『価値の急降下』

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 長年追い求め労力も費やしてきた事柄が、ある日色あせて何の価値も感じなくなる。このようなことが往々にして起こります。なぜこういった価値の急下落が起こるのでしょうか。そもそも熱っぽく何かを求める対象は、「心の穴を埋める」ような要素である事が多い。心の不足を補うような対象であるがゆえに、熱心にそれを追い求める。しかし不足を自分自身で(たとえば精神的な成熟によって)解消してしまうと、追い求めていた対象の価値が急下落する。このパターンはかなりあると思われます。もう一つのパターンは、社会の変容によってその価値が下落するというものです。これはそもそも相対価値を基準として追いかけるので、周囲の関係によって価値が変動せざるを得なくなります。こちらの方は永遠に価値の変動と追跡を繰り返すので、満足に行き着くことがありません。前者の場合の価値下落は、その時の寂しさはあるけれど、結果的には良い下落だと思われます。そもそも価値というものは、対象自体にあるのではなく、人間側の心の変容にある。だからこそ、お金や数字で一般化されたものでさえ、価値が下落してしまうのでしょう。

 

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『こどもへの抑圧』

 日本の児童、生徒の自殺者が過去最高になったとイギリスのBBCが報じています。日本はここ数年自殺者は減少しているが、それに対して子供の自殺者は増加しているといいます。この事態をどう考えればよいのでしょうか。統計では、いじめや家族の問題よりも「進路問題」が自殺の原因のトップだったそうです。つまり社会的な抑圧が原因で、子供たちが自殺へ追い込まれているということです。自殺者の数を減らそうと対策を打つ。その影響で大人の自殺者だけが減り、子どもの自殺者が増えた。つまり「大人を助ける制度」が結果的に子どもを苦しめている。ちょっと考えただけでも「大人の安定=保守化」に社会を傾けることで、未来に可能性がある子供たちには抑圧となります。不必要な補助は人をダメにするというテーゼ。自殺を考える人に対する補助と、未来の可能性を消し去る補助の区別がここでは問題となります。たとえ意図せずとも、大人のために「子供に必要なもの」を取り上げる制作になっているとすれば、それは「超自我の強い日本列島」(親優位社会)の発想そのものだと言えます。大人が真に自分の腹を裂くことでしか、この問題は解決して行かない。こどもは親や大人の所有物ではないのですから。
 

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『哲学入門』

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 イギリスの哲学者バートランド・ラッセルという人が『哲学入門』という本を書いています。もう一つ『現代哲学』という本もありますが、どちらも哲学の入門書として書かれたものです。しかし、その内容は明らかに哲学書そのものです。特に『現代哲学』は入門書としては難しすぎる内容です(私の主観ですが、プラトンやデカルトより難しい)。しかしこれはとても面白いことではないでしょうか。入門書とは本格的な哲学書など歯が立たない人が読む本です。しかしその入門書が本格的な哲学書になっている。これは一種のパラドクスでしょう。しかしテーマである「哲学」の性質上、「物事の本質を扱う」という‟哲学的形式”を外すことができません。なので入門書も‟哲学的形式”で書かれることになります。当然バートランド・ラッセルのような正真正銘の哲学者が‟哲学的形式”を外すはずがありません。よってバートランド・ラッセルの『哲学入門』という哲学書が生まれることになります。このような本が真の哲学の入門書だとするならば、それ以外の本(哲学書でない入門書)は入門書にあらずということになる。「哲学の入門書=哲学書」という等式。ここであらためて気付くことは、‟哲学書とは哲学の入門書である”ということです。哲学書とは、著者と共に哲学を探究する書物なのですから。

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『セルピコ』

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 「自分自身になる」ということは「別のものになろうとしない」ということでしょう。あるいは演じようとしない、成りすまそうとしないということです。『セルピコ』という映画で、主人公のセルピコ(アル・パチーノ)が、パーティーの人々が肩書を言い合う姿をみて「みんな別人になりたがっている」とつぶやくシーンがあります。彼はその光景に飽きあきしているわけです。まあ商売上、肩書が必要なことはありますが(私も肩書やペンネームを使っています)、そのシーンは「自己逃避の振る舞い」に嫌悪するセルピコの個性を表していました。もし別人になり切ることで安心するとすれば、それは自己逃避による一時的な不安の解消と考えられます。もし人々が世間の要望に従い、別人格を振る舞うとするならば、その裏にあるのは不安の解消です。もちろんそのような環境が「自分自身になる」ことを許すはずもありません。この‟出る杭は打たれる”という暗黙のルールは、セルピコから嫌悪されるでしょう。しかし『セルピコ』という映画がアメリカで作られていることを考えると、世界はどこであれ大差ないのかもしれません。
 

