『仮想と現実』

古賀ヤスノリ アクリル画

 人間にとって「仮想と現実」の違いは何処にあるのでしょうか。現在ではネットなどの仮想の中で生きる人たちも無視できない数になっています。たとえば引きこもりの人たちで、かろうじてSNSやその他のネットによって生きている人もいます。そんな人たちに、仮想でなく現実に出ようと言っても効果はないでしょう。それに現実へなぜ出なければならないか、という明確な理由を突きつけることも難しいでしょう。
なぜ「仮想より現実へ出るべきだ」という根拠を述べることが難しいのでしょうか。それは、「仮想と現実」の真の意味においての区別をつけなければならないからです。これは簡単なようで思った以上に哲学的な問題をはらんでいます。仮想には重さも匂いもないと言って、現実との違いをあげつらう事はいくらでも出来ます。もちろんそれらの要素は現実と仮想の大きな違いを指摘しています。しかし最大の問題はそこではありません。仮想と現実の違いを認識するときに絶対に避けて通れないのが「何をもって現実とするか」という事です。
 私たちは、ある事件が起こるとそれがニュースとなり、他人と共有できる現実だと考えます。一人でいるときでも、目の前にあるパソコンやキーボードは現実のものだと考える。しかしそれが本当に現実だと証明できるかということです。もしかすると夢の中で見ているだけかもしれない。さらに精神的な疾患や、生理学的な異変から「妄想を見ている」かもしれない。このように私たちは目の前に「現実としてある」と思っていることの根拠を確かめることは難しいのです。
 キーボードを触ってみる。嗅げばプラスチックの匂いがする。そして五感が現実を認めていると言います。なるほど仮想にはそのようなものがなく、それをもって現実の根拠と考えることは出来きます。しかし、精神病理学の知見によれば、触覚や嗅覚のような原始的な感覚にも錯覚的な妄想があるということです。さらには夢にも確かな手触りや匂いがあることもあります。そうなればどこまでいっても、現実を現実だと確証できる根拠がないことになります。ないのなら、現実とはそもそも‟無い”という意見も成り立ちます。
 もし「現実が無い」となると、仮想も途端に今まで現実と言われてきたものと同じレベルへ昇格されます。しかし直感的にいって「仮想と現実」には明らかに違いがある。ならば私たちが「仮の現実」として認めている世界は何なのでしょうか。それは「他人も現実と思っているに違いないもの」が「仮の現実」として個人で認識されているものではないでしょうか。だからこそ、時に個々人での現実認識の食い違いがある。
 証明できる確実な現実がないのだから、「仮の現実」として近似値的な世界観を現実としている。その現実は人間の五感で確認できる空間と時間を持った世界です。そのような世界の中に新たに生まれた「仮想ネットの世界」は、感覚的には制限された「疑似的な現実」、「仮の現実」の中にあるもう一つの仮の世界です。あたかもそこに現実を見出せるのは、感覚不足を補うための「精神の補填作用」があるからだと推測されます。つまり不足した感覚を疑似的に妄想で補うことで、仮想は現実と平行を保つことが出来る。そうすることで初めて人間は仮想に住まうことが出来る。しかし仮想に住まい続けることなど許されていないがゆえに、仮想世界に不足した要素を妄想で補填し続けることになります(つまり嗅覚、触覚、空間や時間を無意識の領域で感じ続けることになる)。
 現実認識の不可能性の視点から、普段人々の間で現実と呼ばれているものが、「仮の現実」であることが見えてきました。その意味では「仮想と現実」の区別はつけられない。しかし現実を「仮の現実」としたときに言えることは、ネットのような仮想は「仮の現実のなかの仮の現実」という一つ下のレイヤーに位置する世界だということです。その一つ下のレイヤーという別の世界に住まうために、「仮想に不足する感覚要素」を妄想で補填する。つまり一般的な現実も「現実」などではないが、仮想は一般的な現実以上に「個人の妄想」によって不足が補われた世界であるということです。感覚要素の不足した仮想世界に対する完全型(モデル)が、現実(仮の現実)であることは明らかななのです。

AUTOPOIESIS 0026./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『方法序説』

古賀ヤスノリ イラスト
「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」
(ルネ・デカルト)

 いわゆる「われ思う、故にわれあり」で有名な、デカルト41歳にして初の著作。「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための」という副題が示す通り、「哲学書」であると同時に「生き方の手引書」ともなっている。六部構成で、特に前半部分は、現代の「自由の増大」に比例した「倫理の喪失」という問題に、一つの道しるべを示すものである。第二章では、明証、分析、総合、枚挙、と言った思考判断の奥義が、第四章ではヨーロッパの心身を分離した「心身二元論」(デカルトは終盤二つの一体化を強調する)が語られる。平易で明解な文章。一日で読み通せる長さ。そして普遍的な内容。あらゆる意味で「最も美しい本」と呼びたくなる一冊です。

book / 004『方法序説』ルネ・デカルト: Originally published in 1637
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『共同幻想論』

古賀ヤスノリ イラスト
「国家は幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である」
(吉本隆明)

