純化したまま(非現実的なまま)にとどまる。 言語認識と現実との差異はこの展開の有無によって広がる。たとえばこの視点によって‟妄想”という現象が「視覚と言語の差異」から生まれる現象だということが見えてくるのである。
 つまり、人間の認識の根本は現象学的な純粋視覚認識であり、言語的な認識は抽象イメージなしにはありえない。言語は記号であり形式である。その内容は抽象イメージである。さらにその二つは表裏一体のはずである。しかしその二つが、切断され言語という記号だけが独走することで妄想の世界が生まれる。まさに文字言語だけが過剰に先行した現代は、肥大化した「妄想の時代」だと言えよう。

 

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『防衛機制‐反転』

 
 たとえばオセロを勝負しているとします。やっていくうちに自分が劣勢になり、負けそうだと感じる。通常は負けるとそれを受け入れておわります。しかし、もし負けを受け入れたくないがために、頭のなかでオセロの盤を180℃回転させたらどうでしょうか。そうして自分が勝ちの側にいると妄想し、負けの側が相手だと考えたら。もちろんその妄想の中では、彼は負けの側を逃れて勝の側で気分がよいでしょう。しかし通常はたとえ妄想しえたとしても、そのような気分にはなれなません。なぜなら事実としての記憶が邪魔するからです。しかしその人物が「妄想的な反転」とそれに伴う「過去の記憶の消去」を幼少期に習慣づけていたとすればどうでしょうか。そんな人物がいれば大人になってもピンチの時は状況を反転させて身を守るという「心的トリック」で問題を回避するでしょう。これはありえないような話ですが、実際はかなりある話ではないかと思うのです。

 

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『ミカエル的視点』

ミカエルの視点

 作家スティーグ・ラーソンは『ミレニアム・ドラゴンタトゥーの女』で、主人公にこう述べさせています。「スウェーデン経済とスウェーデン株式市場とを混同してはいけません」(ミカエル)。彼がいうには経済とは実体を伴った現象であり、株式市場は実態なき幻想であると。これを読んでなるほどと思いました。こんなことを書けば、株と経済が‟直接相関している”と考える人たちから怒られそうではありますが。しかし、資本主義が揚棄された未来では、株式市場と経済の相関性の認識が「資本主義の限界」だったと教科書に記されるかもしれません。
 

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