『数は質を生むのか?』④

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 数が質に繋がらないのは、数が複製的なコピー増殖だからです。大量生産されるものは一挙に数が増えても全てコピーであり、全体としては一種類です。このような数の増殖の展開に進化は発生しません。つまり増殖しているものの「内的変化」がない。むしろ「内的変化」を禁止することでコピーとしての数の増殖が可能となります。もしコピーではなく別種のものを生産すると、それは常に「新しい一つ」であり数としての増殖ではありません。
 例えばオリジナルを模倣して、さらにそれを別の人が模倣したとします。すると少しずつオリジナルからズレていきます(コピーのコピーは劣化する)。この場合は生産されるほどにオリジナルとは別のものが出来る。どれも新しい一つであり、同じものが増えるわけではありません。このような「別種のものの連続性」の中には変化があります。しかし常にオリジナルを手本とした、まったくズレや劣化のない模倣には変化がありません。ここに「進化のある世界」と「進化のない世界」の区別があります。
 別の側面から言うと、常にオリジナルを手本とする模倣には「歴史」がありません。それに対してオリジナルの手本から離れていく模倣の模倣には「歴史」が含まれます。模倣するたびに一回性の時間と機会性が含まれていく。この二つは似ているようで別次元の生産プロセスです。つまりオリジナルを手本とする模倣は、無機的で無変化、無時間的であるがゆえに進化の可能性がない。それに対してオリジナルの手本から離れていく模倣の模倣(歴史的生産)には、時間的、空間的な変化があり、突然変異的な化学反応の余地があるということです。よって「歴史的生産」の連続は、オリジナルを手本とするコピーのように「数を増やす」ということにはならない。数ではなく、毎回違った「質」を増やしているのです。
 数が質を生まない理由はここでハッキリしてきます。数は現状維持でありその生産過程は無機的、無時間的、無空間的です。そこに質的な昇華の可能性はありません。それに対してオリジナルから離れていく「歴史的生産」は、時間的、空間的な変化があり、そこにランダムな突然変異が起こる可能性がある。この世界にしか進化は発生しません。保守が進化を阻害するのはこのためです。「歴史的生産」の世界にのみ進化の可能性がある。この進化の可能性は全くランダムで制御できないものなのか。私たちは進化をただ偶然に待つしかないのでしょうか。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『数は質を生むのか?』③

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 生物進化は「突然変異」がランダムに起こり、結果的に環境に適した形態が残っていく。人間が訓練によって何かを会得する時は、それまでの訓練のレベルが「経験的に理解」(認識)され、そのレベルから解放されることで質的な向上が発生する。つまり生物進化という物理的な「質的転化」はランダムに起こり、人間の精神的な「質的転化」は「認識」によっておこるという事です。
 この理解から自然を擬人的に見れば、自然が新しい認識を持った時に、「質的転化」が起こることになります。逆に人間の精神的な「質的転化」はランダムな「突然変異」によっておこる。やや非科学的な見方ですが、演繹が困難な事象にたいしては形而上的なレベルでの暫定的な解釈が有効です。そもそも「ランダムに突然起こる」という発想は非科学的ですが、自然科学の分野でさえそのような「形而上的な辻褄合わせ」で体系を保っています。よって自然が認識し、精神がランダムな「突然変異」によって進化する、という視点も導入しておきます。
 自然であれ精神であれ「突然変異」は認識によっておこり、その認識の仕方はランダムである。つまり一般的にパターン化されえないとうことです。言い換えると認識は個々によりさまざまなタイミングがあるということです。ただし認識に到達する条件がある。その条件がないところに認識と「質的転化」はないということです。魚が進化せず魚のまま生きる世界と、魚がエラ呼吸を捨てて陸に上がる世界は別の世界に属しているということです。
 進化のある世界と進化のない世界がある。二つは似て非なる別の世界です。もちろん生きている環境(場所)としては重なっているが、次元が別なのです。たとえば、同じ世界に生きていても、考え方や認識、持っている世界観が違うと、まったく違う世界に生きていることになります。たとえ言葉を交わしても、理解の仕方が違うと、それはもう別の世界に生きている事と同じなのです。自然であれ生物であれ進化のある世界と進化のない世界があり、その二つは場所的には同じでも「質的」には違うのです。ではいったい、この二つの世界を区別する方法はあるのでしょうか。

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『数は質を生むのか?』②

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 数と質は別のレベルに属するものであり連続していない。ゆえに数を増やすことは、そのレベルを固定することになり、逆に質への転化を阻害することになる。このような構造を見る限り、数が質を生むとは考えられません。しかし数が減ると最後には消滅してしまいます。その意味では数はそのレベルを維持するために必要だと言えます。
 数はあるレベルを維持するために必要である。よって数を目的としているうちは質への転化はありえません。同じ質のものを生産し続けても、そこから上質のものは生まれない。ならば質への転化はどのようにして起こるのか。低質が高質へと変化するためには、数によって維持しているレベルを捨てなければなりません。魚が魚であることを捨てたときに両生類へと変化できる。今のレベルを正当化しているかぎり進化はないのです。では「捨てる」ということはどういう事でしょうか。
 自分自身を捨てる。そして新しい質を得る。この二つは同時に起こります。しかも漸次的ではなく一瞬で起こる。例えばキリンの首が少しずつ長くなったことを示す、考古学的な証拠は存在しません。それは漸次的にではなく一挙に進化することを示しています。キリンの前身にあたる動物は、そのレベルを維持するために数を増やし続ける。そしてある瞬間から首が長くなりキリンになる。数が進化の原因ではありません。生物進化は遺伝子の「突然変異」として説明されています。その変移はランダムに起こり、結果的に環境に適応したものが残る。突然ランダムな変移が質を向上させるというわけです。
 しかし何かを練習してレベルが上がる時、その原因がランダムに与えられるということはありません。何かの訓練でいえば、その訓練で会得し理解した瞬間に、その訓練のレベルから「解放」される。つまり訓練しなくても出来るようになる。この時点で以前の質は捨てられる。そして新しい質的レベルに入ります。このキッカケはランダムに与えられるものではなく「経験的な理解」(認識)によって起こります。もし自然を擬人的に捉えるならば、自然が状況を「経験的に理解」(認識)したときに「突然変異」が起こると言えるのです。

