『納得をつくる方法』

イラスト こがやすのり
 何かに挑戦する。目的を達成するために、物事を上手く行かせたいと思ってトライする。もちろん上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあります。そして上手くいかないと努力が水の泡だと思ったり、もうだめだと諦めたりする。このように、物事は上手くいくことが良しとされ、上手くいかないことはダメなことだと思われています。しかし上手く行かないことのほうが長期的は良い場合も少なくありません。
 例えば最初の挑戦で何かに成功したとします。それは偶然に上手くいっただけかもしれない。しかし上手くいったのでもうそれについては考えない。これがもし何度も失敗したのちの成功だったとしたらどうか。失敗の経験から「修正箇所」という有益な情報を得て、自分なりの法則を発見し、時間をかけて成功に至ったとすれば、その法則が他でも応用できる可能性があるのです。
 こう考えると物事の本質は結果ではなくプロセスにあることが見えてきます。結果はトロフィーのようなもので本質はプロセスにこそある。そうなれば一挙に全てのことが無駄ではなくなります。全ては一本の映画のように本質の構成要素となる。つまり目的や結果はその本質的な要素を作り出すための「方向性」だと考えればよいのです。なので良い映画が出来れば、もしトロフィーが得られなかったとしても問題ありません。ここに成功や失敗を超えた「納得」という「本質に対する満足」があるのです。

AUTOPOIESIS 193/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『才能を伸ばす』

イラスト こがやすのり
 植物の種があるとします。何の種であるか、どのように育つかはまだ分からない。その種を土にまき、水と光を与え続ける。すると芽が出て少しずつ枝葉が伸びて植物らしくなってくる。やがて大きく育ち、美しい花が咲いたとします。ここにきて初めてその種がどのような植物で、どのような花が咲くのかが分かります。
 人の才能も同じように、最初はどのような才能があるか分かりません。いろんなことを試してみて、得意なことや不得意なことが分かってくる。そして得意なところへ水と光を与えていく。すると期待以上に大きかったり、立派だったりする。もちろんそれがはっきりするには「根気よく育てる」必要があります。どんな花が咲くか見てみたい、という気持ちが育てる原動力です。
 絵を描くときに、完成イメージが決定している「技法」に従い描くことがあります。これは既にどのような花が咲くか(未来)が分かっていて描くようなものです。その意味では「自分の才能を育てながら描く」こととは違います。つまり技法の習得と才能を育てることは全く別のこと。もっといえば逆のことなのです。よって技法だけを学ぼうとすれば、その人の才能は育たなくなる。これは絵の講師を経験して気付いたことです。よって教室での技法は最小限にとどめ才能(能力)を伸ばすことに時間をあてています。「既にある技法」ではなく、才能を伸ばすことで必然的に生まれる技法こそが大事なのです。

AUTOPOIESIS 192/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『文化的な型』

イラスト こがやすのり
 人間は生物であり動物である。しかしキリンやゾウのように自然そのものの生き方はしていません。人類史が示すように、人間も最初は原始的な生き方をしていました。しかし脳が発達して火や道具を使うようになり、やがて文明を築くようになった。それとともに自己を律する術を覚え、原始的な自然状態から文化的な生活ができるようになりました。つまり放っておくと原始的になる自己を律するのが「文化的な型」であるということです。
 たとえば学級崩壊という現象があります。監視が弱まったときに(相手がなにも言わないときに)、自己を律する力のない個人や集団が「原始的な振る舞い」に身をゆだねる。そして無秩序化する。つまり「文化的な型」がないゆえに、好き勝手な利己主義に陥る。このような原始的なレベルを抑制するには、罰を与えて秩序を強制するか、「文化的な型」を獲得させるかのどちらかしかありません。
 原始的なものを抑制するときに、罰(たとえば叱責や体罰など)によって強制すると、これは調教になります。家畜ならまだしも相手が人間であれば、やはり「文化的な型」を獲得してもらうほうがいい。「原始的な欲動」を抑えることで得られるものを知ってもらう。それが好き勝手な振る舞いや、奪い合うことで得られるものよりも、さらに良いものであることを経験的に知ってもらう。抑制によって到達できる文化とコミュニケーションの領域にのみ、犠牲の上に成り立つ世界にはない「ウインウインの関係」(非ゼロ和)が矛盾なく成立するのです。

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『AIと自我』

イラスト こがやすのり

 テクノロジーの発達によってこれまで考えられなかったことが起こる。たとえば、写真のコンクールでAIが作った写真が賞に選ばれてしまったというニュースがありました。これは写真コンクールの前提が問われる事態だと言えます。つまりAIの登場によってこれまでの価値観が大きく揺らぎはじめた。AIは大量の情報を正確さをもって瞬時に扱うことができます。その領域で人間はかないません。電卓のおかげでソロバンを使わなくなったように、AIでやれることは人間はやる必要がなくなる。それとともに、AIではできない領域に価値があることがはっきりしてきます。
 AIが得意な「大量の情報を正確に扱う」ことは、人間がやる必要がなくなっていく。例えば本をコピーするときは、以前は写本だった。一つ一つ模倣して書いていた。しかしグーテンベルクが活版印刷を発明してからは、複製に数年を費やしていた人は、自由になり他のことができるようになった。これと同じ現象がAIの登場によっても起こります。今まで時間をかけて制作していたものを、より早く正確にAIが作り上げていく。とくにデジタル制作の現場は、熟練者と初心者の差異がなくなってしまう。これは避けられない現象です。機械が得意とする方向での制作領域はすべてそうなってしまう。
 しかし機械にはできないことがある。AIが作り出せないものがある。それはオリジナルに関わることです。AI自身とAIが制作するものには「オリジナル」がありません。人間で言えば自我がないことと同じです。これはSF小説のテーマにもある「アンドロイドとアイデンティティ」の問題ともいえます。AIが無限の複製力であらゆるものを生産しても「自我による制作」はできない。哲学者であり精神科医でもあるカール・ヤスパースは、自我の特徴を「単一性」と表現しています。他に同じもののない(繰り返せない)単一な存在。そう言ったものはAIでは作り出せない。自我をもつ人間だけが作りえるものです。テクノロジーの発達によって、不必要な作業(努力)を手放し、そのことで生まれる時間を「アイデンティティによる創造」にあてる時代に来ているのです。

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『主体性について』

イラスト こがやすのり

 自分の意志をもって決断したり行動したりする人を、主体性があると表現することがあります。つまり自分で決定する力があるということです。これは自分の選択と行動の結果は基本的に自分の責任であると“みなす”態度と言い換えてもいいものです。逆に言えばそうみなすことで初めて意志や決断力が高まり、自らの主体性を発揮することができる。
 全てを自分の責任とみなす。このみなすことが大事で、なぜなら全ての物事は自分に責任はないと考えることもできるからです。スピノザ(17世紀の哲学者)がいうには、自分の選択は他人の影響やその日の天候や事件に左右されていて、自分に責任があると証明できない。だから全てを操っている神にしか責任がないのだというような事を言っています。しかしこれではひとはみな無責任になってしまう。
 このスピノザの考えから、主体性が希薄な状態のうらには、神(絶対神)に相当する依存対象があることが推測されます。この神に相当するものは世間や親や規則(あるいは法則)といった従属しがちなものです。この絶対的な基準に対して従属的であるかぎり主体性をもてなくなる。自分の意志や決断力が高まらない。しかし逆に言えば、そこから自立すれば、主体性と自己決定能力は高まり、すべての結果が自分のものになっていくのです。

AUTOPOIESIS 189/ illustration and text by : Yasunori Koga
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