『主体性について』

イラスト こがやすのり

 自分の意志をもって決断したり行動したりする人を、主体性があると表現することがあります。つまり自分で決定する力があるということです。これは自分の選択と行動の結果は基本的に自分の責任であると“みなす”態度と言い換えてもいいものです。逆に言えばそうみなすことで初めて意志や決断力が高まり、自らの主体性を発揮することができる。
 全てを自分の責任とみなす。このみなすことが大事で、なぜなら全ての物事は自分に責任はないと考えることもできるからです。スピノザ(17世紀の哲学者)がいうには、自分の選択は他人の影響やその日の天候や事件に左右されていて、自分に責任があると証明できない。だから全てを操っている神にしか責任がないのだというような事を言っています。しかしこれではひとはみな無責任になってしまう。
 このスピノザの考えから、主体性が希薄な状態のうらには、神(絶対神)に相当する依存対象があることが推測されます。この神に相当するものは世間や親や規則(あるいは法則)といった従属しがちなものです。この絶対的な基準に対して従属的であるかぎり主体性をもてなくなる。自分の意志や決断力が高まらない。しかし逆に言えば、そこから自立すれば、主体性と自己決定能力は高まり、すべての結果が自分のものになっていくのです。

AUTOPOIESIS 189/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『成長を続ける』

イラスト こがやすのり
 一般的に「成長」とは、植物や動物などが生育し発達することを指します。転じて、考え方が成長するとか、経済が成長するとか、無生物(実態のないもの)の概念にも使われます。この成長に対する反対の言葉は「衰退」です。動植物でいえば枯れはてて死へと向かう傾向を指します。実は生物は成長と衰退のどちらかしかなく、成長が止まることは衰退を意味します。これは生物以外の実態のないものでも同じです。
 ある人が成長を続ける。たとえば背が伸びる。しかしあるポイントで成長は止まり背は伸びなくなる。生物の成長はピークが過ぎると下り坂となる。成長か衰退かで停止状態はありません。これは精神も同じで、成長を続ける限り発展していく。しかし脳に依存しているので、脳の機能低下とともに徐々に下り坂となる。もしピークまえに力を抜き成長を止めると、早々と下り坂となり下降がはじまります。
 人は〝成長を続ける限り”生き生きとしていられる。特に精神の成長は、肉体のピークよりも先へ持っていくことが出来る。この精神の成長があらゆる意味での「老い」を防ぐと考えられます。精神が成熟すると、多様な考え方が許容され、柔軟性と高い倫理観により自己を律することができるようになります。必然的に感情も制御され心も安定する。精神の要である知性と感性を成長させ、さらに想像力を使って日々の生活を豊かにしていく。このあり方は「持続可能な平和の原理」を考え抜いた哲学者、イマヌエル・カントの視点と一致するものなのです。

AUTOPOIESIS 188/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『未統合を統合する』

イラスト こがやすのり

 表現にはいろんなスタイルがある。複数のスタイルを描き分けるにはそれぞれがはっきりと区別できている必要があります。もちろん最初は区別が難しい。しかし徐々に慣れてくると切り替えができるようになります。二つのスタイルであれば切り替えは簡単です。しかしそれより多くなってくると混乱してしまう。複数のスタイルが制御できない状態を、精神分析の世界では統合失調の状態といいます。これはそれぞれの区別が心理的についていないことが原因です。逆にいえば、複数のスタイルを描き分けることが出来るようになるプロセスと、統合失調の状態が回復していくプロセスは重なる所があるということです。
 もちろんプロセスは同じでも、実際の統合失調では抑圧などの心的な抵抗が絡むので、質的な違いがあります。しかし心的な抵抗が絵のスタイルの未統合に影響している場合もあります。よって複数の絵のスタイルを描き分けることが出来るようになることで、実際の心的な抵抗が軽減されることがあります。もちろんただ機械的に描くだけでは、心的な領域とのつながりがないので未統合を統合させる効果は期待できません。少なからず「心とのつながりのある表現」をすることが前提となります。 
 絵によって未統合なもを統合させるプロセスは、心理学的にはフロイトよりもユングの考え方が有効です。カオスから出発しセオリーに従って分節化して整理する。無意識を意識へというユングのプロセスに沿ってスタイルを整理する。もともと整理されたものから出発すると、整理自体が消滅するのでプロセスを経ることができません(これはフロイト的です)。つまり自ら整理するという経験的なプロセスが重要であるということです。これは知識による理解と根本的に違うところであり、ゆえに統合失調という状態の解決が難しいことを意味しています。自らの発見により世界が制御されていくプロセスは、創造そのものであり、ユングが創設した分析心理学の要です。彼は創造によって人は回復すると述べているのです。

