『新しいとは』

 「新しいこと」を取り入れる。これは良いこととされています。なぜなら放っておくと古くなるからです。身体は水や食料といった「新しいもの」を摂取し、古くなったものを排出することで維持されます。つまり新陳代謝です。それは「もの」だけでなく、知識や文化といった「こと」にも言えます。
 新しい知識や情報を取り入れる。これは現代人のなかば至上命令として作用しています。学校で学習しネットで検索し、会話で情報を得る。出来るだけ多くの「新しいこと」を知ることが有利である。そのような観念をみな無意識に持っています。それによって自分はより新しく強化されると。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも「新しいこととは何か」という問題があります。例えば、芸術の世界では、新しい表現に価値があります。亜流は無価値だと判断される。しかし現代の芸術には、一見すると古典的な表現もなかにはあります。しかし最新の芸術として評価される。つまり表面的な新しさが「新しいこと」ではないということです。
 水や食べ物のような「新しいもの」は、鮮度として計ることが出来ます。しかし「芸術表現」といった「こと」に関しては、客観的に図ることが出来ません。物理的なものを計る「明確な物差し」がないからです。よって量的に測れないものは、心で感じ、精神によって「判断」するしかありません。
 見た目ではなく、本質的な新しさは、量的には測れない。よって心で「感じ」、精神で「判断」するしかない。ここに「新しいこと」を認識することの難しさがあります。量的に測れないということは、機械には認識できないということです。鮮度や時間にかかわることなら機械で認識可能です。しかしそれが不可能な場合は、人間のような「心を持つ者」でしか判断できないということです。

古賀ヤスノリ コラージュ
 話しが複雑になってきましたが、この論考のテーマは「新しいとは」です。新しさには「こと」と「もの」があり、前者は数量化できるが後者は数量化できない。量的に測れないものは、心で「感じ」精神で「判断」するしかありません。つまり「新しい」には「量的な新しさ」と「意味的な新しさ」の二つがあるということです。
 「量的な新しさ」とはつまり「物理的な新しさ」です。それに対する「意味的な新しさ」とは「精神的な新しさ」です。たとえば「新しいショップがオープンした」という情報は、物理的な新しさです。最新のモード、有名人の振る舞い、企業の広告、すべて「量的な新しさ」です。それに対し、物理学者が新しい発見をしたのなら、それは「精神的な新しさ」です。たとえそれが、過去の論理や数式の組み換えや応用に過ぎなかったとしても。
 人々が「新しい情報」を取り入れる。しかし、ただ溜め込むだけでは新陳代謝は起こらず、阻害の原因にすらなります。真の意味での「新しい情報」とは、それまで蓄積した情報を刷新し、古いものを排出する。そのような作用をもつものが、量的に測れない「新しいこと」です。それは客観的な物差しがないので、自分自身で判断するしかありません。つまり「自分にとっての新しい」ことです。それは心でしか「感じる」ことが出来ないものです。
 「量的なもの」「物理的な新しさ」は誰にでも分かるものです。だからモードを一般として共有できる。しかし「新しいこと」は「新しい発見」であり、それはその人の発見です。芸術や学問のように、それが一見古い見た目であったとしても、そこに新たな発見を見出せれば、最新の情報に昇華する。これは精神的な新しさであり、量的には測定不可能です。この「新しいこと」が、心をもった人間にしか量れないのであれば、ここに個性や自我といった、人間の根本問題が隠されていることは、疑いのないことなのです。

AUTOPOIESIS 0060/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『社会的な多様性』

 生物多様性なることばをよく見かけます。それとともに「多様性」という言葉が、様々な場面で使われるようになっています。そもそも多様性とは「違いの共存」とでも呼べる状態を示しています。自然界はまさにそのような状態であり、それらの違いが影響し合い、一つの生態系をかたち作っている。つまり個々の違い(差異)は、自然にとって不可欠なものです。
 生態系にとってなくてはならない「多様性」は、自然発生的に生まれる差異です。それはエコシステムにとっての重要な要素。もし個々の差異がなくなり、すべてが一様となれば、エコシステムは停止する。つまり「個々の違いが全体(エコシステム)を機能させる」という意味においてのみ、「多様性」が重要だとうことです。
 しかしこの「多様性」という言葉が、いま自己正当化の方便として使われています。自分(或いは所属する組織)を、周囲が認めないのは多様性に反する、といった具合に。しかしこの論理を突き詰めると、泥棒の多様性を認めよ、暴力をふるう多様性も認めよ、ということにもなります。彼らには「多様性」がエコシステム維持のための「分散機能」であることが理解できていません。ただ言葉の意味が悪用されているだけです。「多様性」を自己正当化と思い違いをすると、逆に人間にとっての生態系である「社会」が腐敗していくことになります。
 社会的なエコシステムが機能するための「多様性」を、どのようにつくりだすか。これが今後の人類のテーマです。生物多様性にできるだけ近い形で、「社会的な多様性」を実現させていく。そのためにはやはり、自然界の多様性を手本にする必要があります。自然界の多様性は、たとえ暴力的に見える捕食者であっても、そのすべての行動と結果が生態系維持のための重要な要素になっています。それに対して社会的な暴力は、ただ社会を破壊するだけです。