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『構造を捨てる』

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 古い自分を棄てないかぎり新しい自分にはなれない。これは当然のことでしょう。この「弁証法的な進化」を繰り返すことが、大人になるということです。しかし社会が要求してくることは、現状を棄てるどころか現状の維持、拡大です。多くの人々でつくる利益構造や組織防衛のシステムは、革命や刷新を拒むという抗原抗体反応を内在しています。作家フィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』において、現状維持で満足する状態を、リスの踏み車に例えてみせました。リスはいくら走っても進まないが楽しいらしいのだと。新しい自分になるとは、古い自分を棄てることである。リスが新しい状況を手にするには、踏み車を棄てなければなりません。現代人にとっての踏み車とは一体なにか。その踏み車を棄てて歩き出す人が、これから現れる新人類なのでしょう。もちろんアンシャンレジームからは目障りな革命者と見られるかもわからない。しかし当事者たちはそんな大袈裟なことではないと思うにちがいありません。この落差こそが進化の証なのでしょう。
 

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『名声を求める心』

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 名声を求める心とはいかに。それは「自分をどう思うか」ではなく「他者からどう思われるか」に固執た状態でしょう。その元型はやはり幼少期に‟親からどう思われるか”に過度に囚われたことが原因ではないでしょうか。つまりフロイトの言葉を使えば「超自我」が原因だと考えられます。超自我とは親の価値観が内面化したも。つまり「親の要求」が今だに働いているということです。名声を浴び、頂点で人々を支配すれば、親が関心するだろうという思いがある。もちろん他者から悪く思われたりすることは誰だって遠慮したいものです。しかし‟名声を浴びたい”という感情も、ある意味で悪人と思われる事と同じく「異質な見られ方」です。それほどまでに「あるがまま」ではいられない状態なのかもしれません。しかし結果として「親の代理満足」を得るために利用された形となっている。それを自分が望んでいると思い込むのが名声欲でしょう。そこに本人の自由はないということになります。

 

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『自己とフィードバック』

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 河合隼雄さんの本を読んでいると、エリクソンの話しが少し出ていた。アイデンティティということばを生み出したエリクソン曰く、自己と社会性が調和したところにアイデンティティの確立があるという。しかし青年期に自己のディフュージョン(同一性の拡散)が起こると、大人になってからアイデンティティを確立しにくくなるということだ。このディフュージョンはなぜ起こるのか。自分なりに推測してみて思うことは、やはり自我の過剰防衛による「反ホメオスタシス構造」(反サイバネティックス構造)が内部に出来上がるからではないだろうか。自己同一性を維持するためには、外部変化に流されない一定の舵取りが必要である。つまりフィードバック回路がないと拡散してしまう。しかし過剰防衛で外部情報を遮断してしまえば、フィードバックを取り入れることができない。ここにディフュージョンが起こる。端的にいえば、親が不必要な厳しさで子供に接するとき、子どもは過剰防衛的に育つ。心的なフィードバック回路が未発達のまま社会に接するとディフュージョンが起こってしまう。ここに「自己と社会性の調和」(アイデンティティの確立)が難しくなる原因があるのではないだろうか。 

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『進化するために』

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 進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドという人が、偶発性こそが生物進化の鍵だと著書で述べています。だから進化を科学的に予測などできないとも。振り返ったときにそれは見えるということです。つまり「ああすればこうなる」という「決定論」を採用して進む限り、進化できないということ。ここで現代の大きな問題が浮かび上がります。テクノロジーの最先端であるパソコンやインターネットの中は、すべて決定論で出来ています。突発的な偶然など起こりません。ゆえに、人間がパソコンやネットに依存している限り、進化できないことになります。このような状況に対して、偶発性を作り出すには、パソコンもスマホも放りだして進まなければなりません。現在の状況を考えると、そのようなことは無理だと思われます。しかし進化とは前段階が死ぬことでもある。しかし人間はそのような社会的破堤を回避しようとする。ここに最先端の技術が進化を阻害するというパラドクスがあります。その先にゆくことは(たとえば社会がパソコンを棄てることは)予測不能な事態に飛び込むことです。進化とは後から振り返ったときにしか見えないもの。つまり前が見えないまま進むことが進化だということでしょう。もちろんただ単にパソコンを棄てただけでは、進化など出来ないことは自明のことでしょう。
 
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