『アリクイ』

 アリクイという動物がいます。蟻を主食として生きる動物です。蟻塚の中の蟻を食べるために、口が細長く特化した形状をしています。そうなると他の物はとても食べづらい。完全にターゲットを蟻に絞った専門性。このように生き残りをかけた専門特化は、メリットとデメリットがハッキリと現れます。
 人間もその道を極めると専門家になります。そうして専門特化すればするほど、メリットとデメリットはハッキリします。しかしプロフェッショナルとはそういうものでしょう。逆に言うと、デメリットがハッキリしていない状態は、中途半端だということです。

古賀ヤスノリ イラスト

 メリットとデメリットは表裏一体。もしデメリットを避けることに集中すれば、メリットも得られない。失敗しないために何もしない、ということになります。「専門特化すると環境の変化に適応できない」という意見もあります。しかし、その道の専門家たれば必ず「普遍的な原理」を理解しているはずです。よって他領域への応用も可能でしょう。アリクイは「専門特化の原理」を知るがゆえに、蟻が絶滅してもまた、新しい専門特化を見せるに違いありません。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『意味のかさなり』

 意味とはなにか。意味を知りたければ辞書で調べる。するといろんな物事についての意味が書いてある。これは誰にでも同じ意味として了解できる、いわば「客観的な意味」です。それに対して「主観的な意味」というものがある。つまり「自分にとっての~」というものです。

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 たとえば「学校の校舎が老朽化で取り壊された」というニュースを読む。多少のイメージは湧くも、額面どうりに受け取るだけです。しかしもし、その校舎が自分の母校だと知れば、そのニュースの意味が変わります。一挙に「主観的な意味」が発生する。「自分にとっての校舎」は他人には分からない。
 人々に共通に理解される意味は「客観的な意味」。そこに自分の経験によって感じる「主観的な意味」が重なる。社会は前者の意味で回っている。しかし人間は後者の意味で生きている。このような意味の二重性は、人間に自我があるからこそ生まれた構造です。「客観的な意味」は今や瞬時に引き出せる。つまり「自分のとっての意味」に集中してよい時代なのです。

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『納得の原理』

 現実の世界は「物理的な因果」に従う。リンゴは樹から落ちる。振り子は左右に振れて最後には止まる。人々はそれに従う。しかし人間の心はどうか。愛する人が死んだとして、「心肺停止」で了解というわけにはいかない。つまり人間の心は「物理的な因果」には従わない。

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 ならば心はどのような因果に従うのか。人間の心は「意味的な因果」に従う。愛する人が心肺停止だけで納得できないのは、自分とその人の間に意味があるからです。自分にとっての「意味的な了解」がないと納得には行きつかない。
 「意味的な了解」に至るには時間がかかることもある。理屈だけでは解決しない。「物理的な因果」と「意味的な因果」。この二つの世界を混同すると問題が長引く。二つをハッキリと分けて「意味的な因果」を大切にすることで、人々は納得を得ていくはずです。

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『ダリの絵』

 高校生の時、スペインの画家ダリをモチーフにした作品を作った。構図は右側にダリ、左にはトレードマークの溶けた時計をあしらった単純な絵だった。眼光鋭いダリと、溶けた時計の対比は、いま思えば「形式と内容」というテーマを考えるには格好のモチーフだった。

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 ダリは当時、「無意識」に関心を持っていたパリのシュールレアリスト達と親交があった。その意味ではフロイトの影響が強かったと推測できます。ダリの代表作である溶けた時計のタイトルは「記憶の固執」。このタイトルは明らかに精神分析の視点が導入されています。溶けた時計という「時の変容」に「固執」という言葉が使われている所がなんとも面白い。
 もしダリが記憶ではなく「時間そのもの」が変形することを意図したならば、フロイトよりもアインシュタインが暗示されたことになります。実際ダリの作品には物理学的なタイトルを発見することができます。天才ダリと時計の「奇抜さ」を描こうとした当時の私は、実は隠された「知性」に惹かれて絵のモチーフに選んだのかもしれません。この「奇抜さ」と「知性」の融合こそが、芸術家の存在意義なのでしょう。

 

AUTOPOIESIS 0048/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『種類と質』

 もし向日葵がバラにあこがれて、薔薇に成ろうとすれば結果はどうでしょう。もちろん元気のない色あせた向日葵が咲くことになります。向日葵がバラの花を咲かせることは不可能は努力。花を咲かせるための必要条件が違うので、むしろ自らを弱らせる行為です。

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 向日葵が薔薇にあこがれるとすれば、それは自分にない花の付き方や棘などに注目するからでしょう。自分と比べてそこがはるかに美しいと。しかし向日葵はバラにはなれません。もしバラの美しさを超える方法があるとすれば、それは立派な向日葵を咲かせることです。 
 立派な向日葵は見る人を圧倒します。その美しさはバラにはないもの。よほど美しいバラを咲かせない限り、立派な向日葵を超えることはできません。つまり、種類の違いに優劣などないのです。あるのは個々の質の違いだけです。種類と質は別のこと。これさえ分かれば、向日葵は立派な花を咲かせるでしょう。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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