古賀ヤスノリ イラスト
 これまでの社会は、自然環境を人工的に整備(制御)することで成立してきました。自然と共存していた先史時代の社会とは違い、現代の社会は自然を制御し利用するだけで、基本的には自然と断絶しています。自然から隔離された環境内(現代社会)での暴力や破壊は、社会の無秩序化と、環境破壊へ向かいます。自然のエコシステムによる再生産機能が、今の社会には存在しないからです。よって「多様性」と自己正当化を混同することは危険なことなのです。
 今後、自然がもつエコシステムを社会が獲得するためには、真の意味での「社会的な多様性」の成立が必要不可欠です。それは個々が「なすがまま」を正当化するのではなく、エコシステムにとっての「多様性」を理解することから始まります。その意味でも、「自然との共存」を高次元で回復した「環境主義的な社会」をイメージすることが大切です。自然を制御するのではなく、環境の変化に対応しながら変化していく社会。「自然との同期」と「社会的な多様性」の確保は、これから同時に行われるのて行くだろうと予想されるのです。

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『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

古賀ヤスノリ イラスト illustration

 ハリウッドスターとしての全盛期を過ぎた主人公。彼は再び脚光をあびるべく、ブロードウェイに進出する。過去の栄光を忘れられない人格として、「バードマン」という妄想人格が度々現れ、ハリウッドへ戻れとささやく。不慣れな舞台、薬物依存からの更生中である娘、利己的な天才俳優など、彼を悩ませる要素との葛藤を背負いながらも、権威ある批評家の眼に舞台をさらす。「無知の奇跡」が「芸術的創造」のプロセスそのものであることを、超絶的な長回しと“怪演”で証明してみせるたシネマの限界点。

vol. 046 「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 2014年 アメリカ 119分 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
illustration and text by : Yasunori Koga

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『現実の受け入れ』

 「現実を受け入れる」。これが全てを正常化させる特効薬である。この考えは方はいつの時代でも正しく、ニーチェからゴダールまで、あらゆる巨匠たちが現実に従うことを肯定しています。この「現実を受け入れる」とは一体どういうことなのか。それは「ただ周囲に従う」(状況に流される)こととはどう違うのでしょうか。
 「現実を受け入れる」とは「積極的な受け入れ」を主体的に決定しています。「現実を受け入れる」ことで改めて出発することができる。それに対し「状況に流される」とは「消極的な受け入れ」であり主体は抑圧されています。さらに次の発展もなく「諦め」によって周囲に流されるままになっている。
 「現実の受け入れ」は「前進のための再認識」であり、それは「積極的な自己修正」です。それに対して、「状況に流される」とは前進を拒むための「服従」であり「消極的な自己正当化」です。つまりこの二つは似ても似つかぬ対局にあるものなのです。しかし似ているがゆえに、しばしば「服従」を主体的な決定と思い、「諦めの肯定」を「前進」と思う。
 「現実の受け入れ」があらゆる時代の最善の方法でるならば、その対極にある「現状への服従」が時代を超えて最悪の方法であることは疑いがありません。最悪の方法をとるのは怖れや弱さからであり、そのような自分の現実を「受け入れられない」がゆえに、自らの選択が「現実の受け入れ」であり「前進」であると「自己偽装」する。「自己偽装」とはパラドクス(出口のない構造)であり、容易には現実に出ることが出来ません。  

古賀ヤスノリ イラスト

 「服従」とは「現実の受け入れ」が困難になる心的状態です。それは親への服従であれ、権力への服従であれ、すべて同じことです。服従者はつねに「自己偽装」によって「自己正当化」を繰り返します。我こそ現実を受け入れて前進するリアリストであると考える。しかしそれこそが、「弱さ」と「諦め」によって生まれた服従者の「自己偽装」なのです。「周囲に流される者=服従者」は権力によって現実(出口)を遮断された「妄想者」と言ってよいでしょう。  
 「現実の受け入れ」を拒絶する服従者は、「弱さ」と「諦め」によって周囲に流される。その事実を受け入れられないがために、主体的に前進していると「自己偽装」する。ここに「現実の受け入れ」による「自己修正」はなく、「永遠に変化なく一歩も進まない」という事態が起こります。個人であれ組織であれ、「権力と服従」によって成立している構造は、必ずこの「非生産性」を露呈する。この「権力と服従」による「非生産性」を正常化させるには、「現実の受け入れ」による「自己修正」しかありません。究極の現実対峙は「死」であり、人類にとってのそれは、天災、戦争、そしてウイルスによって喚起させられると考えられるのです。

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『数による支配』

 民主主義とは民衆(デモ)による支配(クラシ―)です。さらに、日本は間接民主主義なので、民衆の代表が数によって選ばれ、代理として国の意思決定を行う仕組みです。よって多数決という「数の支配」で全てが決まります。このような「数の支配」は資本主義も同じです。数による投票の結果だけが反映されていく。言い換えると「数が少ないものは切り捨てられていく」ということです。
 しかし、現実の世界では「数が多いから重要」ということは返って少ない。むしろ「重要な部分」は全体の一部であることが殆どです。この事実から民衆の「平均値」が国を支配する「ポピュリズム」の危険性が指摘されます。ある集団の最も優秀な人材が、船の舵取りをするのではなく、集団の平均的な人材が、優秀な人材の意見を無視して舵取りする。もちろんこの結果は、平均的な人材が満足することになり、優秀な人材にとっては納得いかないものになる。

ペンギン イラスト 古賀ヤスノリ

 資本主義のような多数決は必ず「格差」を生むと言われています。民衆という平均的な意見が「格差」を生むという逆説。実際は多数決という方法自体が不平等な形式といえます。「数の支配」も結局は支配であって、それは権力を作り出します。格差とは平等に流れないように、権力が力を加え続けることで維持さる。「多数決が平等」という「とりあえず」の取り決めの限界が、真実としての平等を阻害し続けている。そもそも「平等」とは数ではなく究極的には「精神の平等」であり、それらが数によって測られないという前提を喪失した結果の事態なのです。

AUTOPOIESIS 0057/ illustration and text by : Yasunori Koga
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