AUTOPOIESIS 187/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『絵の本質について』

イラスト こがやすのり
 世の中には「絵の描き方」というものがいろいろとあります。デッサンから油絵の描き方まで様々です。そしてその描き方には適応範囲があります。たとえば「水彩の描き方」とかいてあれば、油絵には適応できない部分があります。さらにデッサンのように多くの技法に共通する部分と思われている描き方にも適応範囲があります。たとえばピカソの絵のようなスタイルだと、デッサンの描き方からすれば誤った表現となります。しかし今ではピカソの絵をデッサンという狭いくくりで見る人はいません。しかしデッサンのような正解と不正解がはっきりつけやすい視点が、芸術の世界でも絶対基準として採用されがちなのは事実です。
 「絵の描き方」にはたくさんの種類(価値体系)がある。そしてその描き方には必ず適用範囲がある。よって描き方の種類の違うもの同士で比較すると、お互いが不正解となってしまいます。別の言い方をすれば、狭い範囲の「絵の描き方」を採用すると、それだけ表現の禁止領域が増えることになります。じつはデッサン至上主義(形の狂いをゆるさない主義)が最も表現の抑圧につながります。つまり現実に従属的で自由がない。本当の芸術領域なら、耳が頭についていると「間違い」ではなく「面白い」になる可能性がある。しかしそれが許されない。ここに「表現の自由が許されないのならそれは芸術なのか?」という問題があります。
 本来の芸術は基準に従属するのではなく、そこからの自由と可能性を試す行為だと考えられます。よってただ一つの決まり事(絵の描き方)に従うという姿勢は反芸術だと考えることもできます。しかしなんの基準もなく好き勝手だけではカオスに陥ってしまう。よってそれぞれの描き方を横断しながらも、そこに統一的な足場を持つ必要があります。たくさんの描き方をつなぐ包括的な足場は、実は言語によって文章化できないものです。なぜならお互いを許すと論理矛盾が発生するからです。このような包括的な足場は、言語以前の「経験的な理解」でしか作ることができない。いうなれば「会得」するしかないものです。非言語表現である絵の本質がここに隠されていることは言うまでもありません。

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『絵による対話』

イラスト こがやすのり

 世の中にはトランプを使ったゲームがいろいろとあります。誰が考えたのか不明ですがそれぞれのルールに従った面白さがあります。お互いにルールを守り合うことでゲームが成立する。これはコミュニケーションが成立する原理とよく似ています。たとえば「七並べ」のルールしか知らない人と、ポーカーのルールしか知らない人同士では、同じトランプを使っていてもゲームは成立しません。これは当然です。しかし同じ「七並べ」のルールを知っていてもゲームが成立しないときがあります。それはどちらかがルールを破るときです。このような非対称な関係では一見してゲームが成立しているようで、実質的にはゲームが成立することはありません。
 トランプを言葉に置き換えても同じことが起こります。一見おなじ言葉を話しているようでありながら、対話が成立しないときがある。たとえば会話をしていてもどちらかが(答えありきで)一方的に無視している時。あるいは相手の情報を、自分の都合の良いように歪曲している時などです。同じ言葉を話していても、それでは対話が成立しません。これならお互いのルールが平行状態にある外国人と、片言で話すほうが対話は成立します。つまりコミュニケーションの成立の一番の条件は、言葉ではなく対話の姿勢や、お互いのルール(価値体系)が平行であるということです。
 通常はコミュニケーションが成立することが多いので、お互いの価値体系が平行にあることを意味しています。もしお互いの価値体系が少しずれていても、対話によって平行状態をつくることができます。ときに苦労することがあっても、お互いの対話成立の可能性はつねにあります。しかしどちらかが対話を拒んでいたり、対話を成立させなことで優位性を持とうとする場合は成立しません。しかしこれは「言語による対話」での話です。例えば「絵よる対話」であれば、そのような状態でも対話が成立します。たとえばゴッホが人々との対話を拒むようにして描かれた絵をみて感動する。絵の中からいろんなことをイメージします。影響を受けて作品を作ることもある。この場合は言語的な価値体系が非対称であってもコミュニケーションは成立する。そう考えると「絵による対話」は、言語的に解決不能な問題を、別の次元から根本的に解決する可能性を秘めているのです。

AUTOPOIESIS 185/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

 

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