 人間のあらゆる営みは共同の幻想で成り立っている。その幻想を「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」の三つに分け構造を明らかにする。フロイトの精神分析を軸に、柳田国男の『遠野物語』から「幻想」の位相を取り出す手際がすごい。共同幻想は「禁止」により生み出され、その幻想は共同体の利益のために成立している。しかしどんなに表面的に高度にみえても、「禁止」によって成立する共同性は、未開的な世界であると吉本は言い切る。共同幻想は、現実と妄想の区別がつかない人々へたやすく「禁止」を吸い込ませる。これはまさに現代の社会状況にぴったりと当てはまる。少々難解ではありますが、見えない「社会的抑圧」を無効化する上で欠かすことのできない名著です。

book / 『共同幻想論』吉本隆明: Originally published in 1968
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『引き裂かれた自己』

古賀ヤスノリ イラスト
「現実において行動せず、空想においてのみ行動する人は、彼自身非現実的となる」
(R.D.レイン)

 統合失調症の心理構造を、精神分析の言葉で「文節化」する手法に異を唱え、実存的な立場から現象学的なアプローチで患者の心理に迫る。それは冷たい専門用語による患者の「対象化」ではなく、いわば気持ちの通った視点による‟包含”と言ってよいものです。各部分を記述するのではなく、全体を包み込む。全体的な統一を欠いた統合失調症の人々にとって、そのような心で包み込むような形式自体が、分離した自己を回復させるものとなる。この本の最大の価値はそこにあると思います。大宅壮一の「一億総白痴化」ならぬ「一億総分裂」の危険性をはらむ現代において、本書はその最も有効な処方となる。この手の本にしては翻訳も圧倒的に読みやすい一冊。

book / 002『引き裂かれた自己』R.D.レイン: Originally published in 1960
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『不確定性との関係』

古賀ヤスノリ 絵

 パソコン、スマホ、ゲームにアプリ。全てが仮想であり想定外の事が起きない決定論的な世界。まさに便利な世界が実現しています。ゆえに仕事では長時間利用することになり、仕事が終わってもスマホで仮想にアクセスすることになります。そこで仮想世界で当然だったものを、現実においても当然だと思うようになってきます。物事が仮想世界のように思い通りにいかないと納得できないと思うようになる。
本当の世界は「偶然の連続」で成り立っています。そこに意味を見出したときのみ必然となります。もし高度な数学が発見されて、すべてが計算できたとすれば、世界はすべて必然であると言えるかもしれません。しかし今現在、偶然を法則化する力は人間にはありません。ならば「世界は偶然で出来ている」と言ってよいでしょう。
 パソコンやスマホの中に偶然はありません。しかしパソコンを扱う人間や、それを取り巻く環境は「偶然の原理」が支配しています。パソコンの仕事が予定調和で進んでいるにも関わらず、いきなり体調が悪くなる。或いはビルが火事になることだってありえます。しかしパソコンやスマホの中はプログラム以外の事が起きません。だから安心して、自分の思い通りに事を進めることができます。ここに現実と仮想(非現実)の違いがあります。
 思い通りに行くことが普通となれば、思い通りにいかない事を排除しようとするようになります。つまり不確定要素を排除し、すべてが確定的な世界を作ろうとします。そのような世界でなければ住めなくなるのです。その結果、予定調和の中だけで「閉じる」という現象が起こってきます。閉じると内部にパラドクス構造ができ、エントロピーも上がります。そんな所に不確定な要素である「心」など存在できません。仮想時の脳の状態が、現実に戻っても切り替わらない場合、そのような「閉じる」現象が起こるのではないでしょうか。
 不確定要素のない世界。「偶然の原理」が入り込まない世界で安心したい。そのためには偶然の要素を自然から排除しなければなりません。これは一種の抑圧です。思い通りにいかないことを抑圧することで成り立つ世界。その世界を純化するために、あらゆる方法で不都合な情報を捨象し、歪曲していく。つまり仮想世界の成立は、無意識を抑圧して出来る「自我の形成プロセス」と似ているということです。さらに、単純な予定調和に限れば限るほど、その世界は原理主義的な傾向を強めます。そこに仮想世界と宗教との類似点を見出すこともできます。
 仮想と宗教を重ねて見せたのはフィリップ・K・ディックです。現実の一部を疎外した所に現れる、仮想という宗教世界。つまりそこへアクセスするには「不確定要素の排除」が必要となります。いいかえると、情報の遮断による内部の純化です。その遮断する情報の違いが、宗派や組織などの違いとなります。しかし仮想にしても宗教にしても、その枠の外には必ず不確定要素に満ちた「偶然の世界」があります。枠の中だけで存在することなどできないのです。
 ある程度確定的でないと社会は成り立たちません。しかし実際は不確定要素の連続である自然環境からエネルギーを得て初めて人間は生きることができます。よって確定的な世界に閉じこもると、結局は生きられなくなる。不確定要素を排除し始めることは、その枠内が環境から切り離され始めたことを意味します。つまりそれは内部の死を暗示しています。仮想世界に依存する社会の最大の問題点は、「確定世界の独走(純化)」と「現実世界との関係の喪失」だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0025./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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