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『数は質を生むのか?』①

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 数は質を生むのか。これはあらゆる領域に横たわる普遍的なテーマです。よって漠然としたゴールは直感しながらも、細部は不明なまま、論考を進めることになります。つまり行き先が分かって進む「決定論」を捨てて、未知の領域へと分け入るということです。実はこのプロセスと今回のテーマは本質的に重なっていると思われます。その直感を順を追って証明しいく事にしましょう。
 まず「数」とは何か。「数」とは抽象概念であり、実体ではありません。三人は3に置き換えられますが、実体として三人が先にある。5つのグラスは5個の実態を5という数字に置き換ることができる。さらに数には123…と順序があります。抽象的な規則性がある。それに対して「質」には実態を置き換えることも、抽象的な規則性もありません。「質」とは内容であり、本質であり、純度のようなものです。
 たとえばリンゴが3個あるとします。数としては3に置き換えられます。しかしその中の一つが腐っているとします。するとそのリンゴの「質」が悪いと言います。内容が悪く、純度が低く、本質的でない状態です。「数」はそういった「質」を無視したカウントにすぎません。この二つの概念は全く別種のレベルに属するものであり、決して連続してはいません。
 よく「数が質を生む」という言葉を耳にします。練習をたくさんすることで何かが上手くなる。たとえばテニスや書道や小説の訓練など。しかし本当に「数」を増やすことが「質」に繋がるのでしょうか。必要な技術や知識の「数」を増やすことが「質」の向上なのでしょうか。もしそうなら進化の過程で、魚が繁殖し「数」をどんどん増やすことが進化に繋がることになる。しかし魚は現在も魚として存在し続けています。魚から進化を遂げた生き物は「別の方法」によって枝分かれ的に進化しているのです。
 進化とは「質」の向上です。進化の「質」を段階に分けることで、魚類から両生類、爬虫類から哺乳類という「質的段階を見ることが出来ます。しかしこの段階の間には断絶があり連続していません。魚が「数」を増やすだけでは一向に両生類にはならない。なぜなら魚が「数」を増やすことは、魚のレベルを固定することだからです。ここに「数」を増やすことのパラドクスがあります。進化や質の向上からすると、「数」を増やすことはむしろ逆行を意味することになるのです。
 

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑥

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 出口のない迷路から見えてきた月と、そこから発見した「相関性の原理」。入口と出口が重なり見分けがつかなくなった時、その構造はパラドクスとなり「内側しかない世界」となります。迷路の住人が外の世界と関係が切れたとき、あるいは外を否定し内部だけを肯定したとき、その構造は閉じて出口を失う。つまり外と内の相関性が失われた時、迷路は出入口を失い、脱出が不可能になるということです。
 迷路の外と内の間に相関性が失われた時に、迷路は出口なき構造となる。ならば再び外と内の間に相関性を作り出すことで、出入口が現れるのではないか。相関性は類似点を言葉や数字で括ることで生まれる。逆により小さな違いを分類することで、相関性の原理を免れると書きました。つまりそれまでは迷路の外側が「外」であり世界の「全体」であった。しかし迷路に入り込むうちに、迷路の外側が忘れ去られ、内側だけが世界の全てになってしまったのです。
 「資本主義的な相関性」から免れる方法は、数字や言葉による括りよりも、物事のリアルな「違い」に目を向け、注意深く分類を行うことでした。これとは逆に、出口のない迷路から脱出する方法は、外と内の相関性を取り戻すことです。つまり外と内が相関するレベルまで、内的に細分化した世界観を、大きく俯瞰して「全体を取り戻す」こと。そのためには細部を省略し、より大きな塊を全体として認識する必要があります。顕微鏡のレベルで世界を見ている限り、迷路の外と内が相関することはないのです。
 細部を省略し、より大きな塊を全体として見る。その全体をまた一つの分子として考え、その分子の集合体としての全体を見ていく。つまりマクロ的な視点を導入していく。このように「ミクロ視点からマクロ視点へのターン」を行うことで、迷路の外が見えてきます。この時点で迷路の内と外の相関性も回復される。出入口を探すまでもなく、私たちはすでに迷路の外に脱出したことになります。
 資本主義的な負の相関性は「マクロ視点での記号化」(共通概念による括り)と「貨幣経済」が無謀議に結びつくことで発生しています。この「マクロ視点」と「相関性」という所では「迷路の脱出方法」と重なります。しかし資本主義的な「負の相関性」は言葉や数字による記号化が要です。そのことによって形骸化という大問題を引き起こしています。それに対する迷路の脱出に利用した「マクロ視点」の導入は、「イメージによる相関性の回復」に他なりません。私たちは数字や言葉を超えた「イメージを思い描く力」(想像力)を使うことで「記号的に不可能と思われる構造」を超えていくことが出来るのです。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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